女と男の決断
澄んだ水を湛えている池を見下ろす丘の上、木々どころか草一本生えることなく黒く焦げ付いている地面の上に立ち、メリッサは一人歌っていた。
それは、メリッサが毎日のように行なっている習慣だった。
メリッサが家族と共に住んでいる第三客街、バーバラが管理している『黒蛇の迷宮』の第一階層に位置する低所得者達を主な客とした宿泊地は、ほぼ地上と同じ時間の設定となっている。
第四階層にある、メリッサの職場フローランホールには夜や昼などの概念が作られておらず、メリッサは第一階層の時間を基として、朝出勤し、夜退勤していた。
メリッサは朝早く目覚めると、護衛達との約束の時間が来るまでの間、一人ある場所へ向かう事を習慣としていた。
その場所とは、地上にある山奥の小さな村の跡だった。
小さくも大きくもない国の、滅多に出向く者もいないような小さな領地の端に存在していた村。女や子供達は畑を耕したり、山の恵みを採取して街に向けて出荷し、力のある男達は山の奥へと踏み入り、鉄や銅などの鉱物を掘り出して鍛冶師へと売る。そんな生活を何十年と続けていた小さく貧しい村は、何十年も前に魔物の襲撃を受けて跡形もなく滅んでいた。その魔物の力、放たれた瘴気によるものなのか、何十年も経った今となっても村の跡地には草木一本生えることなく、魔物の力によって焼き払われた姿をそのままに晒している。
そんな村跡の上に立ち、メリッサは池を見下ろしながら歌を口ずさむ。
歌の練習を思いっきりする為。そんな理由で国四つ分程遠く離れている『黒蛇の迷宮』から此処まで、転移の道を魔道具を使ってヘンゼルに作らせたのは、メリッサだった。
この村は、メリッサと二人の妹達、そして第三客街にある宿屋や飲み屋などで働き、今や大切な家庭を築いている友人達が生まれ育った場所だった。
ある日、この村にある慶事が訪れ、それに必要な資金を手に入れる為に娘達が売られた。
貧しいもの程、その家族は大きなものとなる。その例に当て嵌まるように、この村の十数軒ある全ての家庭も子供が多かった。その中で、必要のなり娘達全てが売られていった。
従順であればそれなりの生活が保障されるのだ、見目の良かった娘達はまだ良かった。見目の悪い、その筋では到底売れないだろうと勝手な判断を下されたメリッサ達は、奴隷として売られたのだ。人としては扱われない、家具や物としての扱い。メリッサ達は二束三文の金の為に、そんな生活に突き落とされた。
幸運だったのは、メリッサが妹達を慰めようと口ずさんでいた歌を聞いたバーバラとヘンゼルが、メリッサを買い取ろうとした事だった。最後の好機なのだと、メリッサは妹達、友人達、そして同じ檻に入れられていた者達も一緒に、と頼んだ。その歌は大金に化けると口にした二人に、代金は自分が稼ぎ出すから、と。
二人はそれを、面白いと受けてくれた。
駄目元で頼んだ、あまりにも薄汚れた願い故に今だに妹達にも明かせていないもう一つの願いも、多額の借金を背負う事で受けてくれた。
メリッサが何年何十年歌い続けても払い終わる気もしない借金を抱え込んでしまっているが、それでもメリッサは今が幸せだと思っている。
2本の角が生えている鬼のダクセという男。男相手だというのに綺麗だと口にしてしまうその容姿がまず気に食わなかったのだが、それだけでなく今あるメリッサにとっての幸せを崩してしまいそうな、その存在が嫌いだ。バーバラよりも高位にある公爵だというのだ、きっとメリッサの借金を払い、買い取るだけの財力もあるのだろう。やろうと思えば、メリッサを無理矢理連れ去る程度の事は簡単に出来るのだろう。そしてメリッサの本当の姿を見て、殺すか売るかして捨て去るのだ。
心から思う、もう二度と会いたくないと。放っておいてくれ、と。
ガサッ
「何の音だべ?」
歌の練習くらい一人でさせろ、と言ったメリッサの頼みに、じゃあ安全だけは確保して、とヘンゼルが施した結界が村の跡地の周囲には張り巡らされている。
