契約の時
二話目。
「じゃあ、契約するか。」
アルスの只の一声で、アルスとシエルだけを残した、真っ暗な空間へと変化した。
キョロキョロと首を動かし、シエルは先ほどまで近くにいた両親や村人を探したが、そこになるのは何もない空間だけだった。
「悪いな。あんな所じゃあ、元の姿になるわけにもいかねぇだろ?」
人間の姿をしていても、普通よりも大きな身体だった。アルスが立っていたその場所に、シエルが瞬きする間に、それよりも大きな、フサフサの毛が銀色に輝く巨大な狼が姿を現していた。
「尻尾。」
巨大な狼の身体と同じぐらいの長さがある、尻尾にシエルの視線は釘付けになった。
「母親と同じこと言うなよ。」
「お母さんにも見せたの?じゃあ駄目だよ。お母さん、モフモフしたもの大好きだもの。」
疲れが溜まると、いつもの無表情を変えることなく、日向で寝ていた近所の犬とかを抱きしめていることがある。
「最初の頃は耳と尻尾は出したまんま獣人のフリしてたんだよ。ふと気がつくと、包丁握ったまま尻尾見てるのに気がついてな。あん時は肝が冷えたぜ。それからは、完全に人間の形を取るようにしてた。」
狼の口角が大きく割れて上がっていく。多分、笑っているのだろう。
「契約ってどうやるの?契約については、この本にも書いてなかった。」
何もかも消えた空間だが、手に持っていた本だけはしっかりある。
「そりゃあ、そんな方法書いてあったらヤバイだろ。書いた奴が魔女か、魔女の知り合いがいるか。どの道、本ごと存在を消されてることになるじゃねぇか。」
「それも、そうだね。」
「だから、迷宮の中とかで冒険者に遭遇した時とかは本当に気をつけろよ?俺の名前を呼べば、駆けつけるか、誰かを差し向けるけどよ。俺の尻尾の為にも頑張れよ?」
何の力もない母の言った事を、どれだけ怖がっているのだろうか。大公の威厳も何も無いなと呆れる。
「契約の方法は簡単だ。互いの名前を交換して、お前が俺に血を捧げるんだ。ただし、契約の時は本性じゃなきゃ駄目でな。血は一滴でいいからな、指先齧っとけ。ほら、お前から名前を言え。」
アルスに指示された通り、シエルは人差し指の先を齧り、血を滲ませた。
「シエル・ホールソン。」
「魔界大公『銀砕』 アルシード」
名前を言い、アルスが大きな舌で差し出された指の先を舐める。
「ほら。これで終わりだ。」
光が飛び散るとか、魔方陣が現れるとか、魔術師が書いた本などに書いてあった表現を楽しみに待っていたシエルは拍子が抜けた。
「えっ?コレだけなの?何にも起きてないよ?」
「お前に魔力を見る目とかがあればビックリするくらいな変化が分かったんだろうがな。本当に、魔術の才能は皆無だよな。魔力の少なさといい、人間でも滅多にないくらいの少なさだぞ?」
「でも、魔女になったんなら魔術を使えるようになるんでしょ?」
期待を込めたシエルの声。
「あ?なんねぇよ。」
「えぇ、なんでぇ?」
シエルの期待を下げるのは、今日だけで何度目のことか。そろそろ、アルスはシエルの落胆した表情を見るのが楽しくなっていた。グルルと喉が鳴る。
「お前を護る契約の方に力注いだから、そっちには回してねぇよ。」
瘴気を大丈夫にしただろ?怪我がすぐに治るようにしただろ?俺の配下になら命令出来るようにしておいたし、攻撃されたら身体の周りに結界が出るようにしたし。
アルスが言うことは全て、シエルを護るものだった。
「むぅ。」
魔術を使ったりするのも憧れていたことではあった。けれど、まぁ迷宮の中で冒険が出来るってことだけで満足するか、とシエルは考えた。
「迷宮の中に、魔道具とか作るの得意なやつらがいるから探して、使用者の魔力が必要ない魔道具貰ってこればいいんじゃねか?迷宮に潜るんだから、そういう楽しみもなくちゃな。」
グルグルと喉を鳴らし、シエルなら食いつくであろう情報を流す。
「私、頑張る。」
案の定、アルスに乗せられたシエルは拳を振り上げ、その心はすでに迷宮の中に。
「さて、戻るぞ。」
周囲が一瞬にして、先ほどまでと変わらない食堂のものへと戻っていく。
アルスの姿も人間のものに戻り、村人たちも両親も、暗闇に移る前と一ミリたりとも変化していなかった。
ただ一人、シエルだけが拳を天に突き上げた姿でニコニコと笑っている。
「おめでとうさん。」
「これからは迷宮の中で欲しいものがあったら、シエルに頼べばいいんだな。」
「こいつの事だし、アルスの護りがあっても絶対に怪我するぜ?賭けるか。」
「そうだな。骨くらいは折るだろ。酒一本賭けるわ。」
「わしは噛み跡に酒一本賭けるぞ。」
「じゃあ、大穴で無傷に一本な。」
無礼なことを言い出す外野を無視して、シエルはヘクスの元に駆け寄った。
「お母さん。私、お仕事頑張るね。」
「気をつけてね。あまり変わらないのね、魔女って」
「そういえば。本によれば何処かにアルス様の紋章っていうのが出てくるらしいけど。何処に出てるんだろ?夜、お風呂入る時に探してみよっと。」
母に言われて魔女とバレる危険がある紋章の事を思い出し、自分で見える範囲の腕や足、服を捲ってお腹などを探すが、見当たらない。
シエルが夜の風呂場で探すことにして、捲った服を元に戻した。
「シエル。これは餞別じゃ。毒消しに傷薬、回復薬。お前には必要ないじゃろうが魔力を回復させる薬も入れておいた。入るだけ入れておいたから、迷宮の中で売ってきても構わん。その時は、しっかりと私の店を宣伝してくるのじゃぞ?」
「これは荷物を入れる籠ね。魔物化した植物で編んだ籠だから、とっても丈夫。オババの薬も入れておくわ。ホグス爺さんに頼んで軽量化の魔法編み込んでおいたから、どんなに物を入れても重くないから。」
「これは、使う必要はないだろうが、お前に一番使いやすいサイズのナイフ。鉄でも切れるくらいにしてあるからな。誰かに聞かれたら、うちの名前を言うんだよ?」
「じゃあ、私はこの頭巾をあげるわ。赤色なら、どんな場所でも目立つでしょ?貴重な糸とか使ってるから、ナイフとかで切られても大丈夫よ?聞かれたら宣伝しておいてね。」
村の男衆が大盛り上がりで勝手にシエルで賭けをしているのを横目に、女衆はシエルのもとにそれぞれの家で扱っている商品を持ち寄ってきた。
薬師のオババ、小物屋をしているセイ、鍛冶屋のガースの娘で売り子をしているシャラ、洋裁屋を営んでいるリアラ。
オババとセイは薬の小瓶が大量に入った籐の籠をシエルに手渡し、その籠の中にシャラが一本のナイフをしまい、リアラがシエルの右肩に纏めた髪を素早く解いて、肩で二つに結びなおして頭からスッポリと真っ赤な頭巾をかぶせる。
後に、『銀砕の赤頭巾』と呼ばれることもあるかも知れない、『配達屋シエル』が誕生した瞬間であった。