シエルと箱
あぁ、クソッ。どうなってやがる。
アルスは机の上の箱に拳を降り下ろすが、黒い稲光が放たれアルスの拳は弾かれてしまった。
ヘクスに持たせた箱に手を伸ばし、アルスは箱の中に横たわる鍵に触れようとした。周囲の興味津々な視線がアルスの手元に集まっている。
けれど、アルスの手は鍵を擦り抜けてしまう。
おぉ!
村人たちの興奮した声がヘクスやアルスの耳を突き刺したが、それとは関係無くアルスの眉間に皺が寄っていく。何度も手を伸ばすが、その全てが鍵を擦り抜けてしまった。鍵を動かすどころか、触れる感触を感じることも出来ない。
段々と苛つきを抑えられなくなったアルスがガリガリと頭を掻き毟り始めた。
「なんだ、これ!」
「やっぱり。」
「やっぱりぃ!?」
イラつきアルスは箱を持ったままのヘクスを睨みつけた。
「皆試したけど、私とグレル以外、皆駄目だったの。」
「本当か?」
「本当、本当。」
「なんだろうな、本当に。」
「性別でもないし、血っていうにはロゼも無理だったし。」
「術がかかってる気配なんて無かったと思ったんだがなぁ」
アルスの驚きに、ヘクスではなく村人達が答えていく。
ワイワイと討論を始めている村人たちがチラチラと話をしながら、アルスに視線を送っている。その疑問にアルスが答えてくれないのかと期待を寄せている。
しかし、アルスはそんな村人達の期待には答えてくれない。その目は大きく開かれ、ヘクスと鍵を交互に見つめていることだけをしていた。
「それからアルスはずっと、鍵を触ろうと頑張っていたわ。」
しばらくして自力で硬直から逃れたアルスは、痛みを押して箱に触り、鍵に触ろうと色々な方法を試し始めた。村人たちが食堂を後にしても続けられた。
次の日になっても、その次の日になっても、アルスは食堂に留まり続けた。
その頃にはもう、箱に触ろうとはしなくなっていたが、ただ鬱屈とした顔でテーブルの上に置かれた箱と鍵を睨み続けていた。
その次の日、アルスが箱に挑み始めて3日目の朝、ヘクスがジークと共に食堂に入ると昨日と変わらず箱の置かれたテーブルの前に座り込むアルスの姿があると思っていた。けれど、そこにいたのは銀色の犬がしょんぼりと頭を落としていた。
ジークがその姿をからかっても、ヘクスが美味しそうな湯気と匂いを立てた朝食を目の前に差し出しても、犬のようになったアルスはピクリッとも動かなかった。
ジメジメとした空気を食堂の中に作るアルスの姿に、始めはジークが怒り出した。
少し、鬱陶しいかなと思い始めていたヘクスも、仕方が無いと溜息をつき、魔女であるシエルと息子であるムウロに押し付ければいいと結論を出した。
ヘクスでも簡単に持てる程に軽いアルスの体を持ち上げ、ジークが用意した熱々の薬草スープが入った鍋を腕にかけ、家を出たのだった。
「というわけで、これ引き取ってね。」
ぶら下がっていたアルスの体が、シエルの膝の上に下ろされた。
力無くうな垂れていたアルスだったが、シエルの膝の上に下ろされると頭を動かし、シエルの顔を見上げる。
「引き取ってね、って言われても。そんなに鍵に触りたかったの?」
シエルが問えば、アルスは一言も話すことなく、ただ頷き返事をした。
そしてヘクスに顔を向けると、目だけを使って頼み込む。
「シエル。」
「えっ、何?」
アルスの姿を見ていたシエルは、突然ヘクスに名前を呼ばれ顔を上げた。
腰掛けていた石から立ち上がり、シエルの前に立ったヘクスに優しい手つきで腕を持ちあげられた。なんだろうと大きく瞬きするシエルの反応を無視して、ヘクスは持ち上げたシエルの手の上に、箱を置いた。
それは、アルスがこんな状態に落ち込んでしまった原因となった、あの箱だった。
「シエルも大丈夫なのね。」
持っていたシエルの手を離し、ヘクスが満足げにしている。
「って、話に出てきた箱なの、これ?」
突然のヘクスの行動に驚いていたシエルだったが、解放された手と、その上に乗っている箱を見て、そしてヘクスの言葉を聞いて、それがヘクスが渡されたという箱だと気づいた。ということは…
「えぇ、そうよ。」
「痛くも何とも無いよ?」
事も無げにヘクスが肯定するが…
それって触れると刺激があるって言ってなかった?とシエルは思ったが、ヘクスの言う通り何とも無かったと気づいた。
「良かったわ。」
その言葉で、別にヘクスに確信があった訳ではないのだと分かった。シエルとムウロは、母親としてあまりな行為に唖然とした。
「…シエルが大丈夫だって確信は無かったんだ…」
「そ、そうだよ!酷いよ、お母さん!!」
「何となく、そう思ったのだもの。」
「お母さん‼」
「シエル。」
「わっ‼びっくりした…」
すっかりアルスの事を忘れていた。
名前を呼ばれ、アルスが膝の上にいることを思い出したシエルは、アルスを見た。アルスはシエルをしっかりと見上げている。
「頼みがあるんだ。」
「頼み?」
「この鍵の持ち主を探してくれ。」
アルスの目は、真剣そのものだった。




