狂った情を捧げるもの
長らく合間をあけてしまいました。反省。
クス
クスクスクス
「鏡よ、鏡。私を悦ばすものを、私に示して」
鼻の奥深くに燻る甘い、濃密な香が焚き詰められた部屋で、一人の女性が上機嫌に喉を鳴らし、壁一面に張り巡らされた鏡に手をつき問いかけている。
この場には彼女以外の人影はなく、勿論その問い掛けに答える声は無い。
だが、確かにその声は誰かへと向けられた音が含まれていた。それは誰なのか。
その答えは声としてではなく、現象として現れる。
壁一面という巨大な鏡が、ぼぉっと仄かな灯を放ち始めたのだ。
その鏡面はぐにゃりと歪み続ける映像を流し始め、それを見た女性は口角を吊り上げる。
「あらあら。素敵ね」
そこに映ったものは彼女の置きに召すものだったようで、クスクスクスという笑い声が、より一層深みのあるものとなる。
「もう少し。そう、もう少しね。待っていて、私の‐‐‐‐」
視線は鏡の中へ確かに向いていた。だが、その恍惚とした表情、吐息のように切なさと悦びを含んだ言葉は、目の前ではない、何処か遠くの彼方へと向かっているのは明らかだった。
もこもこもこもこ
汚れ一つない真っ白な、見ただけで柔らかい手触りだと知れるそれは、シエルが以前に出会った羊人族のそれに似ていた。ただ、目の前に居るその人達が羊人族ではないことは、シエルにもすぐに分かった。
それは、シエルよりも少しだけ低い場所に頭がある人の形をしていた。
いや、正確にいえば、頭の上には二つの三角形の耳がぴょこぴょこと動いていて、お尻からは長い尻尾、手足の先は太くて丸く、爪のようなものが覗いている。
獣人?
いや、シエルが今までお目にかかってきた獣人とは少し違う姿形だ。
その全身はもこもこに温かそうな毛に覆われているのだが、ふとした瞬間にシエルの目に入ったそれが、シエルに衝撃を与えることになった。
「…中はどうなってるの?」
「えっ、中ってなぁに?」
「やだぁ、お姉さん、可笑しなこと言うね」
きゃはははは
子供だと思える、男女の区別のつかない甲高い声が大きく笑い、シエルの言葉を簡単に切り捨ててしまう。
えっ私が可笑しいのかな?
不安になったシエルが横に立つムウロを見上げると、彼は苦笑を浮かべて、シエルが見たものは確かに存在し、その考えが間違ってはいないことを頷いて肯定してくれた。
モコモコと同じ姿の二つの姿の、その背中の真ん中に、しエルを驚かしたそれはあった。
同じ間隔で首の後ろからお尻の上まで、長い毛と同じ色の為に見えにくくはなっているが、ボタンが並んでいたのだ。
つまり、それはこれが本当の肉体では無いということ。その中に、何かが存在しているということ。
だが、それをシエルが指摘しても、当の本人達が笑いながら否定する。何を言っているのか、と馬鹿にするように。
きゃははははは。
確かにボタンを見てしまったいるのに、そんな風に悪びれる様子もない二人に、シエルは少しだけ不安になる。そして、もう一度確認しようとムウロを見上げれば、彼はシエルの頭をポンポンと撫で、先程と同じように頷いた。ムウロのそれだけの仕草で、シエルはほっと不安を退けることが出来る。
「大丈夫。シエルの想像の通り、あれは―」
「お前達。客人に対して、なんですか!その失礼な態度は!」
この場までの道を開いてくれた、ムウロの姉ビアンカの荒立った声が飛んだ。
ビアンカの見た目は、優雅、おしとやか、なんて言葉の似合いそうな大人の女性、といったもの。少なくとも、シエルはそう思っていた。無邪気さが様々なところに垣間見えるディアナよりも年上、なんてことをシエルは考えていた。
そんなビアンカの、自分の背後から突然起こった怒声。ビリビリビリと周囲の空気を震わせたそれに、シエルはびっくり、亀のように頭を肩に沈めるような動作を無意識の内にしていた。
それはシエルだけでなく、怒声を浴びることとなった、シエルの目の前の二人も同じ。いや、それが間違いなく自分に向かったものだと自覚しているのだから、驚きよりも大きな恐怖に全身をざわっと震わせていた。
