迎え
「お姉ちゃん…ムウさん…」
姉による、術という形を成していない、彼女から解き放たれた力そのもの。それは確かに攻撃という形を成して、シリウスとシエル、そして二人が残された部屋そのものを破壊していく。
シエルの前にはシリウスが庇うように立ち、魔力によって動かされ叩きつけてくる暴風を遮る。小柄なシエルの体はしっかりとシリウスの背中に隠れ、傷一つ、痛み一つ感じることはない。だが、シエルの足元や天井、ちらりと目の端に映った壁には、傷が生まれ、置かれていた調度品などはとうの昔にシエルの背後へと消えていっている。
シリウスの背中が視界を覆っている中、シエルが思うのは外で待ち構えているというムウロの事。
この状態を作り出した後にするりと部屋からドアを使って堂々と出ていったロゼと今頃ムウロは遭遇していることだろう。
心配することはない。
ムウロを信頼しているからこそ、そう思わなくてはいけないのに。
なのに、そうは思えない。
シエルの心は不安に支配されていた。
「おかしい」
「お兄ちゃん?」
叩きつけてくる魔力、そして暴風をシエルとは違いその身に直に浴びている筈のシリウスの声が聞こえる。この状況で口を開けることに驚き、そして荒れ狂う音の中でその声がしっかりと聞こえてきたことに驚いた。
シュッ
シリウスが剣を抜き、そして眼前の何もない空間を切り裂く動きを見せた。
ただ、荒れ狂って叩きつけてくる風があるだけの空間は、確かに斬れた。
「大丈夫か、シエル?」
「う、うん」
シリウスのその動き、といってもシエルからはシリウスの腕が横へ一筋に動いたということしか見る事は出来なかったが、その動きが終わるか終わらないかで部屋の中に渦巻いていた空気の動きが全て鎮まったのだ。まるで何事も無かったかのように、壁や天井、床に残された傷でしかその残像を知る事は出来ない程、空気は鎮まり返っていた。
それをなしたシリウスにしても、平然と、何もしていないという体で背後に庇っていたシエルを振り返り、怪我の有無を聞く。
その時にはすでに、シリウスは剣を収めていた。
何があったのか。
背後からとはいえ見ていた筈のシエルには、全く何も分からない一瞬の事だった。
「っムウさん!」
あまりにもあっさりとした終わりに、呆気に取られていたシエルだったが、すぐに自分が心配していたムウロの事に頭を満たされた。
ロゼが消えた部屋のドアへ向かい駆け出し、外に出ていったのであろうロゼの後を、ムウロが居る筈の外へと向かう。
「…」
シリウスは一瞬、背後の、自分とシエルに叩きつけられていた暴風が向かった先の、劇場の客席へと続く窓の先に視線を流した。
部屋の中にあったテーブルや椅子などの調度品全てを風が浚っていき、部屋の中にはもう何も残っていない。それは確実に、この個室から舞台を覗く窓の下に広がっている客席へと降り注いだ筈だ。
だというのに、悲鳴一つ聞こえてこない。荒れ狂った風の音は確かに耳を突き刺すものだったが、仕事柄もあって研ぎ澄まされているシリウスの耳が悲鳴を聞き逃すことは無い。ましてや、風の収まった後である今も、何の音も拾わないなんてありえないことだった。
だが、それに気を取られたのは一瞬のこと。
シエルの背中が部屋から出ようとした頃には、シリウスもその後を追って走り出していた。
シリウスにとって、同じ場所に居合わせた赤の他人など、大切な家族の前では価値の無い石くれに等しい。状況確認の為に目を向けることはあるが、それだけのこと。必然性がなければ、助けなければという考えには至らない程度だ。
グルルルル
頭が痛い。
自分の意志とは相反して勝手震える喉の音を他人事のように聞きながら、ムウロはずきずきでは到底表現し難い頭の痛みに苦しんでいた。
シリウスを示し合わせて、待ち構えた劇場の中、シエルの匂いを追うことで確実に中に居る事を知り得た個室のドアの前。
シエルが出てこようと、ロゼが出てこようと、簡単に対処出来た筈だった。
だが、それはムウロの予想など鼻で笑って退けた。
ごめんね、シエル。
痛む頭では、ムウロはただそれだけしか考えられなかった。
「ムウさん!」
グルルルルル
兄と共に部屋を飛び出したシエルがまず見たものは、床や天井に残る爪痕。獣が付けたとしか考えられない形に残されたそれは、ムウロのものだと思われた。
そして、廊下の先、劇場の外からだと思われる先から風に乗って聞こえてきた獣が喉を鳴らす音。
ムウロに何があったのか。
ムウロの名を呼んでみるが、ただグルグルと鳴る喉の音らしきそれが聞こえてくるだけ。
「シエル、此処で待っていろ」
強い言葉をシリウスがシエルに向けた。
「えっ?なんで、お兄ちゃん」
外へと向かおうと足を踏み出したシエルの腕を掴み、シリウスがそれを止める。
どうして止めるのか、シエルには分からなかった。聞こえてくる、ムウロのものだと思われるその音は、シエルには苦しそうに聞こえていた。そんな音を出しているムウロの所に、シエルは早く駆け付けたかった。
「…この音は…」
シエルには苦しみに聞こえたその音が。
シリウスには、また違うものに聞こえていた。
だからこそ、シリウスはシエルの事を止め、自分が先に様子を見に外に出ると言いたかったのだが…。
ギャウンッ
「ムウさん?!」
グルグルという音が突然消え、一際大きな、獣の悲鳴が聞こえてきた。
ギャウンッ
しかも、二度も。
「…仕方ない」
心配のあまり、シリウスの掴まれている手を無理やり抜き走り出そうとしているシエルに、シリウスは外で一緒に出ようと心に決めた。
シリウスが掴んだ手を放すと、シエルは一目散に走っていく。
そんなシエルの隣を、何時でも守れるよう離れることなく、シリウスが寄り添った。
「まったく。情けないこと」
劇場の外、はじめにロゼを群衆の中に見つけた場所に、その光景はあった。
シエルよりも大きな狼。灰銀の毛並みのそれがムウロであるとシエルは一目で分かった。ムウロは狼の姿で地面に横たわり、無防備に晒されているムウロのお腹を足蹴にしている女性の姿。
一瞬、その女性をロゼかと思ったシエル。
だが、それはすぐに違う事が分かった。
「半分とは、この私と血を同じくするものが。あの程度で我を忘れるとは」
まず、その女性は赤かった。
キラキラと輝いてみえる真っ赤なドレス。シエルには到底履きこなせない高いヒールをムウロの腹にぐりぐりと喰い込ませ、その女性は鋭く細めた目をムウロへと向けている。
その横顔を見て、シエルはそれがロゼではなく、だが知っている人の顔だと思った。
「ムウさんのお母さん」
『夜麗大公』。
吸血鬼達の女王であり、ムウロ、そしてディアナ達の母親である女性。彼女の迷宮で、彼女の分身であると話、そして動きもする描かれた絵姿『女主人』とシエルは見た事がある。
その目の冷たさなどを覗けば、ムウロを足蹴にするその女性は『女主人』にそっくりだ、とシエルは感じたままに口にした。
「…彼の母親というと…『夜麗大公』の事か?」
『夜麗大公』の姿など知るよしのないシリウスは、半信半疑ながらシエルの言葉に驚き、女性を見る目に警戒を強める。
「あら?」
シリウスから向けられた視線が彼女の気を引いたのか。
ムウロに向けていた冷たく鋭い目をそのまま、顔を上げた女性はシエルとシリウスへと向けた。




