アラクネのアーナ
お母様に食べられた人間の魂が消化されずに残り、卵に宿って生まれてきたのが私なのではないかと、お母様が連れていって下さった魔界のお医者様に言われました。
それが、正解なのか不正解なのかは定かではありませんが、確かに私は卵から孵った時から人間としての記憶を持っていたのです。お母様ではない誰かを母と呼んでいる記憶、私達姉妹の餌となった父ではない誰かを父と呼んでいる記憶、知らぬはずの地上の景色、知らぬ筈の知識を知っていました。お母様は驚いてはいらっしゃいましたが、私を巣から追い出す訳でもなく、姉妹達を同じ様に接し、同じ様に育ててくださいました。
ただ、父や、お母様が捕って来て下さるご飯に手をつけることが出来ずに、私は姉妹達の半分も成長出来ませんでした。そんな私を、忙しい中あれやこれや食べさせようと手間をかけて下さいましたし、お医者様の下や、その紹介の夢魔様の下へも危険を返りみず連れていってくれました。
私は全然覚えてはいないのですが、無意識の内にお母様に食べられた時の記憶や人としての意識が残っていて、生の血肉を受け付けないのだろうと言われました。
すると、お母様や姉妹達は、苦手だというのに火を熾し、私の分のご飯に火をしっかりと通してくれたのです。
ですから、決してお母様や姉妹達が嫌いとか苦手とか、そんな事は思っていません。
そんな気持ち悪いものは捨ててしまえ、とアラクネの方々に忠告されても、私を守って育ててくださったのですから。
ですから、家族と別れ地上に行き生きていくというのは、別にお母様たちのことを厭ってのことではありません。ただ、私の中にある人である意識が、魔界で生き延びることを難しくさせるからなのです。
夢魔様が仰いました。
人である記憶が、アラクネとしての本能を抑圧してしまっている。その為に、アラクネとしてのまともな食事が阻害されているし、普通のアラクネ達が無意識の内にやってのける糸の操作も不得手で餌を捕ることも、己の身を守ることも難しい、と。
だから、お母様や夢魔様と話し合って、地上へ行くことにしたのです。姉妹達の倍は掛かるかも知れないけれど、生き延び成長することが出来れば、人に変ずることが出来るようになる。そうなれば、人の記憶を持つ私は人の社会に紛れることが出来るから、と。
「ですから、出来る事ならば人里からそう離れていない場所に良き所があれば、と思っております。もちろん、そのような無茶など捨て置いて下さって構いません。比較的安全な森ならば、どうにか生き延びて見せますから。」
お願い申し上げます、とアーナは頭を深々と下げた。
「夢魔って、もしかしてキロヴの事?あれがそう言うのなら、間違いはないのでしょうけれど…。」
にわかに信じ難い話だと、バーバラはアーナがした説明に戸惑いを露にしている。
バーバラが出した名前に、アーナはそうだと笑顔で頷いた。知り合いで、他者の内面を探る術に秀でている齢を重ねた夢魔の判断ならば、とバーバラは何とかアーナの説明を飲み込み、納得しようと努力を始めた。
「医者は、ベルシュートかな?」
「ですわね。あの切り刻んで縫うのが大好きな変態は、アラクネの糸を好んでいると有名ですし、腕だけは良いのですもの。」
人間からすれば、常識も通じず、社会など無いように思えるだろう魔界だが、そこにはしっかりとした社会がある。治める爵位持ちや種族によって秩序も何もかも違いはあるだろうが、そこに生きる魔族達は人間と変わらない自分達の日々の生活を営んでいるのだ。その日常の中には病気もあるし怪我もある。腕のよしあし、当たり外れは大きいが、医者という名称を名乗る魔族も何人も存在している。その中で、カーラが頼りそうな医者としてムウロやカーラの脳裏に過ぎるのは、ただ一人だった。
「お名前は存じませんが、顔や手に縫い痕のたくさんある御老人でした。」
「あぁ、それがベルシュートだね。」
それはムウロも面識のある腕の良い医者だ。
信じ難い話だったが、腕にはしっかりと覚えのある知り合いの二人がそう判断したのなら、とムウロとバーバラは信じるしかなかった。
「それにしても、子供のアラクネが生き延びれる程度に比較的安全な森。人里に近ければ尚良し、ね。」
そんな所あるかなぁ、とムウロは考える。
地上をあちらこちらへと遊び歩いているムウロだが、立ち寄ることが多いのは人が多く集まる場所か、何かムウロの興味をそそるような騒ぎがあった場所。安全だとか、そんな事を考えて地上の事を確認したことなど無いのだ。聞かれても困るというのが本音だった。
「ねぇ、ねぇねぇ、ムウさん!私、いい場所を思いついたよ!!」
顎に手を置き、唸るように悩むムウロの服を引いたシエルは、自信に溢れる様子を全面に出している。
「えっ、本当?」
一言で表してしまえば、箱入り娘なシエル。届け物係を始める前は村とその周辺の中で生活していたし、その後も地上では限られた場所にしか行っていない。その殆どがムウロと一緒の行動だった。
その中で、シエルが自信満々に言い切れるような場所があっただろうか、とムウロは思い出して考えたが、思い至る場所はなかった。
何処のこと?
