誤解が生まれた。
「し、知らない人から貰ったものは食べたら駄目って言われてるから。」
それは本当。
嫌と言う程、言い聞かされてきた約束ごとの一つだった。
目の前の男は、すぐに憂い顔を作り出して溜息を吐き出してみせた。
「それは困った。せっかくユーリスに作らせたんだが無駄になってしまう…。」
つい最近知り合った吸血鬼の名前に、シエルはほんの少しだけ警戒を解いて、男の顔を見上げた。その名前は、牧場を経営している吸血鬼。シエルが、お菓子作りの参考にするのだという焼き菓子を届けたばかりだった。
そのお菓子は、吸血鬼としての親である、ムウロの兄レイから命令されたと言っていた。
ユーリスに作らせた。
そう言ったよね、この人…。
シエルは目の前の謎の男性が誰なのか、分かった気がした。
けれど、その名前をシエルが口に出す前に、男は一つの提案を上げてきた。
「なら、君が知っている人の関係者なら、信頼してくれるかな?」
「えっ、う、うん。」
男の提案に、シエルは思わず頷いていた。
「そうか。そうか。なら、君の力で友人達に私の事を聞いてみてくれないか?」
先程感じた甘い香り。それが再びシエルの鼻をくすぐり始めた。
なんだか、先程よりも濃く感じるその香りに刺激され、シエルは鼻を啜った。
「そうだ。何だったら、私を話に参加させてもらえないかな?」
僅かに男の金の目が輝いたように見えた。
が、シエルは気のせいかなと思うだけだった。
そんな事よりも、男に力の事を指摘された事を驚いていた。
シエルの予想が正しければ、この人は魔族。それも高い位にいる、魔族が魔界に追いやられる原因となった大戦を経験していると思われる魔族。
シエルの持っている『勇者の欠片』の事を、事も無げに口に出している事が驚きだった。
いや、ムウロとアルスもそうだった。だけど、二人が特殊なのだとばかり考えていた。
そこでシエルは思い出した。
『遠話』でムウロとディアナと話をしている最中に、背中を押された驚きで、『遠話』の回線を閉じてしまっていた事を。
しかも、最後に悲鳴を上げていた気もした。
もしかして、二人に心配させてる?
大変だ!!
シエルの顔は青褪めていった。
チラッと男を見る。
多分、大丈夫だよね。そう思い、シエルは『遠話』でもう一度ムウロとディアナに話しかける事にした。
《シエルちゃん!!大丈夫なの?怪我はしていない?変な事はされていない?》
先に繋がり、慌てた声で話しかけてくれたのはディアナだった。
何故か、ムウロは繋がりが悪いように感じられたが、ディアナの呼び声が凄まじく、そして本当に心配そうなものだった為、シエルはディアナの相手をするのに必死になっていた。
《だ、大丈夫だよ。あのね、レイさんっぽい人がトイレの中に居てね…》
《レイ?が、トイレの中に?…それって、あれよね?女性用の中にいたっていう人よね?》
シエルが自分の予想の確認を取ろうとディアナに尋ねると、それまで慌てて早口になっていたディアナの声がゆっくりと、重みを持ったものへと一気に変化した。
最後の方には、何処か凄みさえ感じられた。
《う、うん。話したら、ムウさんのお兄さんで、ディアナちゃんの弟の、レイっていう人っぽくて。》
《あらあら。フフフッ。嫌だわぁ。ちょっと困った事があっても可愛い子だと思ってたけど…まさか、ちょっと会わない内に、そんな変態さんになってしまっただなんて…》
《えっ、ディアナちゃん?》
なんだか、ディアナの声の向こう側が騒がしくなった気配を感じた。
「それで、シエルを何処に飛ばしたのかな?」
トイレのドアの前で腕を組んでイライラと足踏みしているムウロが、食堂に出来た雪原の中心でヒースによって頭を掴まれ目を合わせられ、ビクビクと怯えた表情を浮かべて固まっているカフカを睨みつける。
