誓い
「ここに御二人の、サインをお願いします」
今居る迷宮の上、地上にある目的地アウディーレ王国へ向かうことをはっきりと決めた後、笑い合うシエルとムウロの間にズズイッと割り込んだのは、一枚の紙を手にしたバックだった。
その紙には一言。
“アウディーレ王国で何があっても一切、『狂情伯爵』クリーオ及びその麾下にその責を問わない”
バックは何処からともなくペンを一本取り出すと、それをシエルに手渡した。紙にはっきり、大きく文字が書かれている隣を指差し、そこに名前を書けと言う。
それはシエルだけでなく、ムウロへの要求だった。
「しっかりしてるね」
シエルとしては、そこに書かれていることは当然、当たり前だ、と言える事だった。改めて誓いを書面にして残すようなことではない、書いても書かなくても関係ないことでは、と思えるような事。
だが、バックの表情は真剣そのもので。そこに冗談などの考えは一切含まれてはいなかった。
ムウロも呆れるような言葉を呟き、それでもあっさりとシエルから持っていたペンを受け取ると、さらさらと指示された空間に自分の名前を書いた。
「シエル。別に何の問題も無いから、此処に名前を書いてあげて。そうしないと、安心出来ないみたいだから」
「う、うん」
シエル自身も問題ないとは思っていたし、ムウロの後押しもあり、シエルもあっさりと自分の名前をそこに書く。
その様子を見守り、バックはホッと安堵の息を吐き出している。
「この件に関してはしっかりし過ぎな方がいいんです!」
『崇敬の迷宮』は、シエルはまだ知らないが色々な理由があり、広く『銀砕大公』配下、その管理下にある迷宮として知られてしまっている。
だが本来、この迷宮が属しているのは『死人大公』フレイなのだ。しかも、その直下ともいえる程、彼の目や意思が届きやすい重要度の高い迷宮になる。
その『死人大公』の迷宮の中で、『銀砕大公』の魔女と息子が故意であろうと事故であろうと怪我をした、万が一にも死んでしまったなんてことがあったなんてことになっては、大問題の中の大問題。
元より、この大公二人。あまり相性や仲が良いとはいえず、他の大公達と比べても自身に血族、部下などが直接にしろ間接にしろ、戦火を生み出した数はぐんを抜いて多い。
爵位を持たないバックは知らないことだったが、つい最近も『死人大公』フレイが『銀砕大公』に向かって全爵位持ちを前にして罪を問おうとしたのだ。ムウロが『銀砕大公』側の矛先とされた出来事。あれも『銀砕大公』が始めから出席し、その機嫌が少しでも損なわれている時だったなら、そしてディアナが介入してこなかったなら、一瞬にして大公同士が牙を剥き出しにして向かい合う事態に発展していただろう。
『銀砕大公』アルスの好戦的な性格を思えば、自身の魔女と息子を傷つけられたという理由を手に、嬉々として『死人大公』フレイへの攻撃を始めることだろう。
それだけは絶対に回避しなくてはいけない。
バックは今、命を賭けるか賭けないか、そんな意気込みでシエルとムウロに署名を求めていたのだ。
「シエルに関してはそうだろうけど、僕に関してはそんな心配必要無いのに」
ムウロは笑って呆れるが、バックの表情は真剣そのもの。
睨むように細められた目でムウロへの反論を口にする様は、シエルも驚き呆気に取られるものだった。
「無いな。うん、本当に無いっすわ!うちのクリーオとビアンカさんがくっつく時でだって、あの御人はクリーオに"うちの娘泣かしたら…"って凄みにきたんっすからね!しかも、貴方の場合あの御人だけじゃなくて、あの兄も出てくるじゃないっすか!」
あぁ怖い!マジで怖い!
あの兄。それだけで多分、全ての魔族に対して話が通じてしまう程に、その力、その性格と共に有名な『麗猛公爵』レイまでもが介入してくるなんて。バックの両腕を抱えて、背筋を大きく振るわせた。
「いや、それこそ父上以上に無いよ。兄上がそこまでするのは、姉さんにだけだよ」
「その言葉を信じて、『銀砕大公』だけじゃなく『夜麗大公』の勢力まで敵に回すなんて、御免被ります!」
ムウロの呆れきった言葉をばっさりと切り捨て、バックはその鹿のような足そのままの跳躍で後方へと飛び退った。
その手にはしっかりと、先程二人が署名した誓約書の紙が握られている。
バックはそれを大切に、そして丁寧に折り畳むと自分の懐へと仕舞いこみ、先程までの真剣な表情を一変させて満面の笑顔を浮かべる。
「この紙さえあれば、一安心。上へは自由にどうぞ、どうぞ!」
好きにしてくれ、とバックは言う。
そして、その手はぐいと男性の腕の方を伸ばし、ビアンカの腕をがっしりと掴む。それ幸いに、とビアンカの周りに留まっていた二人の子供達もそれぞれ、ビアンカの両足にしがみ付いて、その動きを完全に止めた。
バックが跳躍してみせたのは、紙をしっかりと安全に確保する為、と今にも帰ろうとしていたビアンカの近くへと降り立つ為だったのだ。
「バック!」
「いやぁ、あいつと約束しちゃったんでぇ…」
ビアンカが非難の声をあげ、バックの手を乱暴に、足にしがみ付く子供達にはそれよりも優しくではあるが、振りほどいて逃げようと試みる。
だが、バックは絶対にその手を離さない。ビアンカのしなやかな女性の手の先に現れた、鋭い爪が深く食い込もうと、絶対に離しはしなかった。
友であり、主君である、クリーオとの約束。
彼が敵を排除し、この場所へと戻ってくるまで、彼の最愛の妻を留め置くこと。
バックはそれを何をもってしても、成し遂げねばならないのだ。
「ちょっと、ちょっとでいいからさ。会ってやってよ」
「嫌よ!絶対に嫌!」
「そもそもさぁ、誤解なんだって。もっとよく、話を聞いてさえくれれば、ね?」
ビアンカの腕を絶対に離そうとはせず、バックは彼女に切々と語りかけ始めた。
「さて行こうか、シエル」
「えっ?いいの、あれは?」
酷い事に。姉のそんなピンチに対し、ムウロはシエルの手を引いて、その場を離れようと促す。
大丈夫かなと思い、その光景をじっと見守ろうとしていたシエルは戸惑い、いいのかと指を差すが、足はムウロの促しと共に動いてしまう。
「まぁ、これもいい機会だからね。いい加減に、話し合えばいいんだよ」
そもそもの喧嘩の理由。それを考えても、二人はもっと話し合わないといけない。
ムウロのその言葉に、シエルが好奇心を隠せない目を輝かせ、聞いた。
「なんで喧嘩しちゃったの?」
ビアンカがあそこまで夫であるクリーオを嫌うようになってしまったのか。その理由を、知っていると口にしたも同然のムウロに改めて問い掛けた。
「…それを分かりやすく説明するには、まずは『狂情伯爵』クリーオに会った方がいいね」
多分、見ただけで分かるよ。
ムウロはそう、シエルに苦笑を向けた。
「あっ、第三階層に居るンで!会ったら、嫁さん確保、早く帰りたし!って伝えて貰えます?」
さぁ行こう、と足を動かす二人の背中に、バックのそんな言葉とビアンカの怒号が聞こえてきた。




