母の怒り
竜という種族は闇に属して生まれた魔族において、個々が保有する力の強力さと多くも無いが少なくも無い個体数によって、魔界に一勢力を築いている。
魔王からもその力を認められ『桜竜大公』という名を与えられ、その一勢力を誰に譲る気配さえも垣間見せずに率い続けている女傑ユーリアは、息子という存在をもってからこの方、常に考えていた事があった。
馬鹿な子程、可愛い。
これはもしかしたら、そう思わずにはやっていられない、という彼女の心情を無意識に慰める為に彼女自身が唱え続けている呪文なのかもしれない。
本人の資質としては、『大公』に列するユーリアの息子として申し分無いものを持っている。これはユーリアの親馬鹿からくる評価ではない。きっと無い筈だ。そう、ユーリアも、彼を卵の頃から生温かく見守り続けてきた竜達、交流のある他種族の魔族達も口にしているのだから。
魔力も、純粋な魔力量では吸血鬼族などと同じく魔界上位に数えられる竜族の中にあっても、強いものをユーリアの息子クインは保持している。幼い頃から竜だけでなく、ユーリアを通じて『大公』達や高位爵位持ち達という他種族にも厳しく鍛え上げられるという経験を得たおかげで、強力な魔力を利用する術も得意としている。
クインが行っていた"自身の身体から魂を離し他の身体を長い時間使い続けるという術"も、元を言えば面白半分に教え込まれた『死人大公』フレイが独自に保有している術だった。
素材は悪くは無い筈なのだ。本人がやる気を出し、持てる実力を出し切ることが出来たなら、高位の爵位をすぐさま手に入れることが出来ると断言出来るくらいには。
どうして、自分の身体を盗まれるなどという間抜けを仕出かす男に成長してしまったのか。
それはユーリアにも謎だった。
それもまた、馬鹿な子程…とユーリアはそれを聞いた時に諦めと共に吐き出していた。
そう。馬鹿な子程、可愛い。可愛いのだ。ユーリアは呆れながら、時には何故こんな…と怒りを覚えても、死に別れた子の父親を思い出しながら謝罪をしたくなっても、それでも母親にとっては息子は可愛いものという事が変わることは無かった。
ユーリアの居城を飛び出し、魔界からさえも飛び出して行ったといっても、それは成体となったのだから当たり前の事。一人前になったか、とホッと安堵し、感慨深く思うだけだった。そして、成体となったとしても、親子の繋がりが切れた訳ではなく、ユーリアにとって変わらずクインは可愛い息子でしか無かった。
だからこそ、今、ユーリアは滅多に無い程の怒りにその身を震わせ、その怒りのあまりに力を抑えきることが出来ずに、周囲に破壊をもたらしてしまっていた。
「馬鹿息子の匂いがするわね、こちらから」
クンッと鼻を鳴らすその姿は、その力強さを秘めた美貌によって見惚れてしまいそうになるものだった。
ユーリアが苛立ちげに示した方角には、先程の出来事が本当に何だったのかと言いたくなる程に、極普通の日常の風景を作り上げて行き交っている人々がひしめき合っている。
ひしめき合っている人の数だけ、いやそれ以上に匂いというものは数え切れない程に存在し、それらは何重にも重なり合って、違う匂いを新しく作り上げていく。
だが、ユーリアにはその中から極僅かだが、嗅ぎ慣れた匂いが風に乗って流れてきて居る事を、しかと感じ取っていた。
「僕の鼻は、こっちからシリウスに近い匂いがするって教えてくれるけど…」
目を閉ざし、耳を閉じ、ただ鼻だけを研ぎ澄ました結果にムウロが指差したのは、ユーリアが示した方角とは完全に真逆の方角だった。そちらもまた、ユーリアが示す方角と同じように、人がひしめき合っている。
ムウロよりも格も力もユーリアが勝る。それはムウロ自身が納得していることだ。だからこそだろう、ムウロは恐る恐るといった様子で自身が感じ取った匂いを辿った結果を口にした。鼻の精度でいえば、竜であるユーリアよりも、魔狼であるムウロの方が上。勿論、ユーリアが探すクインと、ムウロが探すロゼが一緒に行動をしているとは限らないのだから、匂いのする方角が違ったとしても可笑しなことではない。が、ムウロはまるで自分の感じたままと口にすることが、ユーリアのそれを否定するような気に襲われて、ついつい尻込みしてしまっていた。
「あれの匂いなど、私は私自身がこの世に産み出したその時から嫌というほど感じている」
怯えるあまりに警戒しているムウロに向かい、ユーリアは自信だけを表した笑みを口元に生み出した。それは彼女が全身から滲ませている怒りによって、強烈な気迫を放つものとなっている。
少なくともクインの匂いに関しては、それがどんなに些細なものであっても、ユーリアが間違うことは無いと宣言出来た。
「ふん。隠そうとした気配もなく、ぷんぷんと感じ取れること」
ユーリアの笑みが凄みを増す。
彼女が感じ取った息子のものと確信する風に乗った僅かな匂いから、彼女や他の者達がクインに教え込んだ事の何一つも実践していない事に気づいてしまったのだ。
敵から身を潜ませる為など、必要であるからこそ、一つではなく様々な方法を彼女自ら、信頼出来る竜達、他種族の方法までも教え込んだのは、それこそ息子が可愛いからこそ。少しでも長く、『大公』としてほぼ不死に近い母親を早くに置き去りにしないようにと、生き延びる術を徹底的に、重点的に教え込んだ。
それらを何一つ、行った様子もなく無防備に漂ってきたクインの匂い。
ユーリアは決めていた。見つけ出した暁には問答無用に、一年や二年、竜たるモノには長くは無い時間だが、寝込んでしまうくらいには躾けてやろう、と。




