おやすみなさい。
ロゼとグレルが、荷物持ちの役目を果たした三人の衛兵達を共に帝都へ帰って行った。
荷物を纏め、食堂へと戻ってきたロゼは、再びヘクスとシエルを抱きしめ、村人達とも握手をしたり、抱きしめたりと別れを惜しんだ。
唯一、ジークにだけは差し出された手を叩き落とすという行為を行って悪態さえついた。だが、村に来る以前であったのならば、魔術の一つや二つを叩き込む程度のことはしていただろう。それを思えば、とジークの口元は綻び、それを悟られ前として不自然な表情となっていた。
そんなジークに「気持ち悪ッ」という言葉を投げつけ、ロゼは転移の術の中へと入っていった。
ロゼの後に、ヘクスとシエルを抱きしめて別れを惜しんだグレル。
シエルが帝都に送られる原因である手紙を持ち込んだグレルの友人であるアサド達は、ロゼからの知らせを受けて戻ったグレルによって殴られ、八つ当たりのような小さな術を掛けられ、仕置きされていた。これが、彼らが断る事も出来ない任務でなければ、グレルは学生時代からの友人である彼等でなければ、迷宮の何処かに捨てるくらいはしたのだから、その程度に済んで良かったとアサド達はホッと胸を撫で下ろした。そして、シエルが帰ってくるまではと帝都へと帰還するわけでもなく、この宿に留まり続けていた。
そんな彼等も、無事にシエルとヘクスが帰ってきたことを喜び、それによって無意識に続いていた緊張も緩んだのも仕方ないとも言える。
緊張も無くなった彼等は、別れを惜しむグレルを学生時代のノリでからかった。
「うるさい。」
そんな彼等を転移の術へと蹴り落としたグレルは、「待っていてね。」という言葉を残し、自身も転移の術の中へと消えていった。
「ヘクス~。見るだけ、見るだけだから、なっ?」
グレルとロゼが消えた後、待ってましたと言わんばかりにヘクスへと詰め寄るガース達村人。鍛冶師であるガースが鉱物に興味を示すのはシエルにも納得のいく光景だったが、他の村人達まで目の色を変えて木箱に興味を示していることは不思議だった。
一つ分かることがあるとすれば、その背後で仁王立ちして夫達を見張っている女性達が居なければ、酔いに任せたなどの振りをして木箱を物色するくらいは、彼等ならしていたということだった。それをしたとしても、ヘクスならば許すだろうなと思うシエルだったが、頭に過ぎるのはモノグが言っていた祖母リリーナの逸話の数々。そして、物語などでよく見かける宝物を勝手に触った人々が酷い目にあうという展開。
冒険者達に言わせれば有名な魔術師であるホグスがいるのだから大丈夫だとは思うが、何か呪いが仕掛けてあったのかな、とシエルは人に知られないようにドキドキ、そしてワクワクしていた。
ふぁぁぅ
だが、どんなにワクワクドキドキしていようと、押し寄せてきた眠気がシエルに大きな欠伸を漏らさせた。
初めて訪れた帝都を見て回れると、ベットの中へ入っても一向に眠ることが出来なかった。
そして、朝は朝で高揚した精神が目覚めを促し、眠りについた時間を考えたら起きる訳のない早朝に目覚めてしまった。
そして、大きな帝都の中を、慣れない人混みを潜り抜けて歩いたことも、意識しない内にシエルへ疲れを溜め込ませていたのだろう。
一度欠伸が漏れ出てしまえば、その後はもう止めることが出来なかった。
「疲れたんなら、さっさと部屋に行って休めよ。」
ポンポンと優しく頭を叩いたのは、父親であるジークだった。
何時もならヘクスを助けに行くのになぁ、なんて不思議に思ったシエルだったが、眠気が襲い掛かってきて瞼を閉じさせようとしている今はただ、その言葉に従おうという以外のことをそれ以上考えることは出来なかった。
「おやすみなさい。」
返事など期待していない、小さな声だった。
だというのに、ヘクスに縋る男達も、それに目を光らせている女達も、木箱の山の前で困った顔になっているヘクスも、そしてシエルの頭に手を置いた後すぐ、ヘクスの横に並んだジークも。
