その渦中
「おっ。」
「なんですか、殿下?」
カリカリカリ
ペンを走らせる音が鳴り止むことのない皇太子の執務室で突然、書類に目を通しサインを施していた皇太子ブライアンが声を出して顔を上げた。
皇太子の承認を必要とする重要な書類に目を通していた皇太子のそんな反応。部屋の中で書類の仕分けなどを手伝いながら待機していた近衛達も、ブライアンに手渡す前に書類を確認していた文官達も、その手を止めてブライアンへ目を集めた。
「ん…いや…、何でもないぞ?」
胡散臭い。そんな感想を皆に抱かせる笑顔を浮かべ、ブライアンは手をヒラヒラと振って、視線を書類へと戻すように指示する。
だが、何かあると言っているようにしか見えないブライアンの笑顔に、すんなりと仕事へと戻れるものなど居なかった。
「なんですか?また、何か悪巧みでも?」
「馬鹿を言うな。ほら、次の書類は?」
その笑顔を浮かべたまま部下からの不審な眼差しを一蹴したブライアンは、手元にある最後の書類にサインを施し、手を止めている文官に次を要求する。
「何、何?"ディクス侯爵家の横暴により、可愛い子等を奪われた母親の悲哀に殿下の御慈悲を賜りたく…"。あぁ、今日もまた、か。」
文官から確認済みの書類の束を受け取ったブライアンは、その一番上に置かれている書類に目を通す。
そして、書類を一瞥したブライアンは、嘲笑を顔に滲ませたのだった。
アルゲート侯爵夫人、イリア・アルゲートの署名が成されているその陳情書から顔を上げたブライアンは、シリウスにその文面を見せるように掲げた。
調べ物の為にと皇宮の蔵書室から持ち出されたままとなっている書物などを整理していたシリウスは、うんざりとした面持ちで顔をあげ、ブライアンがヒラヒラと掲げている紙を射抜くような目で見た。
「お前達がディクス家に移って9日間か、よく飽きもせずに毎日のように私へ送りつけてこれるものだ。」
「申し訳御座いません。」
皇宮で起こった不審火を理由に、ロゼとグレルが帝都へと戻されたのは10日前のこと。
その翌日には、忙しい合間を縫って話し合ったらしい兄妹達は、皇太子、皇后、皇帝のそれぞれに陳情書を出し、自分達の籍をアルゲート家からディクス家へと正当な手続きと承認を持って移したのだった。実子として彼等を扱い、公表していたアルゲート家当主とその妻は驚愕と怒りを露にし、もちろん皇帝へと異議を申し立て彼等を連れ戻そうとしたが、それも叶わず。三人を受け入れる側となったディクス家当主モノグさえも、何も聞かされていない内の決定に驚き、呆れ果てていた。
皇帝の承認を受けるやいなや、アルゲートの屋敷にあった自分達の荷物を彼等はさっさと隣に建つディクス家の本邸へと移してしまい、夫妻も家人も誰一人として止める隙もない鮮やかな行動だった。
あれから毎日のように、アルゲート夫人はシリウスの主である皇太子や、女性の庇護者を明言している皇后へと陳情を奏上し続けていた。
「返事は何時も通りに書いておけばいいな?」
「はい。」
深々と頭を下げて身内であった者の不手際を詫びるシリウスに、そんな事しなくていいとブライアンと部屋に居る仲間達が笑う。
便覧とペンを手にした文官が手馴れた様子で、紙にシリウスの字体を完璧に真似て文を認めていった。
親と引き離されるは子としても酷く傷つく事ではあるが、私達三人においてはそれも二度目。傷つく心など持ち合わせてはおりません。
名のあるディクス侯爵家を途絶えさせる訳にもいかないという皇帝陛下のお考えに、帝国に忠誠を誓う身として何に置いても従うことの何に、不満があると言われるのか。
シリウス、ロゼ、グレルの署名を連ね、毎日のように送られてくるアルゲート夫人の陳情書へと返答として送り返している。
だというのに、諦めようとしないアルゲート夫人の動向に、シリウスは冷めた面持ちで溜息を吐き出す。
「大変だな、シリウス。此処にはアルゲート夫人の"アルゲート家に戻れ"という手紙が届き、家に帰れば"妹さんに相応しいのは私だ"って手紙が大量に送りつけられてくる日々。人の噂は75日っていう言葉が遠国にはあるというが…、あと66日か。」