その様子は、まるで順番待ちをしているようだ。そんな事を疲れた始めている頭で考えていたら、それを読み取られたらしくヒースもムウロに睨まれた。
ムウロが叩こうが魔力をぶつけようが、ドアはビクともしない。
それに関してはムウロは始めから無理だと諦めてもいた。何せ、シエルを連れ去ったのは、ムウロより力も強い、格上の兄なのだ。そう簡単にムウロが打ち破れる術は使わない。
「そ、そのドアの向こう側にい、いるよ。て、転移の術とか、じゃないから。」
カフカの震える言葉は、ムウロには意外なものだった。
「兄上が来ているって事?あの兄上が?父母から貰った体ではないものに、意識だけとはいえ宿らせるなど反吐が出るって言ってた、あの兄上が?」
力のある魔族が地上に出るには、封印を潜り抜ける為に力の大半を魔界に封じて来るか、意識だけを地上に用意した形代に宿す方法を取る必要がある。
多くの魔族がそれらの方法を取って秘かに地上に出ている中、ムウロの兄、『麗猛公爵』レイはその方法を厭い、地上に出ようとはしなかった。
「お、俺も、ビックリした…けど…姉上が戻ってきて下さらないのならば私が会いに行くしかあるまいって。」
突然、引き篭もっていた迷宮にやってきたのだとカフカは言う。丁度連絡を取ろうかと思っていた所だったから驚いた、とも。
「そういえば、どうして僕達の行動を…。一応、警戒していたんだけど…」
「姉上の名前を私が聞き逃す筈がなかろうって自信満々に言ってた。」
ムウロがアルスの魔女と行動を共にしている事は噂で耳に入ることはあっただろう。その程度なら知られてもからかわれるくらいで、兄ならすぐに忘れてしまう事だ。
だが、行動やシエルについては兄の耳に入らないよう注意していた。
だというのに、どうして今回、よりにもよってディアナの手掛かりを掴めた途端に地上に姿を見せるのか。
そう思いカフカに問えば、返ってきたのは兄らしい、そして意味不明な言葉だった。
それは、目の前で鼻で笑われて言われたカフカも同じ意見だったらしく、兄弟は同時に溜息を吐き出していた。
「それにしても、吸血鬼なのに対人恐怖症って…。どうやって糧を得ているんです?」
素朴な疑問をヒースは口に出した。
吸血鬼の糧は血だ。
別に普通の食事をしない訳でもないが、血こそが命の源。普通の食事だけでは、近い将来に衰弱して力を弱らせて死んでいく。
食堂に集まっていた冒険者達を有無も言わせずに氷漬けにした様子を見る限り、目の前にいる対人恐怖症だという吸血鬼は弱っている様子は無い。
「雪で凍えさせて眠った時とか、後ろから殴って気を失わせてとか…」
「だから、過激で引き篭もり…」
頑張って目を逸らそうとしているカフカが、サラリとヒースの疑問に答えた。
その顔に、悪気などは一切無い。
恐怖に怯える人間の首筋に噛み付く、などの伝聞や話に聞く吸血鬼の姿がガラガラと崩れていく音が聞こえた。後ろから殴って、などという方法は普通に通り魔でしかない。
ヒースはディアナに聞かされた弟の話を思い出した。
「いや。それは最近の方法だよ。過激だったのは昔。姉上を驚かせて、兄上に止めさせられた方法があったんだ。」
通り魔よりも過激。
どんな方法なのか。好奇心が抑えきれず、ヒースはムウロに聞いてしまった。
「目を抉るんだよ。」
「はっ?」
「対人というより、視線が嫌なんだって。だから、出会う奴、出会う奴、目を抉って自分に視線を向けないようにしてるんだって昔、ね。」
そんな危険な存在の顔を掴んでいるのか、自分は。ヒースは手を放して逃げ出したくなった。だが、ムウロの言葉に反して、手を離し、目を合わせる事を止めた時、何が起こるのか。それが怖くて、ヒースは実行することが出来なかった。
ヒースとカフカ。
二人が恐怖に震え固まっている姿を他所に、ムウロはトイレのドアの前で唸っていた。




