誤解が生まれた。2
《シエルちゃん。残念だけど、私は助けに行ってあげれないの。でも、大丈夫。うちの子がすぐにシエルちゃんを助け出してくれるから!本当にすぐだから。だから、それまで気を強く持って…!》
しばらく、ディアナの声が途切れ、バタバタという僅かな音がシエルの耳に届いていた。
その間、ニコニコと笑っているように見える男の目が、シエルを見つめて放さなかった。
音が聞こえなくなった頃、ようやくディアナの声が聞こえた。
そして、本当に口惜しい事だと言わんばかりの、絞り出した声でディアナはシエルを力づけた。あまり、緊張感はあっても、危機感は無かったシエルは、そのディアナの励ましをきょとんとした面持ちで聞いていた。そして、ディアナの放ったある言葉に気を取られ、それは思わず普通の声をして口から出していたのだった。
「ディアナちゃんの子供が来るの?」
ディアナは「うちの子」と言った。
シエルは、それをディアナの子供だと思ったのだ。
何処にディアナが住んでいるのか、シエルは知らない。だから、ここまでどうやって来るのだろうか、もしかして近くに住んでいるのか、そんな事をシエルは考えていた。
その、ぽろりっと漏らした言葉が、目の前にいるディアナの弟と思われる男に、どんな衝撃を与えているとは露知らず。
「何?」
それは、シエルが思わず周囲を見回してしまう程、先程までの男の声とは比べ物にならない低く、重たい声だった。
周囲を見回し、豪華な部屋の中にシエル以外には男しかいない事を確かめ、シエルは男を見た。溢れんばかりの笑顔を浮かべ、シエルにお菓子を拒絶された時には憂い顔を浮かべてもいた顔から笑顔が消え、暗い影が落ちた顔を見るだけで、シエルは背筋が凍る恐怖を感じた。
シエルの視線に気づいた後は、影を落としたままではあるものの笑顔を作り、椅子から立ち上がるとシエルに向かって身を乗り出した。
「今、何と言った?」
もはや礼儀正しく、柔らかな口調ではなかった。
笑顔も、優しげで人当たりの良さそうなものではない、威圧感さえ与える引き攣ったもの。
「えっ、えっ?」
全てが突然、一瞬にして起こった豹変ぶりに、シエルは戸惑いの声を上げるしか無かった。
「誰が、来る、と?」
己の問いに答えないシエルに苛立ちを覚えたのか、その上品そうな姿からは違和感しか感じられない舌打ちを小さく零し、もう一度、シエルに自分が聞きたい事を、ゆっくりと、そして力を込めて問い掛けた。
「うちの子が助けに行くって…」
シエルはただ、問われるがままにディアナの言葉を口に上げる。
「姉上の子…」
呆然とした面持ちでシエルの言葉を聞いた後、佇んだまま何処かを見つめている男の頭に、シエルの存在は無かった。シエルの耳には届かなかったが、小さく「姉上の?」と呟いていた。
「大丈夫ですか?」
シエルが呼びかけても答えることは無い。
心配になったシエルは、どうすればいいのか、ムウロに聞こうと考えた。
先程は何だか上手く繋がらなかったムウロ。でも、男に対して怒っているような感じだったディアナに聞けるわけもなく、一か八かとシエルはムウロに呼びかけた。
すると、今度はすぐにムウロの返事が返ってきた。
《ムウさん、ムウさん。》
《あぁ、良かった。無事だね、シエル。》
ホッと息を吐く音が聞こえた。
《心配かけて、ごめんなさい。あのね、ムウさんが言ってた人だと思う、レイっていうお兄さんが動かなくなっちゃったんだけど、どうしたらいいかな?」
《うん。兄上であってると思うけど。動かなくなった?なんで?》
何があったのか、ムウロもいぶかしんでいる。でも、シエルにも理解出来ていない状況なのだ。ディアナのある言葉を伝えただけで動かなくなった。そう、シエルはムウロに伝えた。
《姉さんの言葉?》
《うん。もうすぐディアナちゃんの子供が私の事を助けに来てくれるんだって。それを教えたら…。》
《あぁ。》
シエルの言葉の途中で、すでにムウロは納得の声を出していた。
「一の兄上が動かなくなった?何、あの子ってそんなに強い子なの?」
あまりにヒースが怯え、カフカが小さな震え声で「助けて」と連呼してくる事に鬱陶しさを感じ、耐えられそうに無くなったムウロは、ヒースに手を放してもいいと伝えた。
そして、カフカには大人しくしているように指示を出す。兄レイの言うことしか聞く耳を持たないカフカだったが、ムウロの「どんな手を使ってでも、お前の迷宮壊すよ」の発言に、少なくともヒースや食堂で眠らされている人間達には危害は加えないと約束した。
カフカとヒースがお互いに体を放し、ホッと一息ついていた頃。シエルからムウロに『遠話』が繋がれた。先程からムウロも何度も呼び掛けていたのに繋がらなかった。そのシエルからの声が頭に響いた時、ムウロは少しだけ胸を撫で下ろした。
そして、シエルからのレイだと思われる人が動かなくなったという言葉。
それは口から零れ落ち、カフカも驚かせる事になる。
「…もうすぐ此処に、姉上の子が来るそうだ。」
「…あぁ。一の兄上の心臓、ちゃんと動いてるかな?」
一応、とカフカはムウロに「二番目の姉の事では無いよね」と確認を取る。だが、ムウロから返ってくるのは、長姉であるディアナの事に決まっているだろ、という無慈悲な言葉。
それが長兄にとって、どれだけ衝撃的な言葉なのか、弟達には良く分かった。
溺愛している長姉ディアナには劣るものの、母は子供達を愛していた。それは子供から見てもはっきりと理解出来るものだった。その母親をして、ちょっと気持ちが悪いかもと言わしめる程、長兄は姉を溺愛していた。最近の言葉を使えば、シスコンという奴だ。
その姉の子供がひょっこりと顔を見せるとなれば、レイが何をするか想像もつかない。だが多分、認めたくないと一騒動起こす事だけは確実だった。
「子供は…まぁ半分は一の姉上の血だから生かして貰えるよねぇ…。でも、旦那って言うのはさぁ」
「そうしたら、姉さんが本気で怒る事になるよ。」
怒り狂った姉が兄を拒絶する。
そうなれば最後だ。ムウロは巻き込まれる前に何処か遠くへと行こうと決意した。
「二の姉上も漁夫の利あたりを狙って、出てきたりしてぇ…」
「『夜麗大公』領は壊滅だね。僕の部屋の物は全部、父上の方に移しておこう。」
「あっ、ズルイ…」
「えっと、御歓談中スミマセン。"馬鹿な弟が可愛い私の友達を襲ってる"っていう現場は此処でいいんですよね?」
「先輩、その言い方はちょっと…。」
音も無く忍び寄ってきていた、目深にフードを被り、腰に剣を携えた存在が二人。ムウロと目が合うと、会釈をする背の高い者。声から察するに、女のようだった。その女の隣で、女の言葉に頭を抱えている者にはムウロは見覚えがあった。
街に来る間に乗っていた馬車に居た、聖騎士だった。




