支配する想い
合間が空いてしまい反省の限りです。
一応、これからはペースを戻していけると思っています。
見惚れずにはいられない、華やかな笑顔。
知らぬ筈の何かを知っている、そんな不思議が嬉しくて仕方ないと笑顔で語っているロゼに、シエルは目を奪われた。目だけではない。全身がロゼを感じることに集中する。
演じ続けられている筈の舞台上の声はもう、シエルの耳に届かない。
目も、耳も、シエルの全てがロゼに囚われる。
「シエル。私はね、もう知ってしまったの」
何を、と聞き返したいのに、聞き返せない。
怖い…。
目の前に居る存在は確かに、確かに姉ロゼであるというのに。シエルはただただ怖いという感覚を彼女に感じてしまった。得体の知れない何かがロゼという存在を上から塗りつぶしているような、そんな感覚だった。
「シエル」
ロゼの、手が、シエルに向かってゆっくりと伸ばされる。
シエルの目には、そのロゼの手に黒い靄が重なっているように見えた。
「っっっ!」
それは恐ろしいもの。鈍感であると言われ続けているシエルでさえも、本能がそれを訴えた。だが、大きく顎を開いた大蛇を目の前にしている、そんな気配に包まれたシエルの体はビクッと僅かに震えることも出来ない。
声も、出ない。
そこに居るのはお姉ちゃんなのに。
大切な家族、大切な姉なのに、そうだというのにシエルは酷い悪夢を見ているその時のように恐怖を感じる。
チチチチッ
朝、自分の部屋で目覚めた時に窓の外から聞くような、そんな可愛らしい小鳥の声。今のこの場には全くあっていない、そんな小鳥の鳴き声が突然響いた。
恐怖に竦んでいたシエル。この小鳥の声で、シエルは自分が呼吸をすることを忘れていた事に気が付いた。
ハッ、ケホッ、ケホッ
どれだけ自分が呼吸をしていなかったのか、どれだけ恐怖に呑まれていたのか、その時間がどれだけのものだったのかは分からないが、息苦しさを感じることが出来るようになったシエルは咳き込んでいた。
「鳥の声?」
小鳥の鳴き声はロゼにとっても意外なものだったらしい。
先程までのロゼなのにロゼではない、そうシエルに思わせていた正体の分からない恐ろしさは消え、きょとんと目を丸めて、まるでいつもと変わらないような表情できょろきょろと周囲を見回している。
此処は劇場の中だ。
シエルはすっかりと忘れているが、劇は佳境を過ぎようとしている最中。その劇の内容にも小鳥の出番はなく、劇場の中に何時鳴くかも分からない小鳥だけでなく動物を持ち込むような人間は見当たらない。では、小鳥の声は一体何処から?
「お姉ちゃん?」
「鳥、小鳥、…あぁもしかして…」
また、ロゼは一度は外れた得体の知れない何かを纏った表情に戻っていた。
「お姉ちゃん、どうしちゃったの?」
何を言っているの?どうしてしまったの?何を知ってしまったの?
その思いのたけを全て詰めに詰めて、シエルはまだ咳き込みそうになるのを何とか抑えて声を出した。
怯えながら、それでも姉を心配して声を振り絞って投げかけてくる妹。
自分を必死になって見上げてくるそんな妹の姿に、ロゼは自分の頬が緩むことを自覚する。
可愛いなぁ。
ロゼは先程のここには存在しない筈の小鳥の鳴き声に考えを馳せながらも、横目で可愛い姿を見せている妹を収め、何時だって妹に対して感じている想いを改めて思い返していた。
そう、ロゼはいつもいつも、遠く離れて暮らしている時から、初めて対面を果たすことが出来た日よりもずっと前から、異父妹が居るのだと知ったその時から、シエルの事が可愛くて、可愛くて、可愛くて仕方がなかった。
数少なくとも存在している友人達や同僚達などがロゼ達兄妹の境遇を耳にした時、大抵決まりごとのように口にする事があった。
異父妹を憎まないのか、という感想であり疑問。
引き離されることなく母と共に暮らし続けていられる、ロゼ達も受け続けていられる筈だった母親の愛情を一身に受けて安穏に暮らしている、父親違いの会ったこともない妹。ロゼ達はその異父妹の話が出る度に、会いたいと望み、会ったこともないのに可愛い妹だと言い切っていた。
憎らしくて溜まらないのではないのか、という彼等の言葉はそれもそうだと納得することは出来るものではあった。