「ママ…」
「で、でも、母ちゃん…」
足元から頭の先、モコモコの偽物の毛皮を震わせた二人。耳を突く甲高い笑い声をすぐさまに引っ込めると、シエルの頭上を通り越した先にあるビアンカの顔を真っ直ぐに見上げ、言い分けを繰り出そうと試みた。
「でも、も。だって、も。下らぬ言い分けは嫌いよ!」
だが、そんな言い分けの言葉を切り出させることも許さず、ビアンカはばっさりと切り捨ててしまった。
「ムウさん、」
二人とビアンカに挟まれる形になっていたシエルとムウロ。
つんつんとムウロの腕の裾を摘まみ、シエルはその間から避けるように離れた。そして、ムウロを見上げながら、不思議な二人を指差した。
「ビアンカさんの?…あれ、っていうことはムウさんの?」
ビアンカと、その二人の言葉から、彼女達の関係は聞くまでもなく分かった。それを確認しようとムウロに切り出したシエルだったが、その途中でそれだけではないと気がついた。
「うん、そう。僕の甥っ子と姪っ子だよ。ビアンカ姉さんと此処の主の子供」
シエルがムウロと共に、ビアンカの案内と許しをもって訪れたこの場所。
『狂情伯爵』が生み出した『崇敬の迷宮』の最下層。地上から数えるなら、七の階層を地下へと下ってきた場所だ。
『狂情伯爵』は『死人大公』フレイの配下にあたるもの。あまり馴れ合ってはいない大公の配下とあっては、その迷宮の、しかも最下層になど突然現れることなど許されないことだ。姿を見せた途端に攻撃されようと、文句の一つも言えぬ行為。
だが、『銀砕大公』の長女ビアンカに限って言えば、『狂情伯爵』の迷宮のどの階層であろうと、魔界における居城であろうと、許しなく訪れることが可能だった。何故なら、彼女は『狂情伯爵』の唯一の、愛してやまないと自他共に認める妻だからだ。
「『狂情伯爵』であるクリーオさんの子はビアンカ姉さんの産んだ八人が居るんだけど、あの二人はその六番目と七番目。二人とも父親似でね、それでああいう格好をしてるんだ」
「どうして、お父さんに似るとあんな姿になるの?」
ムウロの説明は圧倒的に説明が足りなかった。
そこをシエルが指摘すると、ムウロは苦笑を浮かべて、ちらりと姉を見た。
「姉さんとクリーオさんは今、少し前から別居中なんだけど、」
「ムウロ!あれと私はすでに離縁しているの。絶縁!もう完全な他人!嘘偽りを教えるんじゃないわ!」
横目でちらちらとさせながら、ムウロがシエルに説明を始めようとした。
すると、小さな声だった筈のそれをしっかりと耳にしていたビアンカから、今度はムウロに向かって叱責が飛んできた。
「て、姉さん本人は言ってるんだけど。クリーオさんは絶対に認めてない。あの人は姉さんのこと、それはもう溺愛しててね。それで…」
「ムウロ!」
「ムウロ叔父さんの言う通りだよ。母ちゃん、もういい加減にさ、機嫌治して帰ってきてよ」
「あっ!馬鹿!!」
「機嫌!?私がただ、機嫌を損ねただけで離縁したと?」
幼い子供の甲高い二人の声、そのどちらかといえば低めかなと思える声が、冷めた様子の声でムウロの説明を止めようとしたビアンカ、母に投げ掛けられた。
もう片方がそれを焦って止めようとしたが、すでに手遅れで。それはしっかりと、ビアンカの耳へと突き刺さってしまっていた。
ふるふると全身を震わせたビアンカ。振り絞るように、その口から放たれたビアンカの声は、恐ろしいまでの重みを持つ。
「まったく、お前は本当に父親にそっくり!」
あれと同じようなことを!
爆発。ビアンカの激昂はそう表すことが適当だった。
その言い方、その表情に声。その全てが、ビアンカがクリーオという『狂情伯爵』への怒りを燃やしに燃やしているこたが知れた。
「やっ、やだやだ?ごめん!ごめん、母ちゃん!!嫌いにならないで!」
それは子供もよく分かっているのだろう。
ビアンカのその言葉に、子供の二人ともがすぐさま、涙声で母へと謝り、その体に逃がさないという意志表示のように、しっかりと抱きついたのだった。




