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冷たい命令

『崇敬の迷宮』

その言葉を聞くだけで、ビアンカは虫唾の走る思いを味わう。

その迷宮の主に会わねばならないなど、身を引き裂かれんばかりの苦痛でしかない。

だというのに、この目の前に立つ、自身を呼び出した弟は其処へ案内して欲しいとのたまうのだ。

地上に開いた口から入ればいいだろうと言えば、それが出来ぬからこその頼みだと言い返してくる。

チラリと視線を巡らせれば、そこには慣れ親しんだ父の気配と力を見に纏う少女の姿。

役にも立たない兄に替わって、一族のことなどを取り仕切っているビアンカはその少女、シエルが父の魔女であり、そして『勇者の欠片』であることも知っている。もちろん、この『銀砕の迷宮』が突然変異を起こし拡大した経緯もだ。

だから、今まで兄弟達の中でも一番と言ってもいい程に、ビアンカへ何かを要求することがなかったムウロが今回の要求に出た理由も、この少女にあるのだということも理解出来る。父にして、ビアンカにとっては主ともいえる存在である『銀砕大公』の魔女に表する敬意はある。滅多に我侭を言わない弟の望みを叶えてあげてもいいかなという思いもある。だが、それとこれとは話は別なのだ。『崇敬の迷宮』とその主たる『狂情伯爵』になど、もう二度と関わりたくない、近寄りたくない、顔も見たくないのだ。


「父上様の尻尾の一本や二本、すぐに再生するのだから、それを売り払ってツケにあてなさい!」


そう、どうせ再生するのだ。

他の爵位ならばいざ知らず、『大公』として魔王の亡骸の一部、その力の多くを譲り受けているアルスは、四肢が吹き飛ぼうと、尻尾を引き千切ろうと、僅かにでも命を残しているのならば再生してみせる。それが勇者の力によるものでない限り。

『大公』の体の一部とあらば、人間も、魔族も、喜んで大金を積むだろう。

ビアンカが頭を痛めて捻出する必要もない。


「ということで、私への要件は終わりましたね。それでは私は忙しいので帰りますわ。ヘクス様、また何れ父上様がおかけしている御迷惑に関して御礼と御詫びに参りますわね。シエル様、最近はしっかりとしているけれど、抜けたところのあるムウロですが、どうぞ良しなに」


さぁ、さっさと帰ろう。

ビアンカは早口言葉のように口を回し、転移をして姿を消そうと試みた。


だが、それはビアンカの意に反して、試みだけに甘んじた。


「悲しいな。悲しいな、父さんは。これが反抗期ってやつか」

俺の尻尾を売り払おうなんて酷ぇことを。

お父さん、泣いちゃう。


此処にある筈のない声が、どうして転移が行えなかったのかをビアンカに知らせた。

此処は『銀砕の迷宮』。迷宮内での転移は、その主の許しなくば成せぬこと。ビアンカやムウロは主の子として、そして元々に許しを得ている状態であるからこそ、何時でも転移を成すことが出来る。そうでなくても、この迷宮はアルスが面白いからという理由でそれを許している。

それが阻まれた。それはつまり、主たるアルスがそれを許可しなかったからだ。


「父上、様?」

「来たんだ」

「アルスおじさん!」


自分の尻尾をすりすりと撫でながら、くすんと目頭を押さえて泣いた真似をする。

別に驚くことではないかも知れない。此処はアルスの迷宮。そのアルスが突然現れたからといって、驚くほうが間違っているのだ。

だが、どうして、と思わずにはいられない。

ビアンカがムウロからの連絡を受けた時、アルスは不在だった。


此処最近、魔界を驚きと混乱の渦に突き落としている騒動、『魔女大公』の遺物盗難。

それを警戒してか、自身の下に残っているそれらの傍から離れようとはせず、顔を見せるビアンカ達子供や部下達に思い出話を語ってみせたりしていたアルス。

それが突然、出掛けてくると言って出ていった時には何があったのかと驚いた。その驚きの中、ビアンカ達が何があったのかと話し合っている時に、ムウロからの連絡が入ったのだ。


