シエルのお願い
ドルテ王国のある建物の中でのこと。
机に向かい、右手でペンを持って書類にサインをし、左手で運ばれてきたお茶が入ったカップを口に運んでいた。
男が目を通しサインしていった書類を集め、順番に、運んでいく場所ごとに分けていく役目を任されていた青年と、また新しい書類を運んできた壮年の男が部屋の中にいた。
淡々と進む、何時もと同じ光景が部屋の中に広がっていた。
ぶふぉ
そんな音が聞こえた時も、青年は書類を選別する作業に集中していたし、壮年の男は書類を男の机の上に置いて部屋を去ろうと背中を男と青年に向けているところだった。
その為、その音が何の音だったのか、しばしの間判断する事が出来なかったのは仕方ないことだろう。
「ひ、ヒース様!?」
「な、まさか毒が!!」
それは、机に向かってペンを動かしていた男が、口に含んだばかりのお茶を噴出し、広がっている書類を茶色く染め上げている姿だった。
ゴホッゴホッ
「いや、大丈夫だ。少し、お茶が変なところに入っただけだから。悪い、これらを書いた者達に詫びを言って作り直してもらってくれ。」
読めないことも無いが、公式の書類として採用するには無理がある、そんな惨状になってしまった数枚の書類をヒースは部屋を出て行くばかりの姿で驚いている壮年の男へと差し出した。
「悪いのは私だと、よく謝っておいてくれないか。」
「はい、分かりました。ですが、本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫だ。本当に驚かせて悪かったな。」
「まったく、いきなり何を言うかと思えば…」
「何か、ヒース様?」
「いや。その纏まったものを運ぶついででいいのだが、新しいお茶を持ってきてくれないか?手間ならいいんだが。」
「いえ。すぐにお持ちしましょう。」
そういえば、青年が言う通りに動いてくれることを分かっていて口にしたヒースは、笑みを浮かべて部屋を去っていく青年を見送った。
そして、その扉が完全に閉まった事を確認すると、机に肘を付いて頭を抱え、肺の奥深くから息を吐き出した。
ヒースが驚いた事。
それは、日頃誰に知られることなく会話だけを楽しむ、年下の友人からの突然の問い掛けだった。
昼中に話しかけてくること事態が珍しい事。
そして、この友人がした面白い問い掛けがツボに入っていたヒースは、また何か面白い話でもあるのかと応じたのだった。
気軽に答えてしまった。しかし、それが間違えだった事を無邪気な友人シエルの問い掛けを聞いてヒースは感じていた。
《ヒースさんのいる国で惚れ薬が流行ってるって本当?》
シエルとの何度無く交わした会話で、シエルがそういうものに縁の無い、本当に無邪気で純粋な子供だということを知っていた。大きな国の街などにいるような、耳年増でおませな少女とは違うことを知っていた。だというのに、そうだと思っていたシエルから放たれた惚れ薬という言葉。
思わず、口に含んだばかりのお茶を噴出してしまっても仕方が無いことだと、ヒースは心の中で誰ともなしに訴えていた。
《ちょっ!シエルちゃん、何て話を突然》
《今、『愛の毒』っていう薬をくれるっていう人がいてね。王国で流行ってるから、そこで売ってもらえば?って言われたの。ヒースさんにお願いしてもいいかなって思って。》
ヒースは立ち上がると席を離れ、しばらくすると一冊の本を手に再び椅子に座り直した。
その本は、シエルがマリアの家で見せてもらったものと全く同じ、『薬師協同組合広報』と書かれているペラペラと薄い本だった。
そして、シエルが見せられた『愛の毒』のレシピが載っているページを迷わず開いたヒースは、口元を引き攣らせた。
《そうだね。流行ってるよ。本当に困るくらい。でも、そんな珍しいものをくれるなんて太っ腹な人だね。》
シエルの言うことに心当たりが嫌という程あるヒース。
近年、表立つことは無いのだが貴族に庶民、何故と叫びたくなる程に流行っている惚れ薬や媚薬といった、人心を迷わす薬の数々。被害は表沙汰になるだけで多数届けられ、人傷沙汰にまで至ることも多い。表沙汰にされていない被害も多いだろうと思われている。あまりの被害の多さに、そろそろ国が表立って規制に乗り出すことにもなっていた。
そんな時期に、レシピはあるのに誰も作ることが出来ない古代の秘薬、幻の薬と噂されるものが出回ることになれば、騒ぎが大きくなることは間違いない。
貴族や金を持っている商人達は、珍しいという言葉だけで目の色を変える生き物だとヒースは知っている。ただでさえ規制で騒動が起こりそうな時に、薬を巡っての攻防が加わるなど考えたくも無かった。
誰だ、そんなものを作ったのは。
そして、何故シエルのような子供に渡すのか。
ヒースはイライラと机を指で叩いていた。
《頼まれた物を届けたら、お礼にってくれるって言われたんだ。でも、持っててもしょうがないから。ヒースさんにお願いしたら駄目?》
お礼に惚れ薬ってなんだ。
そう思うのなら断れ。
話をするだけで会った事もない人間を信用するんじゃない。
そんな事をヒースは思ったが、口には出さなかった。
ヒースは良い事を思いついていた。
その『愛の毒』を使って、厄介で迷惑な薬に入れあげている奴等や儲けている奴等を根こそぎ引き釣り出して投獄してしまうというのは、どうだろう。
そうすれば、少しはヒースの仕事は減るし、国も綺麗になるだろう。
薬のせいで仕事が増えて疲れていたヒースは、凶悪な笑みを浮かべ、込みあがってくる笑いを抑えられなくなっていた。
《シエルちゃん。いいよ。頼まれてあげる。》
《本当!?じゃあ、今作ってる最中だから、出来たら届けに行くね。》
《えっ、ちょ!!》
《ありがとう、ヒースさん!》
「どうやって、俺の居る所に持って来るつもりだろう…?」
シエルが知っているのは、ヒースの声だけ。そして、ドルテ王国の大きな街に住んでいるという事だけだ。それで、どうやって『愛の毒』を届けるのだろうか。
シエルに尋ねようと、いつものようにシエルの名前を呼んでみる。だが、一向に繋がる気配は無かった。すでに夜も深く更けている。眠ってしまったのか、それとも連絡が付き難い場所にいるのだろうか。
ヒースは心配しながらも、考え付いた『愛の毒』を使った掃討作戦をちゃんとした完璧なものにする為に話し合おうと、部屋を後にした。