不思議そうに聞き返したムウロ、キラキラとした目でシエルを見上げてくるアーナ。
私もそんな場所思い浮かびませんわね、と考える必要はないというのに、面倒見良く一緒に悩んでくれていたバーバラも興味深いという目をシエルに向けた。
「伯父さんの別邸。伯父さんが鳥を捕って燻製にするくらいだから、ご飯にも困らない森があるよね?伯父さんにお願いすれば、家も使っていいかもしれない。そうすれば、台所を使って料理も出来る。」
「貴族の敷地の中だから、滅多なことでは危害を加えるような人間は入って来れない。」
そういうこと?
シエルの説明を途中で引き継いだムウロが確認すれば、満面の笑顔を浮かべたシエルが晴れやかな頷いてみせた。
「うん!外に買い物に行けるようになったら、たくさんお店があるし。ぴったりでしょう?」
それは確かに条件にぴったりと当て嵌まる。其処がどんな所かなのかを知っているムウロは、すっかりとシエルの提案に納得してしまった。
その横で、シエルの伯父のことも、その家のことも知らないバーバラとアーナは、そんな納得し合っている二人を不思議そうに見守り、説明してもらえる時を待っていた。
帝都の端にある、山の中腹に建っているディクス侯爵家の別邸。
山を切り開いて造られた景観地の端に建ち、森と同化していっている手入れも行き届いていない荒れた屋敷は、確かに私有地ということで隔離され安全で、アラクネの子供ならば充分な獲物が捕獲出来る適度な環境が揃っている。
「じゃあ、駄目かどうかは聞いてみないと分からないし、まずは行ってみようか。」
「うん。」
二人の中で、アーナを届ける先は決定したのだった。
「ということで、失礼するね。」
「えぇっと、メリッサさん達に、ありがとうございました、って。」
アーナはシエルの肩の上。
歌姫と結びつくわけではないが、メリッサの名前を出していいか悩みながらのお礼は、少しだけ声が小さくなり聞き取り辛いものだったが、バーバラの耳にはしっかりと届いていた。
「しっかりとお伝え致しますわね。」
また遊びに御出で下さいな、とバーバラは伝言をしっかりと伝えることを約束した。
転移の術をムウロが発動し、移動する為の道へ入る。
その目的地は、帝都。
「伯父さんの所に、大丈夫か聞きに行かなきゃだね。」
「そうだね。さて、ディクス侯爵家の本邸は貴族達の暮らす区域の何処だったかな?」
何処に行くのか知らされていないアーナは、シエルの肩の上で口を閉ざしているしかない。そして二人の話からヒントを得ようと耳をそばだてていたのだが、その中に聞こえた言葉はアーナを驚かせた。
き、貴族!!?
山奥に置き去りにされることを覚悟していた。
なのに、人間であった時の記憶にも登場することがない貴族なんて存在の下に連れて行かれる。
アーナの心臓は今、破裂しそうな程にドキドキと高鳴っている。




