氷棘の迷宮
「氷棘の迷宮か…」
グレンは苦々しい顔になっているが、シエルにとってはその名前自体が初めて聞くものだった。
「そんな大変な所なの?」
「ゴーステッグ神聖皇国の端にある小さな迷宮なんだ。小さいけど、攻略困難な迷宮だと言われているよ。」
迷宮の名前は聞いたことが無かったシエルだったが、さすがにその国の名前は知っていた。それは、シエルの住む帝国と同列に位置付けられることの多い大国の名前だった。
「神聖皇国って、一番大きな神殿がある国だよね。」
ゴーステッグ神聖皇国
光の神や勇者を讃える神殿の中心、大神殿を王都に程近い地に抱えこむ大国。
勇者が生まれ育った地。
大戦の中心となった地。
皇王となるものは代々『勇者の祝福』を継承して国と民を守っている。
魔族の被害が最も少ない国。
それが、シエルの知ることだった。
「そう。帝国から3つ国を越えた場所。」
「えぇっ‼」
村から出ることご無いだろうかと思っていたシエルは、本から様々な知識を得ていたが、地理などに関してはあまり重きを置いて学んではいなかった。
だから、村のある帝国から皇国がどれだけ離れているかなんて初めて知ったシエルだった。
「ど、どうやって帰ろう?」
ふっ
どうしよう、と慌てるシエルの耳にグレルが吹き出す音が聞こえた。
「何?」
少し、頬を膨らませたシエルがグレルを睨み上げた。
どうして笑われたのかが分からない。
「その心配は無いから。大丈夫、帰る事は簡単だよ。」
グレルは、拗ねて睨み付けてくるシエルの頭を撫でて、大丈夫、落ち着いて、と宥めた。元居た『銀砕の迷宮』内へと帰るのは簡単だった。グレルが心配している事は別の事。シエルに不要な心配をさせてしまったとグレルは、シエルの頭を優しい手付きで撫でながら反省していた。
「今居る場所が分かっているのなら、転移の術の入口は築ける。だから、帰るのは簡単なんだ。」
「じゃあ、何が心配なの?」
帰る事が出来るのなら問題無いんじゃないか、とシエルは思ったが、グレルが場所を知って浮かべた表情は何か重要な問題があるのだとシエルには感じられた。
聞きたい。そう強い眼差しを送ってくるシエルに、グレルは事情を話してもいいかと口を開けた。
「問題なのは、これだけの距離、しかも迷宮から迷宮に移動するような大掛かりな力を使えば、皇国に気付かれてしまうことなんだ。」
皇国には他国には真似できない秘術が幾つもある。
それは、初代皇王が勇者の血を引いているから築くことが出来たのだと言われている。『勇者』と『聖女』の子が初代皇王だと言われている。
そんな皇国に受け継がれた秘術の1つが、国中を覆う知覚の網だった。
国に持ち込まれる災いをいち早く見つけ出す。国の端から橋までを見透す。皇王が操る知覚の網のおかげで、皇国の犯罪率や魔族による被害は少ないと言われている。
「見つかったら大変なの?」
グレルの言葉を聞いても、シエルには理解出来なかった。
「僕は帝国の軍人だからね、一応。
皇国には、前に魔術を使ったところを見られている。ここで力を使って移動すれば、僕がいることを知られることになる。居る筈の無い他国の軍人が、皇国の中にある迷宮にいるのは問題でしよ?」
優しく笑い、説明さしてくれたグレルの言葉を、シエルは理解することが出来た。
そして、どうしようと頭を抱えこむシエル。
そんなシエルの様子を見ながら、グレルはもう悩んではいなかった。
グレルの中では、自分が処罰されることになろうが、帝国と皇国で問題に発展しようとも、シエルを無事に安全な場所に帰すことを優先しようと心に決めていた。
「まぁ、大丈夫だよ。帰ろうか。」
そう言うと、グレルは魔力を練り上げていく。
「いいの!?って、良くないよね‼」
戦争になっちゃうよ?
戦争を題材にした物語を読んだこともあるシエルは、ありうる全ての段階を踏み越えた結論を出し、それを口にしてグレルに詰め寄った。
「大丈夫だよ。」
シエルの肩を叩き、落ち着くよう促すグレル。
「転移に失敗したって本当の事を話せばいいんだし。」
大丈夫だから、とグレルは言うが、シエルは信じきれなかった。
その心配はグレルにも届いていた。
グレルだって、そんな事を信じない。そもそも、転移の術に失敗するということは異空間に閉じ込められるということだとあうのが常識だ。少なくとも、魔術を操る者にとって。
グレルがそんな説明をしたとしても、信じる者はいないだろう。
「さぁ。」
グレルは、シエルの心配に言葉を返す事なく、術を使い転移の為の扉を開く。
今度は違う場所に出ないように。念には念を入れて。細心の注意を張り巡らせて。他者の介入を許さないように術に対して守りを張った。
もう、シエルを危険に晒さない為に、グレルは全神経を使い四つの術を行使する。
転移の出口は、ミール村に定めた。
一番グレルが想像しやすく安定した手口を設けることが出来るだろうと考えたからだ。
シエルはグレルを信じて、空間が歪んで生み出された転移の入口の前に立ち、シエルに差しのべるグレルの手を取った。
こうして、シエルとグレルは『氷棘の迷宮』を後にした。
………………………………………………………………………………
「あれが例の娘なのか。」
二人が立ち去った後の雪原の、その積もった雪の中から一人の男が多くの雪を払い除けて立ち上がった。
銀の髪に白い肌。そして白で全身覆う服。
彼の体の中で色を持っているのは、その金の目だけだった。
「うん。美味しそうな子だったなぁ。今度会うときには、少しだけ噛じらさてもらおう。」
男の口から、鋭い牙がキラリっと光っていた。
「あっ、でも兄上に叱られるのか。う~ん…嫌だなぁ」
「まぁ、一の兄上にお願いすれば許してもらえるよね。」