だから、今まで魔物にも人にも、小さな動物などにも会ったことはなかった。だというのに、物思いに耽っていたメリッサの耳に届いた物音。
風に揺れた木々の音や、池が波立つ音ではない。
自然に生まれた音ではないと感じたメリッサは、警戒を露にして周囲を見回した。
「…!おめぇは…」
メリッサは此処にある筈のないものを目にした。
「む、ムウロ殿が、あんな事仰るからですぞ!!!」
「そうだ!どうすんですか!!!」
ボロボロに毛並みを汚した魔狼姿のムウロに、鬼達が一斉に募る。
ほうほうのていで地下深くから這い出してきたというのに、勝手に嘆かれ、怒りを向けられ、ムウロの苛立ちが極限に達したのは仕方ないことといえた。
「へぇ、僕のせいとでも?それで、どうしろって?」
グルルルルル
狼の喉を低く唸らせ、全身の灰銀の毛を逆立て、周囲に集まっている鬼達にその鋭い牙を見せる。
人間とそう変わらない大きさの鬼達よりも大きな狼が、何時でも彼等をかみ殺して回れるのだと、その殺気を露にして周囲を睨め付ける。
「…申し訳御座いません、言葉が過ぎました。」
鬼の里という、老いた者から子供までも合わせずとも仲間達が多くいる環境であっても、彼等の本能が危険だと判断を下していた。それが戦場という戦うべき場であったのならば、戦うことを好む鬼達は迷うことなく武器を持って立ち上がっただろう。だが、今はそんな場ではなく、なおかつ相手であるムウロは伯爵位、その背後には吸血鬼族と魔狼族があった。戦いを好んではいても、滅びを望んでいる訳ではない。何より、今は彼等の王であるダクセが姿を眩ませてしまっている。
鬼達は一斉に膝をつくと、ムウロに謝罪と恭順を示した。
元々、戦いを好まず、のんびり気儘にあることを好む温厚ともいえる性質のムウロ。
鬼達のその姿を見て、苛立ちを抑えた。
そして、人の姿へと変じた。
「で、ダクセに何かあったの?」
冷たく、鋭い声を出し、ムウロは鬼達をダクセに代わり纏めているのであろう、最初にムウロへ募った老いた鬼に問い掛けた。
あんな事を言うから、とその鬼はムウロに募った。
大ッ嫌い。
鬼以外では美人とされる、ダクセのその顔がメリッサは嫌っている。
ムウロなりに解読したメリッサの意思を伝えた。それが悪かったのか、とムウロは思ったのだが、どれだけ思い出してもムウロを地下へと落とす前のダクセは落ち込んでも、諦めているようにも見えなかった。
「鬼の美的感覚は、人や多様の魔族のものとは違うとは理解している。」
ダクセはそう呟いた。共感は出来ず、鬼としての感覚を捨てることなど出来ないが、爵位持ちとして鬼以外の種を多く関わるダクセには、それを知識として持っていた。
「そうか…メリッサはこの顔を美しいものと判断したのか…。」
「なんでか知らないけど、美形は嫌いなんだってさ。だから、君には微量の可能性も無いと思うよ?」
あれだけ暴れていた様子も、声を荒げていた様子も消え去り、落ち着き払った声で呟いたダクセ。顔を伏せたその姿に、諦めなよ、と出来るだけ刺激しないようにムウロは声を掛けた。
「それは仕方ない。彼女の人生は、美しいと言われる者のせいで狂ったのだからな。」
「えっ?」
艶の無いボサボサの黒髪に覆われた、伏せたダクセの口の端が大きく持ち上げられた。
その笑い方に嫌な予感を覚えたムウロが、飛び上がりダクセとの距離を置こうと考えたのだが、それはもう遅かった。何気ない動作で振り上げられた拳をダクセは振り下ろし、まだムウロの足が着いていた石を組み合わせて作られている床へと叩き付けた。周囲を取り囲んでいた鬼達は、鍛え上げられた動作で逃げることが出来た。だが、ダクセのすぐ傍にあったムウロは、ダクセの拳によってひび割れ、床が砕け散ることで生まれた深い暗闇の穴に体を吸い込まれることになってしまった。
一瞬驚きの余り動きを鈍らせたムウロだったが、元々空を飛ぶ術を心得ているのだ。落ち着いてしまえば、深い穴に怯えることなく、宙を浮かぶことは出来る。
「少し遊んでいけ。」
