嫌な予感
「シエルちゃん?」
「こんばんは、ヒースさん。」
二人に向かってきた男の声は、シエルにとって聞き覚えのあるものだった。何より、シエルを真っ直ぐに見て首を傾げながらシエルの名前を呼んだ。
シエルは、男が話し友達であるヒースであることを確信した。
ヒースも「こんばんは」と挨拶を返し、その後に照れ臭そうに「初めまして、はオカしいかな?」と笑いかけてきた。シエルも、ヒースのその言葉に顔を赤らめて恥ずかしそうにした。
これまで『遠話』で声で色々な会話をしてきた相手ではある。それでも、そういう相手と姿形、顔をこうして向き合わせる事は初めての体験だった。シエルは気恥ずかしさを感じていた。そして、思わず隣に居たムウロの背後へと体を潜らせた。
「よく分かったね。」
ムウロは、そんなシエルを微笑ましく思いながらも、正門を出た後に真っ直ぐとシエルとムウロに向かってきたヒースに疑問を投げ掛けた。
まるで、シエルの顔を知っていたのではと思える程、迷いの無い歩みだったのだ。
「あの列に並んでいないのは貴方達二人だけですからね。」
そう言われて、あぁと思ったのはムウロだけでなく、ムウロの後ろで顔だけを覗かせていたシエルも同じだった。
日が暮れる前に、と我先に正門の前に連なって並ぶ人々の姿はまるで蛇のようにシエルには見えた。その列に加わっていないのは、シエルとムウロだけ。その他にも居るには居るがお仕着せの制服を身に纏っている者達ばかりで、正門の受付などに関わっている王都の職員だと思われた。
「貴方は?」
「シエルの付き添いのムウロです。」
ヒースに問われて、ムウロはすぐに答えた。
簡単な説明ではあったが、シエルが心から信頼していると見える様子も相まって、ヒースは深く頷き、そして安堵の息を吐き出した。
「あぁ、それは良かった。王都で観光でも楽しんで貰おうと思って案内する者を用意しておいたのですが、急遽他に回さないといけなくなったのでどうしようかと思っていたんですよ。」
治安が守られている事。それが観光で大半の収入を得ていると言っても過言では無い王都の最重要課題だった。けれど、商っている物などがキワドイという一面もある遊覧街がある為、無知な子供が一人で出歩いて安全かと言われれば、否としか言いようが無いのも仕方が無い。ヒースが一目見ただけではあるが、それなりに腕が立つだろう、そんな気配のあるムウロが居てくれればシエルが王都で出歩いていても安全は保障される事だとヒースは胸を撫で下ろした。
「シエルちゃん。宿を用意しておいたから、まずは移動しようか。」
『遠話』で交わしていたような、気安い口調でヒースはシエルに声をかける。年も立場も関係無く、ただ会話を楽しむだけの楽しい関係を壊すつもりはヒースには無かった。
「列に並ばないでいいの?」
初めて顔を合わせた相手。しかし、今までと何も変わらない態度などから、感じていた恥ずかしさも吹き飛んだシエルもようやくムウロの背中から抜け出していた。
そんなシエルとムウロを引き攣れ、ヒースは人々が長い待ち時間にイライラとし始めている列を横目に正門へと近づいていく。
正門を警護している衛兵達も、ヒースに注意する声などをかける様子も無く、ただ目礼をするだけで三人が正門を潜っていく様子を見送っている。
「大丈夫。話は通してあるから。あれに並んでいたら、日が暮れてしまうよ。今日は特に厳しくなっているからね。」
すでに空では星が見え隠れし始めていた。
確かに、今から列の最後部に並んだら、正門を潜る頃には完全に陽は暮れているだろう。
「普段はあんなに長い列じゃないんだよ。」
シエルは見た事も無い長い列に呆気を取られて見ていた。
ヒースは、口をぽっかりと開けているシエルの顔に笑いを零し、そして溜息を漏らした。その顔には僅かに疲れが見え隠れしている。
「何かあったのかな?」
先ほどのヒースの言葉といい、今の言葉、溜息といい、何か異変があったのだと察したムウロがヒースに尋ねていた。
「今日の昼頃に神聖皇国から通達があったんですよ。この国に『公爵位』の強い気配が干渉しようとしていると。近くにいる聖騎士を派遣してくれてはいますが、こちらはこちらで出来る事をしなくてはいけませんからね。」
ヒースは声を潜める。本当ならば説明する必要の無いことだ。王都でも一般市民にも知らせていない。けれど、ムウロには話てもいいだろうと、ヒースは何故かそう感じ、簡単に口を開いていた。
「公爵位?」
ヒースの話を大人しく聞いていたシエルが小さく呟き、そしてムウロを見上げた。
見上げたムウロは、とても嫌そうな顔をしていた。
それからムウロは一言も発することもなく、シエルの手をしっかりと握りしめたまま、人混みを進むヒースの後を歩いていた。
「あぁ、この宿だよ。王都でも人気がある宿なんだよ。」
ヒースの言葉通り、建物の中から活気のあるザワメキが漏れ出てくる一軒の宿屋に、何時の間にか辿り着いていた。その間、ムウロは嫌そうな顔をしたまま無言を貫き、シエルはキョロキョロと王都の街並みを楽しんでいた。思考の淵に陥っているムウロがもしもシエルの手を繋ぐことを忘れていれば、シエルの姿はとっくの昔に影も形も無くなっていたことだろう。
ヒースが宿の中へと入っていった。
その姿が扉によって遮られた時、ようやくシエルはムウロに聞くことが出来た。
「ムウさんの知り合いなの?」
ムウロは伯爵位。けれど、両親が大公位なのだ。公爵位に顔見知りが居てもおかしくは無いとシエルは思っていた。
「一応、公爵位は全員顔見知りではあるけど…そこまで地上に興味がある面々で今動けそうなのが居ないんだよね。それに…何か嫌な予感がする。姉さんの事を知れるかも知れないという時に公爵…兄上かなぁ…」
姉に関しては地獄耳を通り越して、気持ちが悪いと母にまで称される兄『麗猛公爵』レイのような気がして仕方が無い。さっさと話を聞いてシエルと共に王都を出て行った方がいいかも知れない。そんな事をムウロは考えていた。
「閣下。聖騎士アベル、ドルテの王都に到着しました。これより、任に就きます。」
「そうか。ご苦労。…何かあったのか?」
「えぇ、まぁ…。ちょっと、どうしようかという二人組を見掛けたのですが…」
「なんだ、はっきりしろ。」
「シエルっていう女の子とムウロという青年なんですけど…」
ガタンッ
通信具の向こうから、物が落ちる大きな音がした。
あぁ、やっぱりとアベルは思った。
馬車の中で、もしやという感覚を覚えた。気になった事もあり、そして二人がドルテの宰相と親密な雰囲気だった為不思議に思い、バレない程度離れた場所から話を聞いていた。そして、知った二人の名前。
どうも、聞き覚えのある名前に嫌な汗を流したのだ。
そして、それが正解であったと今確信出来た。
「その二人から目を放すな。」
「分かりました。」
「頼んだ。なるべく悟られぬよう……ちょっと、大人しくしていて下さい。」
通信具の向こう側で誰かと話を始めた。その相手が誰なのか、アベルには察する事が出来る。頑張ってください。そう心の中で応援しながら、通信具を停止させた。




