母と犬
朝になり、シエルが目を覚ますと、美味しそうな匂いが鼻を刺激してきた。
グゥ~とお腹が鳴る。
ムウさんが何か用意したのかな?
これまでの冒険の中で、朝御飯はそれぞれの村で購入したパンなどでとっていた。漂ってくる温かな食事の匂いに、ムウロが作ったのかなとシエルは思った。
グウグウと鳴るお腹を擦りながら、テントを出たシエル。
ムウロの姿と朝御飯を想像していたシエルは、テントを出てすぐに目に入った信じられない光景を見て、動きを止めた。
鍋が乗っている焚き火を前にして、丁度いい大きさの石に腰掛け、クルクルと鍋を掻き回している母ヘクスの姿。
村にいるはずのヘクスが何故かシエルの視線の中にいた。
パチパチと瞬きを繰り返し、ゴシゴシと目を擦り、目の前の光景が本当に真実のものなのかどうかを確かめる。
どれだけ瞬きをしても、そこにいるヘクスの姿は消えることない。黒髪を結び、エプロンをつけたまま暗紫の目を鍋へと向けている姿は、確かにヘクスだった。
その膝の上にある銀色の毛の塊だけが、シエルの見覚えがないものだった。
「あっ、起きた。シエルも早く食べよう。美味しいよ?」
ヘクスの焚き火を挟んだ向かい側に人の姿をとって座っているムウロは、木で作られたお椀に口をつけて食事をしていた。
テントから体の半分を出した状態で固まっているシエルに気づき、ムウロは早くおいでよと笑顔で誘ってきた。
「おっ、お母さん、どうしたの。」
テントこら出て、焚き火の側に置かれている空いた石に腰掛ける。
そして、ヘクスに向かう。
もしや、村に何かあったのか。
そんな考えがシエルの頭に過った。
けれど、新しいお椀に鍋の中身をよそっているヘクスからは、そんな状況は読み取れない。
「はい、シエル。ジークが作った薬草スープ。美味しいわよ。」
シエルの言葉に返事を返すことなく、ヘクスはシエルに温かな湯気をたてるお椀を差し出した。思わず、シエルはお椀を受け取ってしまい、よそわれた具がたっぷり入ったスープに涎を垂らした。シエルの頭からは、一瞬過った村の心配は吹き飛び、機嫌よくお椀に口をつけた。
「じゃない!」
一口二口スープをすすった後、シエルはお椀から口を離し、ヘクスに目を向ける。
「お母さん‼」
「食べないの?」
シエルがお椀を膝の上に置いた。ヘクスはそのシエルの様子に首を傾げる。どんなに体調ご悪くても、食事だけは欠かさない子だったのに。ヘクスはそんな的外れな事を考えている。
「食べるけど…。何でここにいるのかは教えてくれないの?」
「そう。」
ヘクスはムウロに向かい腕を伸ばし、空になったお椀を受け取り、またスープをよそう。そのお椀をムウロに返すと、ヘクスはシエルに向かい顔を上げた。
「大した事ではないのよ。ただ、鬱陶しくて。」
ムウロは話を聞いていたのか、プッと噴出した。シエルは、ヘクスの言葉も、それに対するムウロの反応も意味が分からないと頬を膨らませて頭を捻る。
「何が?」
「これが。」
シエルの言葉にヘクスが指差したものは、膝の上の銀色の塊。
人の頭よりも少し大きいくらいのその塊に手を伸ばし、その一部を掴み持ち上げる。
「犬?」
ヘクスが持ち上げると、銀色の塊は一匹の犬の形になった。
銀色の毛皮をもった犬は、耳が垂れ下がり、髭はヘニャヘニャとしていて、元気が無いように見える。力の余りないヘクスでも片手で持てる程軽そうには見えないが、持ち上げられた銀の犬は抵抗なくぶら下がっていた。
「ん…犬じゃなくて、父上なんだよ。」
「えっ、アルス叔父さん?」
シエルがアルスの魔狼の姿を見たのは契約の時の只一度だ。けれど、その姿は威厳に溢れ、堂々とした態度が似合っていた。このただの犬にしか見えない姿からは、それと重なる様子はないように思え、シエルは驚いた。
