良い子は寝る時間
「おまたせ~」
手の平に治まるほどの大きさの瓶を何本も腕の中に抱え込んだマリアが意気揚々と台所に戻ってきたのは、二時間程経った頃だった。
部屋の中で何をしていたのか。ボロボロに汚れて草臥れた服に髪、外に出ている肌という肌には煤が付いて黒くなっているところもあった。
「あれ?シエルちゃん?」
台所のテーブルに、椅子に座ったまま体を伏せてスヤスヤと寝息を立て眠っているシエルの姿がマリアの目に入った。
その姿を見て、自分が長い時間シエルの事を忘れて没頭していたことに気がつき、マリアは情けない声を上げた。
「あちゃぁ。ベットに案内しておくんだった。」
テーブルの上に、シエルの体にぶつけて起こさないよう慎重に、小瓶を置いていくマリア。
その数十本の小瓶の中身が、シエルに依頼して届けてもらったラブポイズンという名前のキノコを使ってマリアが作った『愛の毒』だった。
マリアは台所の壁に開く窓に目を送る。
外は、木々の影の合間から降り注ぐ淡い光で溢れている。
「シエルちゃんって迷宮に慣れてないのかぁ~。悪い事したかなぁ。」
冒険者の中でも、経験の少ない新人が起こす勘違いをシエルがしている可能性に思い至り、マリアは苦笑を浮かべた。この第7階層に辿り着けるような冒険者にそんな冒険者が迷い込む可能性はほとんど無かったが、迷宮内の魔族達から流れてくる噂や、薬師協同組合の都合で地上へ出掛けた時になどに知った話で、マリアは迷宮の中の普通が地上の普通でないことを知ることになった。
それと同じ。
これもシエルにとっては良い経験になるんだから、別に怒られないよね。
マリアに、シエルの主人である『銀砕大公』の怒りを買うのではないかという不安が押し寄せていた。
それでも少しだけ不安に襲われたマリアは、怒られないように努力はしよう考える。
マリアは、眠っているシエルの体に手を回し、よいしょ、と抱き上げた。座ったまま眠らせるよりは、ベットに運んでゆっくりと眠らせてあげよう。そう考えたのだ。
だが、マリアは薬師を生業にしている、村人公認の半引き篭もり。マリアの半分しかないシエルの体を軽々と持ち上げる力は持ち合わせていなかった。
持てないという程ではない。
しかし、シエルの体を持ち上げた途端にフラフラと体勢を崩しそうになり、何とか足元に力を入れることで持ち直すことが出来た。
「ん。」
元々慣れない体勢で眠りの浅かったのかも知れないが、その不安定な体勢と動きによってシエルが目を覚ましてしまったのだった。
「あぁぁ。」
不甲斐ない自分に唸り声を上げたマリア。
その声で、シエルの目覚めを後押しした事に気づくことはなかった。
「あっ、ごめんなさい。」
数回瞬きをして、周囲を見回したシエル。マリアの顔を見上げたのは、それらを二回ほど繰り返した後だった。マリアに抱き上げられている状態をようやく認識したシエルはマリアに謝った。シエルの意識がしっかりとしていたと判断したマリアはシエルを床に降すことにする。もうすでに、マリアのあまり力があるとは言えない腕が限界を迎えようとしていることが顔に出ないようにと注意しながら、マリアはシエルに「いいのよ~」とニコヤカに告げて、床へと降ろしたのだった。
「本当に、ごめんなさい。」
もう一度謝るシエルの顔は、恥ずかしくて仕方ないという真っ赤に染まっていた。
「いいの。いいの。だって、こんな夜中だっていうのに台所に置いたまま作業に没頭してた私が悪い。」
「夜中?」
マリアの言葉にシエルは窓に目を向ける。
窓からは光が差し込んでいる。その明るさは、昼のもの。マリアの言う、夜中という言葉は当てはまらないような気がした。
でも、シエルはある事に気づいた。
そういえば、今日はどれくらい起きてるんだっけ?
一度そう考えてしまえば、なんだか一日が長かったように感じ始めたシエル。目をマリアに戻して、どういう事かを尋ねる事にした。
「あと二時間くらいしたら朝になる時間だね、今。」
マリアが言うには、普段のシエルならぐっすりと熟睡している時間だった。
「外、明るいよ?」
「この階層って、地上みたいに夜に暗くなるって事はないからね。」
「そうなの?」
朝に明るくなって、夜には暗くなる。
そうなるものだと思っていたシエルには考えられない状況だった。
「迷宮の中だと、そういう所も多いんだけど…。シエルちゃんはまだ経験無かった?っていうか、もしかして知らなかったとか?」
「普通に明るくなったり暗くなったりするんだと思ってた。でも、なんかそんな事を聞いたことがあるような…」
なんだか、勉強を教えてくれていたハグロ先生の顔やアルスの顔がシエルの頭を過ぎったのだが、シエルは知らなかったのだと自分を納得させた。
教えられた事を忘れていたなんて、アルスはいいとして、ハグロ先生に知られれば何を言われるか分かったものではない。シエルが貰った本などよりもずっと難しい本を積み上げられて勉強のし直しを命令されるかも知れない。シエルは、今過ぎった全ての考えを振り払うように頭を思いっきり振ることにして、実行した。
「冒険者の新人がよくやる間違いなんだって。地上とは違う時間の流れとか環境、階層ごとに一変することもある光景。そんな混乱を乗り越えて、ようやく一人の冒険者として認められるんだって。」
突然、頭を降り始めたシエルにマリアは慰めの言葉をかけることにした。
「だから、シエルちゃんももうすぐ皆に認められる冒険者ってことだよ。」
そのマリアの、マリア自身もあまり理解せずに放った慰めの言葉で、シエルは目を輝かせていた。
「そっか。うれしいなぁ。」
ウキウキとはしゃぐシエルの姿にマリアはホッと胸を撫で下ろした。
『銀砕大公』の加護を得る、一部噂では寵愛されているという魔女を放置して、台所で椅子に座らせたまま眠らせるなんて行為。そんな事をしたことを咎められないよう、シエルの機嫌を取っておかなくては。マリアの思いは通じ、シエルは上機嫌になっている。
『銀砕大公』の迷宮に住む身ではあるものの大公本人を直接知らないマリアは、アルスに罰せられるのではないかと本当に怯えていたのだ。マリアにとっては嬉しい限りの事だった。
「冒険者として認められるって事は、頑張ったらヒースさんの所にも一人で行けるかも。うん、頑張ろう。」
意識していなかったものの寝不足の状態に陥っているシエルの考えは、何時も以上に危ういものとなっている。マリアに届かない小さな声で、シエルはマリアの家を出た後の予定を決めていた。




