被害者と『強欲の魔女』
バタバタ
階下から多くの足音が聞こえてくる。
「まったく、近所迷惑だというのに。」
やれやれ、と溜息を吐いたニールだったが、その顔に浮かぶのは穏やかな苦笑だった。
室内の灯りは一つ灯してはいない。だが、夜遅くまで様々な店が営業を続けている大通りから放たれている灯りや、星空に瞬く月明かりが、ニールが窓辺の椅子に腰掛けている自室を動くのに支障が無い程度には明るくしてくれていた。
巨大な国土と、近隣諸国を圧倒する権力を有する帝国。それに蔓延る裏社会もまた強大な影響力を持ち、幾つもの勢力が攻めぎあって存在している。
そんな裏社会において、全ての組織がその意を尊重する存在、それがニールだった。表向きには孤児院を経営し、神殿との付き合いも深い。平民だけでなく、貴族からも信頼され、人には言えぬ悩みを打ち明けられることも多い。それが、ニールが裏社会の顔役であると周知されていてもなお、というのだから可笑しなことだった。
黙っていても様々な組織から上納される資金は、そこいらの小国の一年の国家予算並にもなる。
だというのに、ニールが長年暮らす家は、五人程の家族が暮らすのがギリギリという平々凡々とした民家だった。老人が一人で暮らすには充分過ぎる程の家だったが、そんなニールを心配して世話に通ってくる者達や、ニールに相談を聞いて欲しいとやってくる人々、報告に訪れる裏社会の人間など、ニールが家に一人になる瞬間は存在しなかった。
「こらっ!静かにしないと、ニール先生が休めないでしょう!!手伝いをしないなら、帰る!」
後輩達の世話をすることを仕事にすると、孤児院に残った少女の声が階下から聞こえた。
日々、数人の子供達を連れて、料理や掃除などの簡単な家事を行いに来てくれている彼女には、子供達だけではなく、出入りしている大人達でさえ逆らえないところがあった。
今も、頭を竦めた厳つい顔の大人達が指示に従ったり、端に追いやられて小さくなっているのだろう。
ニールの脳裏に、そんな光景がパッと駆け巡った。
ニールの家から通りを一つ越えた場所に、ニールが運営している孤児院がある。子供達の面倒を見る為にも、そちらに住んだ方がいい。そう考えたこともあったが、己の下に出入りする人間が子供等の教育に悪いと理解していたニールは、引き取った孤児達とは一緒に暮らさずに、一人居を構えた。そして孤児院には、何十人もの孤児が伸び伸びと暮らせるようにと、貴族の屋敷を改築したものを用意した。
ニールは、自身の財産を惜しむことなく孤児院の建物の修繕や子供達の生活費、教育に注ぐ。孤児院では、勉強や簡単な役に立つ技術を教える教室を開き、それは近隣に住む平民の子達にも無償で解放していた。
実力さえあれば、上にのし上がることも可能だと宣言している帝国。
だが、それは容易なことではない。
何故なら、貴族や裕福な家に生まれた子供と、平民の子として生まれたでは、まずスタートの時点で差が付いてしまっているからだ。勉強する環境も何も無い場所から、それらを幼少の内から行なってきた者達を押し退けて伸し上がるのは困難な事だ。ニールは、その差を縮める場が必要だと、それを始めた。
今では、裏社会だけでなく、ニールを慕う教え子達は軍にも官吏にも在籍している。
親の故郷に戻って行った者の中には、近隣諸国の中央に様々な方法、立場で食い込んだ者も居るのだ。ニールの影響力は、皇帝も礼儀を尽くす程のものだった。
「クー。お前、爺様からの頼まれごと、張り切り過ぎて失敗したんだってなぁ。」