だが、それはダクセによって意味のないこととなった。宙に浮かんだムウロの足首を掴み、投げるように穴の中へと引き摺り入れた。
「何だよ、一体!!?」
それでも、その程度のこと、と動いたムウロだったが、落ちていく勢いを殺すことも、宙に留まる事も何故か出来なかった。その上、変じていた人の姿がムウロの意思に反し、狼の本性へ戻ってしまった。
「そこは普段、私の鍛錬場として利用している空間。公爵位と共に受け継いだ魔王の力を注いでいるから、大概の魔族の力は無効化され、肉体を鍛えるにはよい場所だ。純然たる個として持つ力ならば、私はお前の足下にも及ばぬだろう。だが、与えられた魔王の力の欠片ならば、公爵位である私の方が大きい。少し、其処で遊んでいけ。」
ダクセの言葉の通り、その地下の空間ではムウロの力はほぼ封じられた状態となった。ただただ肉体を鍛える為にある空間を狼の姿で駆け抜け、迫り来る罠や障害を潜り抜けて出口を探す。
そして、ようやく戻ってこれたと思えば、ダクセの姿はなく、鬼達の慌てふためく姿があった。
「"もう、戻らないだろう。あとは好きにしろ。"そう言い置いて、ダクセ様は去っていってしまわれました。」
さめざめと泣く老いた鬼。お労しい、と涙を拭う鬼も居た。
確かに、好いた女に振られた後にその台詞。どう見ても、傷心を癒す為の逃避行だった。
「まぁ、いいんじゃないかな?何処に行こうと大概は生き残れるだろうし。その内、何処かで嫁でも見つけて帰ってくるよ。うん。」
「そんなぁ!!!」
どうしたらいいのか、と鬼達がうろたえてムウロに意見を仰いでくるが、それ以外にムウロに言うことはなかった。
足止めするものがいないのなら、さっさと帰るに限る。
鬼達に一瞥を送ることなく、ムウロはその場をさっさと後にしていった。
「ど、どうしたんだべ!?あんれぇ、まぁ!!姉さん、その子どうしたんだべ?」
「拾っだ。」
毎朝、何処かで行なっている歌の練習から帰ってくるメリッサを、喉に良いというお茶を用意して出迎えるのは、台所で家族全員の朝ご飯の準備をする妹達二人の役目だった。
今日もまた、そろそろ帰ってくる時間だとお茶を用意し、そしてメリッサと共に出て行く客人の少女の分の朝食の準備を整えていた二人は、メリッサが手を繋いで連れ帰ってきたそれを見て、目を見開いた。
全体的に汚れが目立ち、異臭まで漂ってくる汚い子供。
薄茶の髪は櫛など一度として入れたことが無いだろうという程の、ボサボサに絡まった状態だ。その幼さの残る顔は頬に残る大きな火傷の痕と、表情の乏しさを除けば、普通の子供に見えたことだろう。
辛うじて纏っていることの出来る状態の服からは、枯れ枝のような腕や足が覗く。
彼女達にとって、バーバラとメリッサによって助け出されるまでに見た、幼い頃の記憶を充分に刺激される姿だった。
「バーバラに許可を貰っでぐるから、ごの子が暮らぜるような準備をしといでぐれ。」
此処はバーバラの迷宮の中。其処に住まうというのなら、迷宮主の許しが居る。その上、バーバラは居住費を要求した。メリッサの借金の中には、その費用もしっかりと入っている。
「まぁた、姉さんったら。そんなんじゃぁ、何時まで経っても借金は減らねぇよ。」
呆れたように口を開いた妹達だったが、それでもその顔にはそんな姉が誇らしいという笑顔を浮かんでいた。
「うるせぇ。いいがら、この子に朝ご飯さ食わせておけ。私は、娘っ子起こしてくる。」
妹達が向けてくる笑顔から顔を赤らめながら背け、メリッサは台所を後にしてシエルが泊っている部屋へ向かおうとした。
クイッ
だが、それをメリッサの腕を引くことで、少年が止めた。
「大丈夫だ。すぐ戻ってくるから。ちょっど、此処で待ってな。」
メリッサは、表情一つ変えてはいないものの何処か心細けな雰囲気を滲ませ、自分の腕を掴んでくる少年の汚い頭を撫で回す。
な?
腰を屈めて笑顔を見せるメリッサに答えるように、少年は手を離した。
「いい子だべ。」
そして、メリッサはシエルを起こしに向かった。