「…そちらに関しては、伯父が手を尽くしてくれていますので、早々に収束すると思われます。」
帰還して三日。
公衆の面前で行なわれたロゼと、警邏隊隊長クインの電撃的な交際発覚と婚約は、多くの目があるところでの出来事であった為に瞬く間に帝都中の平民、貴族、そして国中へと広がっていった。
ロゼに憧れを抱いていた女達や、淡い恋心を抱いていた男達は驚きと嘆きに打ちひしがれ、中には強硬手段に手をつける者も少なくはなかった。
爵位も持たない、たかが警邏隊隊長。貴族社会では珍しいともいえないものの、年の差のある冴えない男が相手とあっては、諦めきれないのだと目の前ではっきりと叫んだ気概のある若者もいた。
ロゼ本人や、ロゼの公式な保護者となったモノグ、兄であるシリウスに、婚約を破棄して身分相応の者と結ばれなければならないのだという手紙が多く届けられた。
身分相応の相手を選べと書いた次に続くのは、それを書いて寄越した本人の名前。
それは失笑を誘う文面だった。
毎日のように、ディクス家の屋敷へと届けられる手紙の数々。気が早く結納の品を贈りつけてくる者もいた。
あまり気が長いともいえないモノグが、現役時代に貯めに貯めた多くの貴族達の弱みや恥部を書き置いて送り返しているおかげか、少しずつではあるものの届く手紙は減ってきていた。
「ディクスの屋敷も大変だな。色々な方面から差し向けられた奴等に張り込まれて、鬱陶しくて仕方ないだろう。」
皇太子の覚え深き近衛であるシリウス。戦闘方面でなら魔術師団一の実力を発揮しているロゼ。新しい術の開発や後方支援系の魔術でならロゼよりも上をゆくグレル。
若手でいえば出世頭ともいえる兄妹達を全員、手の内に入れたディクス家に対するやっかみは大きい。何かを始めるのではないか、良く方面にも悪い方面にも取れる考えを抱いた多くの貴族達が、その動向を注視している。その為に、ディクス家の屋敷の周辺には多くの、小蝿のようなもの小物から、名の知れた手練までの、差し向けられた者達が昼夜問わず張り込んでいた。
クックク
その光景を思い浮かべ、ブライアンは笑い声を漏らす。
その顔が、先ほどブライアンが突然浮かべた胡散臭い表情に通じるものを見つけ、シリウスを初めとする部下達は警戒するように顔を顰めた。
殿下?
答えがはぐらかされると分かっていようと呼びかけずには居られないのは、放っておいて後々に大騒ぎに発展してしまった時を考えるからだろうか。何も無いか、小さな騒ぎで終わればいいのだが、楽観視が出来るわけもないのだ。
「何、本当に大したことはない。ただ、帝都へ新たに面白き住人が増えようとしているだけだ。」
ブライアンの『目』には、可愛らしい同胞が連れて来た帝都の新たな民の姿が映っていた。
人から魔に転じた少女。
その目から見た世界は、どんな様子を移すのだろうか。そんな事にブライアンは興味を引かれていた。
「残りの三人は、貴方の関係者なのかな?貴方が出てきた瞬間から、感じる気配の色が変わった。」
其処と其処、そして其処。
感じ取った気配が隠れている場所を簡単に指差していったムウロに、ニールは苦笑を浮かべた。
「もう、とっくに一人前をなって巣立っていったのじゃが、まぁそれでも可愛い子供達じゃよ。この年寄りの心配をしてくれただけじゃで、許してやっておくれ。」
シエルだけでなく、それなりに鋭敏な感覚を持っているアーナも気づけなかったようだが、その三つの気配達はニールが姿を見せたその瞬間から、殺気さえも含む警戒を上手く隠しながらムウロへと向けていた。
「あれらは仕事じゃが、儂はただお嬢さん達がディクス家に向かうと小耳に挟んでな。心配で様子を見に来ただけじゃよ。」
「心配?」
どうして?
シエルの疑問は、目の前の老人が自分達を心配してくれるのか、ディクス家に行くことが何故心配なのか、という二つに掛かっていた。
 




