土下座
少女によって窓から垂らされた縄。
シエルは、どうするのかとムウロに聞いた。
この四方の壁によって閉ざされた空間から出る方法は、確かに縄の垂らされた窓しかない。ムウロならば、青い空が見える上空へと飛んで出ることも出来るが、それをすれば大きな騒ぎになる可能性もある。誰にも気づかれていない時ならいざ知らず、すでに少女によって二人が居ることは知られている。これで二人の姿が無くなってしまえば、少女も驚くだろう。
「まぁ、お言葉に甘えて家にお邪魔させてもらえばいいんじゃないかな?」
ムウロはそう言うと、シエルに背中を向けると腰を屈め乗るように促した。
シエルも、ムウロの指示に躊躇うことなくその背中に乗って、首に腕を回してしがみ付いた。
しっかりとシエルがしがみ付いた事を確認したムウロは、垂らされた縄を手に持ち、壁を足場にしてヒョイヒョイと窓に向かって登って行く。
「ムウさん、凄いね。」
あまりにも簡単に、平然とした顔で登って行くムウロに、シエルは感嘆の声を上げた。ムウロは、そんなシエルの反応に、ムウロが人では無い事を忘れているんじゃないのかと思い苦笑を浮かべた。
シエルにしてみれば、そんなに力を込めているとは思えない様子でシエルを背負っているにも関わらず簡単に登って行く様子に素直な驚きを持っただけだったのだが、実のところ、ムウロは腕に力は入れていなかった。「実はね」
それを教えたら、どんな反応をするのだろうかと思い、ムウロはシエルにだけ届く声を出して説明した。
「足に力を集めて壁にくっつけてるんだ。だから、実は言うと手を放しても関係ないんだよね。」
そう言って、ほんの少しだけ、シエルに見える程度に縄から片手を離して見せたムウロ。
「!!んん。んん。」
シエルは、ムウロの背中から縄から離れた手元を見ることが出来た。
驚き、そして口を閉ざしたまま叫んでいるシエル。
「何してるの?」
普通に「凄い」と驚く姿を想像していたムウロは、声を抑えて興奮しているシエルに笑いが込み上げ、問い掛けた。どうして声を抑えているのか、と。
「…ぷはぁ。だって、大きな声出したら、さっきの人に気づかれちゃうでしょ?せっかく、ムウさんが私にだけ教えてくれたのに、勿体ないもん。」
「アハハッ。」
確かに、あの少女が何者か分からない内は、あまり人から外れた行動はしない方がいいと声を潜めたムウロだったが、勿体無いという言葉を使うシエルが面白くて仕方が無かった。
先ほどまで潜めていた声を元に戻し、声を出して笑っていた。
「ねぇねぇ、それって私にはやっぱり無理かな?」
出来ると言われたら、すぐにでも挑戦したいと考えている事がよく分かる声だった。
今、シエルの顔をムウロが見ることが出来たのなら、その顔が笑顔を浮かべて目を輝かせているのだと考えつけるような声だった。
「そうだね、シエルの魔力じゃちょっとね。でも、迷宮の一つに、上下左右が可笑しくなってる場所があるから、そこでならシエルも壁を歩けるよ。今度、行ってみようか。」
「うん!」
その迷宮に行くには、ちょっと大変な道のりがある。けれど、それくらいの苦労は買って出てもいいと思う程、ムウロはシエルの反応に可愛いなぁと心を和ませていた。
縄を伝って辿り着いて窓を潜ると、机とベット、本棚などが置かれた素朴で綺麗に片付けられた部屋だった。そして、その中心の木の床に先ほどの少女がいた。
彼女は、遠い異国の民族が行なうという、こちらに向かって正座をして、手の平を床につけて額が床につくまでに伏せたまま動かない"土下座"というものをしていた。
「えっ、な、なんで?」
「さぁ?」
あれって"土下座"だよね。とシエルは驚いている。そして、ムウロにどうして少女がそんな事をしているのか聞くが、ムウロだって分からない。ムウロが前にこの地に来たのはシエルに説明した通り100年も昔の事だし、その頃に只の人間だと匂いで判断した少女が生きている訳がない。初対面の相手に"土下座"をされて驚いているのはムウロも同じだった。
「とういか、よく"土下座"って知ってるね、シエル。」
時々、国の位置や名前など常識に近いものを知らないのに、変な知識を持っているシエル。この"土下座"なんて、シエルの住んでいる帝国からは人にとっては半年以上かかった上に海を渡った場所にある島の少数民族の習慣だ。ムウロは不思議でならなかった。
「最近読んだ物語で出てきた人がやってたんだ。一番凄いの謝罪方法だって書いてあったんだけど、違うの?」
「いや、当ってるよ。へぇ、そんな物語が出てるんだね。」
シエルの言う本をちょっと読んでみたくなったムウロだった。
「私も同じ本を読みました。」
平伏したままの体勢で、少女が口を開いた。
「本当に申し訳ありませんでした。ご先祖様に代わって御詫び致します。」
「いや、何に対して謝られてるのかをまず説明してくれないと。」
少女が堅苦しい言葉で、重々しい空気を放ちながら謝罪する。
けれど、それを向けられたのが自分だと分かるものの、何に対してなのかムウロは分からずにいた。
「ムウさんの家の事なんじゃないの?」
「えっ?あぁ。…えっと、まずは顔を上げようか。」
シエルに指摘されて、ようやく理由になり得るものに思い至った。そういえば、先ほどもそんな話をシエルとしていて、少女に声をかけられたのだ。壁を登っている時のシエルとの会話が面白くて、すっかり忘れていたムウロ。
それを思わず口にすると、シエルが小さく「呆け?」と呟いた。その呟きに顔を引き攣らせたムウロが必死に否定している間に、少女は平伏していた顔を上げていた。
シエルよりも年上だろう少女は緊張した面持ちでシエルとムウロを見上げていた。
目端の利くムウロも、今はシエルに向かって否定と注意をすることで気づくことはなかった。
顔を上げた少女の口元は、ピクピクと動いている。それは、二人のやり取りを前にして湧き上がってきた笑いを必死に堪えている姿だった。