だから、故意にビアンカを探すか、何かムウロやシエル、この村に用事があって赴いたのでなければ、アルスが此処に来ることはない。


どうして。

そう考えたのはビアンカ。だが、それもすぐに違う思いによって書き換えられた。


「むっさい息子共が反抗期になるより、可愛い娘のきっつい反抗期は胸が苦しいもんがあるな」

思ってもないことを、とアルスのわざとらしい演技にイラついた。それは、"むっさい"などと評された息子の一人であるムウロも同じだった。

そんな事を本心から思っている訳がないと、娘息子は分かっていた。

シエルやヘクスが見ているアルスの姿、性格など、二人にとっては何の冗談だと思うものなのだ。

昔は、大戦以前は、いやビアンカから言わせれば『魔女大公』アリアと出会う以前では、今の姿など考え付きもしないものだった。

それにしても。

「何時の間に、御着替えを成されたのかしら?」

「久しぶりだね、あの格好」

現れた父の姿に、二人は思わず惚けてしまった。





「おじさん、どうしたの、その格好?」

娘、息子でさえも久しぶりと言うそれは、十分にシエルを驚かすことに成功した。


銀色に輝く前髪をきっちりと乱れ一つなく後ろへ向かって撫で付け、顎に生えていたシエルが見慣れた無精髭は剃り残し一つ残っていない。

だらしない服装など面影一つなく、皺一つない貴族、王族の絵姿を見ているような服装を違和感一つない、難なく着こなしてみせた姿。

どこか普段よりも若く見える、しっかりとした見た目。

シエルは思った。

この姿を最初から見ていたのなら、アルスが『銀砕大公』であると聞かされても驚くことはなかっただろう、と。


「うるせぇ奴からの、真面目な呼び出しだったからな。あとはまぁ、なんとなく?」


シエルの驚きの問いに答えたその声や言葉遣いがもっと取り繕ったものならば、より一層完璧だったのに、なんてこともシエルは思う。

だが、そうなってしまえば、何だかアルスらしくなく、シエルには気軽に声を掛けられなくなってしまいそうで、少しだけ胸の奥底でホッと安堵した。


「で、クリーオの迷宮に行きたいって?」

にやにや、と。

それこそ、今現在の姿に一切見合わない、だらしなく厭らしい笑みを湛えたアルスが、シエル、ムウロ、そしてブライアン達、その最後にビアンカへと視線を廻らせた。

その目には、面白がる色がキラキラと輝いていた。

「クリーオ?」

「『崇敬の迷宮』、に行きたいんだろ?」

その言葉の中の何が面白いのかは、シエルには分からない。だが、アルスはぷるぷると肩を震わせて、噛み締めるように言葉を紡ぐのだ。

「そこを作った、『狂情伯爵』の名だ。んで、俺の娘婿ってことになる」

「…えっ?」

シエルだけじゃない。ヘクスやジーク、ブライアン、二人の近衛騎士達までも目を見開いて、その視線をビアンカへと振り注いだ。


視線を集めたビアンカは、両手で自分の耳を塞ぎ、硬く目を閉ざし、全員に背を向ける。その背は、自分は一切何の関係もない、何も聞こえない、と語っているようだった。


「フレイに属する迷宮だが、ビアンカさえ連れてきゃ転移だって簡単だ。むしろ、歓待されるだろうよ」

行って来い、行って来い、とシエルの頭を乱暴な手つきでアルスは撫でる。

「父上様!」

嫌だと言っているのに!と耳を塞いでいて聞こえていなかった筈のビアンカが、非難の声を上げた。アルスが何を言い出すか、その危険性が高いであろうことは長年の経験でビアンカも分かっていた。だから、耳を塞いでいるように見せて、少しだけ耳を澄ませていた。そのおかげで、自身の魔女に対する父の言葉を聞き逃さなかった。


「ビアンカ。命令だ」


シエルは驚いた。

そして、その言葉を向けられたビアンカも息を呑んだ。

それまでのにやついたアルスの表情が一瞬にして成りを潜め、冷たく重たい、恐怖さえ感じるものとなった。その上で放たれた、温度を感じさせない声。そして、命令という重たい言葉。


「はい、父上様」


ビアンカは嫌だという自分の気持ちを無理矢理にでも押さえ込み、そう頷くしか無かった。


「おじさん?」

「まぁ、頑張ってくれな?」


そのしっかりとした姿形への驚きを上回った驚きを露にして、シエルはアルスの冷たい表情を見上げた。そんなシエルの頭をまた、乱暴にがしがしと撫で回した時には、アルスの表情や声は元の通りに緩み、笑みを湛えるものとなっていた。

そして、シエルを応援するその声は何処か、力の無いものに聞こえたのだった。


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