姉弟の攻防
まずは食事にしようか。
ヒースが案内した宿屋には食事が取れる場所が二ヶ所用意されていた。
一つは食堂。多くの宿泊者達や食事を目的に訪れた客が並ぶテーブルに、顔見知り以外とも席を共にして、食事を楽しんでいる。
そして、二組だけ事前に予約を入れることで利用出来る個室が食堂の奥に造られていた。食事や宿泊代とは余分に、それなりの値段を要求する個室の利用をするものはそう多くない。そういう値段を支払うような人間は、この宿よりも値段の張る、格式の高い宿を使うものだし、そんな資金があるのなら王都の中で味わえる享楽へと使いたいと思うのが、このドルテの王都へやってきた者達の考えだった。
シエルとムウロは、ヒースが名乗っただけで従業員によって、その個室の一つへと案内された。
シエル達が来る前から予約を入れ、正門へ向かう前に連絡を取っていたようで、個室の中に置かれた一つのテーブルにはすでに食事が用意されていた。スープなどの温かなものからは湯気がたっぷりと上がり、お腹が空いていたシエルを一瞬にして笑顔にさせていた。
いただきます。そう言って、席に着いてすぐにヒースに促され、シエルは食事に手をつけていた。そんなシエルにムウロは声を掛け、この王都までやってきた理由を思い出させた。
「そうだった。ヒースさん。これがお願いした"愛の毒"っていう薬なの。」
食事の手を止め、シエルは籠から次々と小瓶を出し、皿が置かれていない位置に並べていった。
一本、二本…五本まではヒースも平然とした顔をしていた。
しかし、それがどんどんと並べられていき、全てで24本となった時には頭を抱えていた。
「たくさん、あるんだね。」
「うん。届けた材料を少し使っただけで、こんなに出来たんだって。マリアさんが薬師の広報で作った事を発表するから、その後にマリアさんの名前を出して売ってもらえって。」
頼める?
シエルは首を傾げてヒースを見た。すでに頼み此処まで来たのだが、小瓶の量に顔を顰めているヒースの様子に、面倒くさいと思われたのだろうかと不安を覚えてのことだった。
「あぁ、ごめん。大丈夫だよ。少し驚いただけだから。分かった。そのマリアという薬師の言う通りの手筈を整えるよ。」
ドルテ王国を中心となって起こっている流行があれば、小瓶を見せた途端に24本という数なの瞬く間に売り切れてしまうだろう。
それでも、一本や二本だけだと思っていたヒースにとっては、量が多いことは良い事だ。
より多くの、関係者を引き摺り出すことが出来る。
享楽を売り物にしている国であり、街ではある。だが、そこに自分の意思があって初めて、楽しい、面白いという気持ちが生まれるのだ。薬で奪われた自我でもたらされた享楽などで、どうして次も訪れようと思うのか。むしろ、その被害が拡大してしまえば、安全に享楽に浸れるという街のイメージが崩れ、訪れる客が減り、国の収入が失われてしまう危険が高い。それは、ヒースにとって何としても避けなくてはならない事態なのだ。
すでに、シエルから預かった"愛の毒"をどう使うのか作戦は立ててある。その用意も整えてあった。シエルから伝えられた製作者の要望など些細なものだった。計画に支障は無い。
あるとしたなら、今日の昼頃に神聖皇国からもたらされた不穏な警告。5人もの聖騎士が王都へ入り警戒している情況は、神聖皇国が察知した事態がどれだけ正確で、異常な事態なのかを思い知らせる。
「それでね、ムウさんもヒースさんにお願いがあるんだって。」
「えっ?あぁ、はい。何でしょうか?」
物思いに耽っていたヒースに、シエルの声が唐突に届いた。驚き、顔を上げ、深く考えることもせずに返事を返してしまった事を、後からヒースは少しだけ後悔することになる。
ヒースがムウロに顔を向ければ、ムウロはシエルに対して向けていた笑顔を消し、真剣な面持ちでヒースを見据えていたのだ。
「シエルから、貴方がディアナという女性の居場所を知っているようだと聞いたので。それを教えて欲しいんだ。」
それはヒースの心臓を大きく跳ねさせた。
シエルの友達の一人であるディアナという女性を、ヒースはよく知っている。シエルを通して声だけ知っていたディアナと現実に出会う事になったのは本当に偶然だ。いや、近くにヒースが来ている事を感じ取ったディアナが仕組んだとも言えるかも知れない。知りたくもない事を知ってしまったヒースを慰めてくれたのは、ディアナの所業を詫びた彼女の息子だった。彼とはそれ以来、飲み友達のような関係を築いていた。
