最後に、ね。
前には兄シリウスが。
そして背後には扉越しに『灰牙伯爵』たるムウロが待ち構えている。
ロゼが如何に魔術に優れ、その得意分野たる魔術を駆使したとしても、無事に逃げ延びることが出来る可能性は低い状況が今、出来上がっていた。
ただ一つの突破点となり得るのは、二人の弱みにしっかりとなる、無力な妹シエル。同じ空間の中、しかもシリウスとロゼの間に居て、落ち着かない様子で兄と姉を交互に見ているシエルを使えばあるいは…。
ロゼは魔力と知識で戦う魔術師。シリウスは皇太子からの信頼もあつい、しっかりとした実力を誇っている武人だ。殆ど同じ距離、どちらも手を伸ばせばシエルの体に触れるという事態において、腕を前に伸ばすというだけであっても、元から体を動かすということに関してロゼが足元にも及ばないシリウスへ完全に分があるだろう。
シリウスを攻撃するように見せかけて、その隙にシエルを確保する。
ロゼの脳裏にそんな考えが走った。
それもいい手だろう。色々と運に任せることも多い粗が見える手段ではあるが、それが今の状況においては最良の手だと、ロゼには考えられた。
シエルを人質に取れば、シリウスも、この部屋の外で待ち構えているムウロも不用意には動けなくなる。ロゼは悠々自適に、彼らから離れることは出来るだろう。
だが、ロゼはそんな方法を口元に笑みを浮かべて、自分自身で否定を下した。
それは以前の自分が考えるもの。
今の私には必要無い。
ロゼが隠す様子もなく浮かべた、余裕に溢れる笑み。
他人であったのならばその表情に含まれる意図を間違えることもあるかも知れないが、シリウスは生まれたその時からロゼの事を見続けてきた兄なのだ。ロゼの浮かべたそれが確かに、確かに余裕と、そして喜びに溢れたもので間違いない、とシリウスは眉間に皺を寄せて、目をひと時も離さないようにとロゼを見る。
シリウスもこの後にロゼが起こすであろう可能性を全て予想していた。
シエルを人質に、なんて初歩の初歩のような手段にも出るだろう、とも。
それに対処する為に自分が何をすべきなのかも、複数の手を考えて、その時を待っていた。
「ねぇ、兄さん」
シリウスに話しかけながら、ロゼの目がシエルへと向かう。
分かりやすい、分かりやす過ぎるその動きに、シリウスは幾つもの可能性を考え、目を凝らす。
「兄さんは、好きな食べ物は先に食べる、それとも後?」
「はっ?」
何を言っているのだと、警戒しながらも思わずロゼの問いかけに一瞬頭が真っ白になる。この場に全くそぐわないその問いかけ、シリウスが狼狽している間にシエルに手を伸ばすつもりだったのかと思えば、そんなこともない。シエルに手を伸ばすことなど素振りも見せず、シエルに向かっても同じ問いかけを繰り出している。
「ロゼ、何を…」
「ねぇ、どうなの?」
「…先だな」
まるで、普通の兄妹がくつろいだ家の居間などで集まってしているような話題。
何時どんな事態が起こるかも分からない立場に置かれていることもあり、食事を中断しなくてはいけない可能性も考慮して、どちらかといえば先に好みの料理を食べている。はっきりと言い切ることは出来ないが、多分そうだった筈だとシリウスは答えてみた。
「へぇ。じゃあ、シエルはどう?」
先、後?とロゼはシエルにも答えを求める。
「私は…後かな?」
「そう!シエルは私と一緒なのね!」
ぱぁと表情を明るく弾けさせ、ロゼは嬉しそうに笑った。
「ロゼ、これを今聞く意味はあるのか?」
「無いわね。でも、言っておきたかったの」
こつん。
嫌に響く足音を立てて、ロゼが後ろへと一歩下がってみせた。シリウスからも、シエルからも距離を置くように、ムウロが待ち構えている扉へと近づくように。
「私もね、シエルと同じで好きなものは最後にとっておく性質なの。だから、」
今はまだ。
普通の魔術師が必要とする杖などの媒体も、詠唱も、ロゼは全く必要としない。
以前からそうだったのだ、己の中にこれまでに感じたことのない程に溢れ出てくるそれに満ち足りた気分となっている今のロゼには、どうしてそんなものを必要とするのだろうと、疑問に思えてしまう程だ。
そんな湧き出てくる力を、ロゼは魔術として編み上げる訳でもなく、ただ純粋なる力の奔流として解き放った。
シリウスも僅かではあるが魔術の覚えがある。そして、皇太子を守る近衛騎士としてまず間違いなく魔術へ対する策も仕込んでいることだろう。
だから、ロゼはわざと魔術としてはなく、力そのものとしてシリウスに、そしてシエルへと投げ飛ばしたのだ。
勿論。シリウスがしっかりとシエルを守ってくれるという確信があってのことだ。
「またね、兄さん、シエル。大好きな貴女達は、大好きだから一番最後。だから、大人しく家で待っていて」
もう一度、ロゼはシエルに向けていた願いを口にする。
力そのものはシリウスがシエルの前に立ちふさがることで防ぐ。だが、放たれた力は空気を強く動かし、それは暴風という形でもシリウスと、そしてその背後に隠されたシエルにも襲い掛かる。
目を開ける事が出来ない。
そんな状況、暴風が荒れ狂う音が耳に突き刺さってくるその状況の中で、その状況を生み出したロゼは平然とした声音を放ち、それは暴風の音の中でもくっきりはっきりと聞こえてきた。
「ぜぇんぶ終わったら最後に、会いにいくから。ね?」
優しい優しい、そんなロゼの声が終わると共に、パタンっという扉を閉める音もはっきりと聞こえてきた。
「ムウ、さん…」
シエルはこの時、胸騒ぎを覚えた。
ムウロが強いことは知っている。普通の魔族ではないことを知っている。
けれど、ムウロが危ない、とどうしてなのかシエルの胸に不安と恐れが渦巻いた。