「しかも、あんな人通りの多い場所でワンワン泣いて、御爺様に縋りついたとか。どこが、俺はもう一人前の大人だっ…なのかな?」
「スティ!ギャン!弟を苛めるんじゃないよ!!!」
賑やかなものだな、と耳を済ませていれば、ニールと共に家に帰ってきたクーゼルをからかっている声と、それを叱り付けている様子が聞こえてきた。
あとで叱っておくか。
そう考えたニールは、クーゼルを落ち込ませてしまう事となった頼み事の発端となった一向と、当の昔にこの世から消え去った知人を思い出した。
そして、外から差し込む灯りによって見ることが出来る、黒い皮の手袋に覆われた自身の両手を見つめた。
"貴様なんぞに生かされるくらいならば、汚泥に溺れて息絶えた方が万倍もマシだ。"
どうやって出会い、どうやって関わりを持ち、どうやって彼女の気紛れを起こさせたのかは、細かい事なぞ最早忘却の彼方となっている。
だが、激しい雷雨の中、降り注ぐ雨を遮るものも無い状態で、ぐちゃぐちゃに抜かるんだ地面に倒れ伏せながら、顔だけをなんとか持ち上げてそう叫んだ自分の声だけは、はっきりと覚えている。
帝国の裏社会で起こった跡目争い。
二つ存在した大きな組織の頭目が壮絶な、表立って裏社会に関与することの無い皇帝さえも動かした戦いを起こし、共倒れという結果を残した。
それによって起こったのは、帝国全土を巻き込んだ二つの組織の跡目争い。お互いの組織を警戒しながら、そして時には報復を成しながら、何人もの野心持つ者達が跡目への正統性を声高にして参戦したそれは、表社会にまで影響を出すのも早かった。
もちろん、表に被害をもたらすのならば軍が動く。
それでも、争いは留まることなく、その中心となっていた帝都では人々は陽が昇っている間しか動くことが出来ない状況が築き上げられていた。
皇帝の名において鎮圧が命じられはしたものの、勢いを抑えることは出来ても、幕を下ろすことは出来ず。
跡目が決まるその時まで、それは続くものだと皆が感じ取っていた。
帝都内では、その日その日で暮らしていた下層民が争いが巻き込まれ、痛手を被っていた。陽が昇っている間にしか動けず、日々の仕事にも支障が起こる。貴族達や富裕層が住む区域よりも警邏隊の目が行き届かず、必然的に治安が悪化していくしかなかった下層民の区域では、下手に動けば死ぬ、そんな状況だった。
どんどんと悪化していく、生活。外から夜な夜な聞こえてくる争いの声に、心を弱らせた者も多かった。
その内に、幼い子供や年老いた者から、病を得て死んでしまう者も現れていた。
ニールは争いを起こしている二つの組織とは違う、小さな組織の末端に位置する人間だった。
違う組織といっても、全く関係ないと言い捨てることも出来ず、血を血で洗う争いに巻き込まれる日々を送り、家族が欠け、友が消え、顔見知りの人間の姿が見えなくなる日々を送っていた。
その果てに、深手を負って意識も朦朧となっていたニールの前に、派手に着飾った場違いな女が降り立った。
何度か、仕事の最中に敵や味方として顔を合わせた事のあった、若い女。
雇い入れる事が出来たなら千人力とも噂される、『強欲の魔女』という俗称で呼ばれるその女は、ニールに「助けてあげましょうか?」と手を差し伸べた。
だが、ニールはそれを、朦朧とした意識の中で強く拒絶していた。
細かいことは覚えていない。
だが、その拒絶が、女の興味をより一層引いてしまったのだと、今でなら後悔することが出来た。
あらぁ?
