閉ざされた場所
「アウディーレ王国に行って貰いたい」
アウディーレ王国?
ブライアンが口にしたその名前は、シエルが聞いた事も見た事もない国の名前だった。
これまでの勉強の中にも、冒険者達の話の中にも、まったく聞き覚えが無い。そう言い切ってしまえる、そんな何の知識も無い国へ、シエルに言って欲しいとブライアンは表情一つ変えることなく言う。
「あぁ、あそこか。確かに、あそこは君にも見えないだろうね」
シエルとは違いムウロは知っていたらしく、その国名に納得をしたと大きく頷いて見せた。そして、それはムウロだけでなく、ヘクスと結婚する前までは冒険者として旅から旅への生活をしていたジークにも納得出来るものだった。
「だが、あそこにシエルを向かわせるって事なら、俺は反対だな。あんな場所…ましてや、どうやって入らせるつもりだ」
シエルにも、そしてヘクスも分からぬことばかりだったが、ジークはそんな二人を気に留めることなく、ブライアンに向かって睨みを効かせる。
あんな場所、とまでジークが表情を渋めて口にしたアウディーレ王国とは…?
「聖騎士も、帝国が差し向けるどんな存在も、入国することもままならない。あの国はそういう場所だ。だけど、シエル嬢ならば容易に可能だ。しかも、王国の中心部に近い地にいける。ロゼの為にも、シエル嬢に頼むことこそが最善だと私は考えた」
「どうして私なら入れるの?」
「…そういうこと…シエルというよりは、父上が目当て?」
またもシエルが理解出来ないでいる隣で、ムウロが納得の声をあげた。
「おじさん?」
シエルは考えた。
今までの体験などを含めて色々と考えて考えて、そして…
「お酒とか、女の人とか…」
シエルの考えは口から漏れ出てしまっていた。
突然、シエルの口から飛び出てきた似合いもしない言葉に、シエルを置き去りにして話を進めていたムウロもジークも、そしてブライアンにその後ろの近衛騎士達も、目を見開き瞬かせ、話を途中にしてシエルに視線を向けたのだった。
「あっ、おじさんの迷宮がある?」
っていうことなのかな、とくるくると頭を回転させて考え付いたのは極々マトモな結論だった。
これだ、とその結論に自信があったシエルは、それが正解かどうかムウロに確かめようと顔を上げる。そして、自分に集まっている全員の目を見つけ、びっくりと開きかけていた口を閉じることになった。
「そう。あの国の王都にほど近い場所には、あの一帯では唯一の迷宮、『銀砕大公』の管理下にあるとされている『崇敬の迷宮』が存在している。大公の魔女であるシエル嬢ならば、迷宮から迷宮に渡ることも簡単だろう。それに、彼女の『目』によって存在が知られている者達よりも、ロゼがいなかった場合にのみではあるが、シエル嬢ならば顔も知られていない。その上、『勇者の欠片』を持つ者同士に存在する親和性がある程度『目』の警戒から存在を逃すことを可能とするだろう」
シエルが彼らの視線に驚きから覚めるよりも先に、ブライアンが説明を始めていた。
その表情は真剣そのもので、頼むと頭を下げる。
「ん?」
驚きから覚めることも出来ずに始まった説明と頼みに、呆気にとられながらも頷きかけたシエル。元々、大切な姉であるロゼの為なら、と受けているようなものだった申し出なのだ。頷くことに躊躇いはない。ただ、そのブライアンの説明にはシエルが想像もしていなかった、ある気になる言葉が含まれていた。それに気づいたシエルは頷くのを途中で止め、首を傾げながらブライアン、二人の近衛騎士、ジーク、そして最期にムウロ。ブライアンの説明に驚く様子もなく聞いていた、その辺りの事情はすでに知っていたであろう面々の顔を見回した。
「『目』?『欠片』?」
シエルの手が、自然と自分の『右耳』を触れた。
元が同じ存在の部品だったせいか、欠片持ち同士は無条件に惹かれあい、信頼しあってしまうものなんだそうだ。
そう前にブライアンから聞かされていた為、親和性という言葉で表現された意味は理解出来た。
「皇太子様のお母さんが、ううん、『左目』の人がその国には居るの?」
こんな風にブライアンが、そして皆が警戒をしているのだ。それが父の親しい知り合いで、ブライアンの母親である『勇者の右目』である筈が無い。それに途中で気づいたシエルは、まだ会った事のない『勇者の左目』を持った人こそが、ブライアンの説明に出てきた『目』であるのか、とムウロやブライアンに尋ねた。
「…シエルとあれを会わせたくないんだけど?」
シエルは驚いた。
今まで様々なことをシエルに教えてくれてきたムウロが、シエルの問い掛けに答えることなく、気まずげに顔を背け、その口から出て来た言葉もブライアンに向けたものだった。
眉間に深い皺を何本も作り出し、舌打ちを漏らしそうに歪んだ口元。
ムウロの言う"あれ"というのは、きっと『左目』の人の事だろう。
ムウロがそんなに、嫌そうなのはどうして?