「…何故ですか?」
ディアナの事はあまり口外にはしないように。そう、友から頼まれているヒースは警戒を隠すことなくムウロを睨みつけていた。
ヒースの目端に映りこんだシエルは、すでに食事を再開し夢中になっており、ヒースは剣呑の雰囲気さえ惜しみなくムウロに向けていた。
「…ディアナは僕の姉。音信不通で行方を晦ませている姉をずっと探していたんだ。」
ヒースの態度に、ディアナの居場所を知っていると確信したムウロは嘘偽り一つ口にはせず、ヒースを見据えることにした。
嘘だと分かれば、口を閉ざしてしまう人間だとヒースを判断した。
無理矢理、口を割らせる事も出来るが、それをすればシエルや姉を怒らせ、嫌われてしまう。ムウロはそれだけは避けたいと思ったのだ。
「…待った。待ってもらっても?」
ムウロの言葉に嘘は無いと、ヒースは判断した。そして、迷っていた。
「…分かりました。ですが、彼女に聞かないことに話すことは出来ません。なので、シエルちゃんの力で彼女に聞いてからで。彼女の説得は御自身でお願いしても?」
「…いいよ。ここまで来れば、姉さんも覚悟を決めてくれるだろうし。」
ヒースの提案をムウロは呑んだ。
のらりくらりとシエルを通じて話掛けてくるムウロをかわしてしるディアナだったが、尻尾を掴む寸前まで来ているのだと分かれば、ムウロに会うくらいはしてくれるだろう。ムウロはそう考えた。
「それで一つお聞きしますが…。可愛いけどちょっと困った弟、ちょっと不運で不憫な弟、過激な引きこもりの弟。貴方はどれになりますか?」
「二番目、だね。」
ヒースの言葉はディアナが語った言葉そのままだ、とヒースは弁解しながらムウロに問い掛けた。
「酷いよ、姉さん…」
自分がどれなのか。他二つの選択肢が兄レイと弟カフカに当たるものだと瞬時に判断したムウロには、すぐに返答出来た。しかし、不運で不憫、その言葉はジワジワとムウロの心を傷つけた。
「どっちが、レイさんなのかな?」
食事をしながらも二人の話を聞いていたシエルが、色々と困ってしまう話を聞くムウロの兄を指すのがどちらなのかと聞いてきても、答えることが出来ない程にムウロは落ち込んでいた。
「ならいいです。でないと、今、王都内を巡回して貰っている聖騎士達を呼ばなければいけない所でした…。」
「…あぁ、知ってるんだ。」
何とか心を持ち上げたムウロは、ヒースが自分が魔族であると知っている事に、その言葉から読み取り感心した。笑顔を浮かべてムウロに向き合う姿に、一応は名の知れた爵位持ちであるムウロに対して怯える様子は無い。
「えぇ、知ってます。知りたくも無かったですがね。」
「それじゃあ、ディアナちゃんに繋げればいい?」
「お願い。」
個室を用意しておいて良かった。
ヒースは力を使おうとしているシエルと、これから行なわれる不可思議な光景を考え、自分の準備の良さを褒め称えていた。
《えぇ、どうしようかしら。》
シエルが繋ぎ、ヒースによって問われたディアナは声からもありありと分かる難色と示した。
《姉さん!いい加減に、一度でいいから顔を見せるくらいしてよ。魔界に行くのが嫌なら、地上で兄上と少しだけ顔を会わせるだけでもいいから。そしたら、少しは落ち着いてくれるだろうし。地上なら、兄上の力も抑制されるから安心でしょ?》
《別に皆に会いたくない訳じゃないのよ?母様にだって会いたいし、…会わせたい人もいるし。でも…やっぱりねぇ…》
《ちょ、ちょっと待って。会わせたい人って。いや、姉さんにそういう人が居てもおかしくないけど…。やっぱ、いい。姉さん、この話は無かったことにしよう。いや、地上で会って、その話をしないようにすれば…》
《ほら、ムウロもそう思うんじゃない。》
「…ヒースさん。お手洗いって何処かな?」
姉と弟の会話は途切れることは無い。
こうなれば、他人であるシエルやヒースの口の挟むことではない。
シエルは静かに立ち上がると、ヒースにトイレの場所を聞いた。
「この個室を出て右に行った所だね。これって、シエルちゃんが近くにいなくても大丈夫なもの?」
「大丈夫だと思うんだけど…」
確信は無い。でも、何となく大丈夫だと思い、シエルはムウロに気づかれないように個室を後にした。