「「おやすみ。」」
全員が、シエルの言葉に返事をしてくれた。
迷宮の中を歩き回って、色々な人達に出会うのも楽しい。
帝都に行って、今まで見たことも感じたこともないような光景も見ることが出来た。
でも、やっぱりシエルにとって一番落ち着ける、大好きな場所は自分の家で、この村なのだと感じた。
寝惚け眼の中、シエルは満面の笑顔をなって自分の部屋に帰る。
自分の部屋の、フカフカな羊人族特製の布団の中に入る頃には、はっきりとした意識もなく、すでに半分は夢の中だった。
フラフラな足取りになりながらもベットに入ったシエルは、すぐに寝息を立てて眠りについた。
ふぅん。なかなか、面白い子達が生まれたもんね。
スヤスヤと眠るシエルを窓から覗き込む者が一人。
向こう側の景色が透けて見える女が一人、手すりも何もない、窓の外にフヨフヨと浮かんで部屋の中を覗いていた。
「えぇっと、怪しい人間って事でいいのかな?」
そんな女に声を掛ける、同じ様に空に浮かんでみせているムウロ。
全ての用事を終わらせて帰ってきたムウロ。シエルの部屋らしき窓を覗き込んでいる、存在感が極僅かにしか感じられない女性の姿に驚き、もしかして害意があったら、と考えて声を掛けたのだった。
その、その姿を見たからこそ感じ取ることが出来る存在感や、研ぎ澄ませても一切感じ取ることの出来ない魔力などを考えれば、危険な存在ではないとは思っていた。
あら?あぁ、私のことは気にしないで。只の、術に仕込んでおいた意識の欠片みたいなもんだから。私の財産を奪おうって奴をぶちのめす為に残しておいた仕掛けってやつ?無事に、娘が受け取ってくれたみたいだから、お役ゴメン。すぐに消えるわ。
「つまり、貴女の名前はリリーナって事?」
あら。貴方みたいな魔族に名前を知って貰えるなんて、嬉しいわね。
コロコロと笑うリリーナの身体は、言っていた通りに消え始めていた。
「それにしても…もしかして何か人以外の血が混じってる?」
薄っすらと、本当に僅かに感じられる気配の中に、ムウロは何処か知っている気のする気配を感じ取っていた。目を細め、鼻を研ぎ澄ませて、その気配を探ろうとするが、元となるリリーナの気配が薄いもののせいで、何か遠い昔に覚えがある気配としか解らなかった。
うふふ。さぁ?聞いてるかどうか知らないけど、私って親の事を直には知らないから。そうなのかも知れないし、そうじゃないかも知れない。まぁ知りたかったら、私の弟の方が詳しいだろうから、そっちに聞いてみたら?あ、そうそう。良かったらヘクスに伝えてくれる?あの中に、お守りになりそうなのも入ってるから、上手く使いなって。
「自分で伝えたら?」
まだ時間はあるでしょう、と身体の半分程消えたリリーナにムウロは提案した。
だが、その提案をリリーナは大笑いで笑い飛ばしたのだった。
無理無理。あの子、誰に似たんだか鈍いんだもん。
じゃあ、よろしくね~『灰牙伯』殿。
あっ、うちの孫のことも、ちゃんとよろしくね。
バイバイ、と手を振って消えていった、リリーナ。
その口が、最後何かを言おうと動いていたようだったが、すでに消え掛かっていた口元を読み取ることは出来なかった。
あまり声を潜めても居なかったやり取りに、あっと思ったムウロは部屋の中を確かめる。
熟睡しているのだろう、シエルは一切起きる気配もなく、スヤスヤと寝息を立てていた。
良かった。
ホッと息をついたムウロは、リリーナに頼まれた伝言を伝える為に、まだまだ明かりが灯って騒いでいる声も聞こえてくる食堂へと向かった。
まもってあげてよ。
ムウロが読み取ることの出来なかった、リリーナの口元。
その言葉がどんな意味をもって言われたのか、ムウロが、そしてシエルが体験することになるのは、そう遠くない未来でのことだった。