「それでも、あの国が、いやあの『左目』が今回の件に関わっている可能性が高いということは、私や聖騎士達が一致させた見解だ。そして、あそこに行って無事でいられる可能性が高いのはシエル嬢だけだろう、というのも」
よく見ると、その『左目』の話を言葉にする時、ブライアンの表情も嫌悪感を露に押し出していることがシエルにも分かった。
「絶対に、嫌!!!」
ブライアンやムウロを同じ、嫌悪感を前面に押し出した表情と声で、その人は拒絶を示した。
アルスと同じ銀色のふわふわと大きく広がる柔らかな髪が、身長よりも長く伸ばされ、その先は床に接してしまっている。華奢に見えるすらりと細い女性。だが、その透き通るような整った顔はムウロよりも高い場所にあり、女性にしては滅多にない背の高さ、何よりもその身長であっても床に垂れ流されている髪の長さに驚かされる。
現れたばかりの時には、おっとりと垂れ下がっていた目端が吊り上がり、灰色の目はムウロを射抜いている。
その顔立ちはどこか、ムウロやアルスに似ていると思うのは、彼女がムウロの姉であると聞いたからなのか。
ブライアンの言葉に渋々ながら納得したムウロは、それでも諦めきれぬようにシエルへ「本当にいく?」と聞いたのだ。ムウロのあまりの嫌がりように少し戸惑いながらも、シエルはその問い掛けに大きく頷いた。姉を探す為、その為なら頑張ろうととっくに覚悟は決めていた。
その姿を見たムウロが通信の魔道具を懐から取り出し、そして名指しで呼び出したのがこの女性だった。
『銀砕大公』の子供の一人、第二子にして、長女。つまり、ムウロの一番上の姉であるというビアンカ。
その際に、ヘクスに内緒話をするように交渉していた。その後、シエルが厨房で目にしてジークが「割るなよ、割ってくれるなよ」と何度も注意してきたことで覚えているお酒の名前を、通信具に向かって語りかけていたのは、少し面白い光景だった。
お酒の名前を語り、数回のやり取りの後、そのビアンカは転移し、シエル達の前に現れた。
「『崇敬の迷宮』は別に父上が管理している迷宮じゃないんだ。あそこは父上の配下でも、魔狼一族でもない者が管理している迷宮。かといって、全く関係が無い訳じゃない」
そう言ったムウロは、呼び出しに応じて転移してきたばかりのビアンカを指し示した。ビアンカの表情は『崇敬の迷宮』という言葉を耳にした瞬間、穏やかで優美な微笑みが崩れ、引き攣り始めていたのだが、ムウロはそれを一切気に留めることなく話を続けた。
「あの迷宮に行くには、このビアンカ姉上が…」
そんなムウロの言葉の途中で、完全に笑みを消し去って表情を引き攣らせたビアンカは叫んだのだ。
嫌だ、という拒絶の言葉を。
「父上のツケを綺麗さっぱりに、無かったことにしてくれるっていうのに?」
「それは魅力的な言葉だけれど、あの男に会うくらいなら父上様の尻尾の一本や二本、差し出した方がマシよ!」