面白そうに、笑いを含みながら、『強欲の魔女』と呼ばれる女、リリーナは小首を傾げていた。
「酷いわね。私は、善意で、慈しみの想いを持って、助けの手を伸ばしているのに。」
「何が善意だ。慈しみだ!『強欲の魔女』が!己が欲望の為ならば親も子も売り払うと噂の女が、そんな言葉を知っていたとはお笑いだな。」
唾をリリーナの足下に飛ばしたニールの罵りに、リリーナは大声を上げて笑う。
「酷いことを言う奴等も居るものよね。…大方、私のせいで無一文にでもなっちゃった奴等かしら。でも、それは不正解。私だって、家族くらいは大切に想っているわよ。」
「はっ。どうだか。」
金さえ払えば、今の今まで味方だった人間を背後から攻撃する。そんな姿を見知っていたニールには、リリーナの言葉は鼻で笑い飛ばすものだった。
「本当よ?」
高笑いを上げていたリリーナの顔に一瞬、笑いも嘲りもない、真剣な面持ちが現れたことに、ニールは驚き息を呑んだ。
「本当に酷いわ。私の繊細な心が傷ついたわ。」
心にも無いことを。ニールはそう口にしようとしたが、それはリリーナの声によって遮られた。
「だから、貴方にお仕置きくらいしても、誰も私を責めはしないわよね。」
だが、それは一瞬の事で、すぐにニヤニヤという薄気味の悪い笑みが浮かび、大きな宝石がはめ込まれた指輪に彩られている手がニールへと向かい伸びてくる。
「何をする!?」
その手から逃れたいと思っても、深手を負っているニールの身体は動いてはくれなかった。
「何を怯えているの?私に救われるくらいなら、汚らしく死んでもいいんでしょう?だったら、そんなに震えないでよ。私が、悪い人みたいじゃない。」
ブツブツと、近くに居るニールにさえもはっきりと聞き取ることの出来ない声で、言葉を紡ぐリリーナ。
それが、魔術を扱う為の詠唱であるのは、リリーナがそれなりに腕の良い魔術師であると知っているから気づけた。何の術を発動するのか察知させない為に、魔術師の詠唱の声は小さいのだと、ニールに教えたのはリリーナだった。
「汚濁に塗れてもいいんでしょう。なら、そうしてあげるわ。」
ニィと笑ったリリーナの顔がニールに近づき、その蒼い目がほのかな光を灯していた。
チュッ
不思議に揺らめいた蒼い目に気を取られていたニールの額に、リリーナが口付けを落とした。
「ふふ。これで良し。ちゃんと成功したわ。明日から、とっても楽しくなるわよ!」
その意味を知ったのは、その言葉の通り、翌日の事だった。
ニールの両手は、触れるもの全てを腐らせた。土は汚泥となった。
突然の事に思い悩んだし、苦しんだ。だが、自暴自棄にもなっていたニールはその力を使い、争いを止めた。後釜と名乗りを上げて参戦していた者達全てを腐らせた。
従わなければ…と手を見せて脅していった。
それでも苦難はあったが、最終的にニールは二つの組織さえ従える、裏社会の顔役にまで伸し上がっていた。
解き方を忘れた、と全てが終わった後にリリーナは言い、その言葉の通りリリーナが死んだ後でも両手に掛けられた"呪い"が解けることは無かった。
だが、ニールが二つの組織を相手取って戦い始めてすぐの頃に、リリーナが利息付の月払いで売りつけていった、両手の"呪い"の力を抑え込む黒皮の手袋のおかげで、生活に困ることは無かった。
今では、別に何の支障のなく、穏やかな日々を遅れていた。
「ちょっと、何なのよ!?」
扉をノックする音。
数人の足音が家に入ってくる音。
造りの安い家では、少し耳を澄ませれば隣や階下の音を拾い取ることは簡単に出来た。
そして、長年裏社会に身を置いていたニールには、階下で一気に高まった警戒や殺気を難なく感じ取る事が出来た。
「墓地で起こった、ある盗難事件について、ニール翁に話をお聞きしたい事がある。リリーナという女性に関することだ。そう伝えれば、すぐに解るらしいが?」
堅苦しい声音が、ニールの居場所を尋ねていた。
やれやれ。
ニールは腰を上げた。
色々な情報が集まってくるニールは、もちろんリリーナの墓から遺体が消えていたという話も知っていた。
そして、モノグとシェアズの会話の内容もすでに。
本当に何も知らないんだがな。
それを信じてもらえるか。
ニールは階下で始まろうとしている一騒動を治める為にも、と階下へと降りていった。