意見としては理解出来ても、それでもロゼ達三人はどうしてもそれを感情として理解することは出来なかった。
まだ見ぬ異父妹は可愛い可愛い、自分たちの妹、大切な家族であると三人は心の底から感じていた。
そして、それは対面を果たしても変わることは無かった。いや、むしろ愛おしさは極限までに膨れ上がり、目に入れても痛くは無いと叫んでもいい程に、妹は可愛いのだと宣言出来るものだった。
ロゼはシエルが可愛かった。
兄弟の中で誰よりも、比べようもない程に、何もかもが母に似ている妹はロゼにとって護ってあげなくてはと心に決めさせる存在だった。
その想いは、今も何一つ変わってはいない。
今、ロゼは自分が清々しく雲一つ存在しない空になった気分に包まれていた。
シエルはどうしてしまったの、とまるでロゼが大きく変化してしまったかのように問いかけてくるが、ロゼからすればそれは可笑しな話でしかなかった。
ロゼは何一つ、変わってはいない。
ただ、すっきりと澄み渡った頭で、心の奥底から湧き上がるある感情にただ素直でいていいのだと疑いもなく感じているだけ。
ずっと、ずっと、ずっと昔からロゼはこの想いを知っていた。
ただ、ずっと自分の本能の奥に仕舞い込まれていたそれに気づけなかっただけなのだと、今のロゼは理解している。
幼い頃から魔術に関してロゼは兄や双子の片割れよりも優れていた。特に有り余る魔力を用いて攻撃を行うなど、破壊に関しては魔術を生み出したりを得意とするグレルでさえもロゼを止めることは出来ない程。
今のロゼは理解出来ていた。
それこそがロゼの本質だったからこそ、それに長けていたのだと。
どうしてそれを自覚することが出来たのか、それを思い出す事がロゼには出来ない。クイン達と共に当たっていた任務の最中だった、ということを朧にしか思い出せない。
だが、そんなのは些細な事だとロゼは思い、そんな事を考えていたこともすぐに忘れ去る。
ロゼにとって今、一番大切なのはただ一つ。
崖の縁に立った瞬間に無防備な背中をトンっと軽く押された感覚。重力に従って、ただただ止まることなく落ちていく感覚。
壊したい。
ロゼを今、ロゼとしたまま支配しているのは『破壊の衝動』だった。
憎い、怖い、怒り、苦しみ、悲しみ。
そんな愚かしい理由などでは一切ない。
愛しているから。
大好きだから。
『破壊』、それはロゼの愛情。
そう、はっきりとロゼは言い切れる。
「シエル」
優しさに満ち溢れたロゼの声が、表情を強張らせて見上げていたシエルに降り注いだ。
「お姉ちゃん?」
そこに先程感じた怖さは一切なく、元の姉に戻ってくれた、という希望をシエルに抱かせた。
「よく聞いて、シエル。今、貴女が会いに来てくれて良かった」
儚げにも見える、微笑みを浮かべてロゼは言う。
「これから世界は大変なことになるの。だからね、シエル。村に帰りなさい。母さんの所に帰って」
もう一度、ロゼの両手がシエルへと向かって伸ばされる。
今度のその手には黒い何かは重なってはいない。そっと壊れそうな大切なものを扱うような慎重さで伸ばされた手を、今度はシエルも恐れることなく受け入れることが出来た。
しっかりとした温かみが感じられるロゼの両手に包まれる、シエルの頬。
感じていた怖さなど嘘のように、夢だったと思えるようなその温かみに、シエルの目尻に自然と水滴がにじみ出る。
「お姉ちゃん?」
なんで?どういうこと?
優しく、懇願しているようにも思える言いつけ。うっかりとしていれば流されるままに頷いてしまいそうだったそれに、それでもシエルはどういうことなのかと聞き返すことが出来た。
「危ないの、危ないのよ、これからの世界は。母さんやシエルはただでさえ普通よりも危なっかしいのだもの。危ない場所になんか行かないで、家で、あそこなら大丈夫だから大人しく待っていて?」
ねっ?
その声は優しいもの、だけのロゼの微笑みを浮かべた目は「言う事を聞きなさい」という強い意志が放たれていた。
「母さんと、まぁしょうがないからあの男もいいわ、三人で家で大人しくしていてね」
「お姉ちゃんやお兄ちゃん達、ムウさん…皆は?」
それは頭で考えた言葉ではなく、ただ自然に飛び出した問いかけだった。