「なんで、そんな感じになっちゃったの?」
村に帰っていない数日の間に、一体何があったのだろうか。
シエルはヘクスに尋ねた。
シエルの質問に答える為、ヘクスは口を開く。
それは数日前のこと。
いつもの様に食堂に集まった村人達。
その注目の中心には、テーブルの上に置かれた小さな箱があり、箱の蓋の開かれ、その中には鍵が一本寝かされている。
ヘクスの親戚にあたるというルーカスから渡されたその箱と鍵は、あの日から村人達の興味を引き続けていた。始めの日には、ルーカスの部下達も一緒になって、箱と鍵を探っていた。そんな彼等は、ルーカスやグレル、ロゼに引き連れられ、迷宮の探索へと出発していった。
グレル、ロゼは、再会した母から離れることを嫌がったが、ヘクスの「仕事はちゃんとしなさい。」という言葉で背中を押され、渋々とはいえ出立していった。
ただの箱と鍵に見えるそれは、村人たちの興味を引いた。
それだけの不思議を秘めていた。
「ヘクス。もう一度、持ち上げてみてくれ。」
食事を運んでいるヘクスに声がかけられる。
こんな風に、何度も何度も、村人達が箱と鍵を弄る合間にヘクスは箱と鍵を触らされている。そろそろヘクスもうんざりと感じ始めていた。
それでも、村人たちの期待の眼差しを受け、箱を持ち上げてみせる。
「俺も仲間に入れて欲しいな。」
ヘクスが箱を持ち上げた時、気配もなくアルスが食堂に現れた。
いつものように酔っ払った姿ではなく、しっかりとした足取りでヘクスに近づいてくる。
その顔には怪しげな笑みが浮かび、ヘクスには感じ取れなかったが、食堂にいたヘクス以外の人間にはアルスの体から重苦しい重圧が放たれている事を全身で感じていた。
「ヘ~クス。それ、見せて。」
歌うような声を出し、アルスはヘクスに腕を伸ばす。
手の平を上にして、ヘクスが持つ箱の前に差し出した。
村人たちは、アルスに箱を渡してはならないと感じ取っていた。けれど、アルスから放たれる重圧に体を動かそうという意思を消し飛ばしている。
普段、食堂で酔っ払っている姿からは想像もつかなかいものだが、今のアルスは『銀砕大公』としての姿だった。
「いいわ。」
ヘクスは箱をアルスの手に置こうとした。
「ヘクス!?」
鈍感なヘクスでもあきらかに分かるくらいにアルスの様子は普段とは違う。だというのにヘクスは何を考えているのか分からない表情で箱をアルスに渡そうとする。それには、村人たちから制止の声がかけられた。
「だって、どうなるか気になるもの。」
ヘクスは村人達に顔を向け、首を傾げて賛同を求める。
その言葉に、ヘクスの行動に驚き、眉を顰めていた村人達も徐々に「それもそうか」と緊張を解いていった。その反応に、今度はアルスが首を傾げた。
「何の事だ?」
「持ってみれば分かるわ。」
箱がアルスの手の中に置かれる。
「グッ!」
アルスの手に乗った途端に、箱から黒い稲光が放たれ、アルスの手を焼く。
ヘクスの鼻を、肉の焦げる匂いが届く。
「これは初めて。」
「何が!」
ヘクスは黒い稲光を放つ箱に手を伸ばし、アルスの手の中から取り上げた。
すると、黒い稲光は消え、アルスの黒く焦げた手の平だけが残っている。痛みに耐えるアルスは手を振り、ヘクスの手の中に戻った箱を睨みつける。
「触って痛みを覚える人はいたけど、こんなものが出てきたのはアルスが初めてよ。」
「そんな初めて、嬉しくないな。」
「どうしてかしら?」
ヘクスは疑問を口にし、村人たちはワイワイと箱の謎を究明しようと盛り上がっている。
「あぁ、もういい。用事があるのは鍵の方だしな。」
顔を顰めて箱を睨みつけるアルスは、ヘクスに蓋を開けるように目で頼み、箱には触らず中の鍵を直接手にしようと考えた。
「いいけど。多分、無駄よ。」
ヘクスは箱の蓋を開けて、鍵をアルスに見せた。




