兄にも苦難
「四つ下さい。」
初めて味わう人混みを、シリウスの助けを得ながら何とか潜り抜けたシエルが、路上に座り込んで丸いヤルタという果実に錐を立てている店主に注文した。
このヤルタという果物は、僅かな酸味を含んだ甘さの果汁が子供のおやつとして人気で、また病人に飲ませておけと言われる程の栄養があり、この朝市でも引っ切り無しに購入者が絶えない。
どんなに高い崖の上から地面に落とそうとヒビ一つ入ることが無い固い皮に穴を開けなければ、甘い果汁を飲むことは出来ず、技術と力を用いて穴を開けられたヤルタの実を人々は屋台から購入する。
シエルが注文した時は丁度、用意していたヤルタの実が売り切れたところで、店主は「ちょっと待ってな」と丸太のように太い腕を細かく動かし、錐を使い穴を開ける作業を続けていた。
「前ね、お父さんがこれを使って冒険者の人を撃退したんだよ。」
四つのヤルタの実に穴が開くのを待ちながら、シエルはシリウスに少し前にあったヤルタの実に関する話をする。
ヤルタの実はとても固い。
保存の効く飲み物兼いざと言う時の武器代わりに、冒険者が持つこともあるほどだ。
そんなモノで攻撃されれば、打ち所が悪ければ死ぬだろう。
母の夫で、妹の父親であるジークを直接は知らないシリウスだったが、どうしてそんなことを、と呆れずにはいられなかった。
「あったわね。そういえば、シリウスも昔同じようなことをしたわ。」
「そんなこと…」
母の言葉を否定しようとしたシリウスだったが、思い当たることを一つ思い出し口を閉ざした。
村を出る少し前の頃、宿に泊まった客に対してヤルタの実を投げつけたことがあった。
すでに迷宮に一人で潜り、狩りをしていたシリウスの投擲の技術は村の狩人達のお墨付きがあった。充分な威力を持って投げつけられたヤルタの実を受けた冒険者は、シリウスが殺意をそれなりに押さえ腹部に向けて投げつけたこともあって、数日寝込む程度で終わった。
日頃は無茶をする弟妹の留め役を担っていたシリウスがそんな事をした理由は確か…。
「お父さんは、お母さんをナンパしようとした人に投げつけてたけど…。」
お兄ちゃんはどうして?
それを同じ理由だ、なんて純粋な目を向けてくる妹に言えるわけも無い。
「なんとなく…気に食わなくてな。」
「そうなんだ。」
濁した答えを返したシリウスに、シエルは目を丸めた。
色々な人から聞かされた兄シリウスの話からは完璧な凄い人という印象を、シエルは考えていた。だから、気に食わないから、という理由をそのまま受け止めたシエルは、なんだか今まで考えていたよりも気安い人なんだという感覚を受けた。
アルスの魔女になり、諦めていた迷宮の冒険も、それ以上の色々な場所に行けるようになった。その上、兄姉達と会え、彼等が想像していたよりももっと身近な存在であると知れた。
シエルはあらためて、とっとも嬉しいのだと感じている。
驚く事や怖い事も一杯あった。だが今、シエルは幸せだなぁと実感していた。
えへへ
その思いが溢れ出て、唐突に抑えるような笑い声を上げたシエル。
突然のそれに、シリウスもヘクスも驚いたようだったが、シエルのはにかんだ笑みを受け、無表情のままながらヘクスの纏う雰囲気は和らぎ、シリウスも柔らかい笑みを浮かべてシエルの頭を優しく撫でた。
今度は、ジークやグレル、ロゼも一緒だと良いわね。
ヘクスの言葉に、シリウスもシエルも頷き、同意を示したのだった。
「もしかして、シリウス様?」
四つ目のヤルタの実に穴を開けようとしていた店主が、幸せそうな3人の親子の様子に、何かおまけでもと考えている中、その空気は見事に打ち破る声がかけられた。
その声に覚えがあったらしく、深くフードを被っている為に、身長さの大きなシエルからしか覗き見ることの出来ない笑みが、一瞬にして消え去り、鋭く目を細める。
その瞬間を見てしまったシエルは警戒を強め、そしてシリウスに促されるがまま、ヘクスへと寄り添うこととなった。
シエルとヘクスがしっかりと寄り添った様子を確認したシリウスは、二人を背に庇うように振り向き、声の持ち主と向き合った。
皇太子の近衛としてなど、色々と顔が売れていると自覚があるシリウスは、騒がれてもたまらないと顔を隠していた。だから、確信を持っていないように呼びかけたそれに、人違いだと言ってしまえばそれまでではある。だが、これまでの経験上から、この声の持ち主にそれが通用しないことも、シリウスは知っていた。
違うと否定したとしても、自分が納得するまで確認するだろう。下手に否定をしようものなら、何をしでかすか分からない。何をされようと守りきる自信はあるが、ヘクスやシエルの為にもなるべく穏便に終わらせる必要があると考えた。
「何の用でしょうか、グリーフェル公爵令嬢?」
出来るだけ冷たく、素っ気無い声で、突き放す。
「まぁ!やっぱり。シリウス様の御姿をわたくしが見間違う訳がありませんもの。うふふ。嬉しいですわ。このような下賤な場所で、シリウス様にお会い出来るだなんて。思ってもみませんでしたが…ふふふ…これが、運命というものですのね。やっぱり、やぁっぱり、わたくしとシリウス様は運命の糸で繋がっているのですわ。」
シリウスの背に守られながら、シエルが顔を覗かせてみると、そこには同じ意匠の服を纏った数人の若い男女の姿があった。
シリウスに声をかけてきたのは、その先頭にいる若い女性のようで、シリウスと向かいあい、頬を赤く染めて恍惚の表情を浮かべ身悶えている。
深窓の令嬢。
そんな物語でみた言葉が似合うような人だった。真っ白な肌は高価な人形のように美しく、薄く日に透けるよな金髪は綺麗に整えられている。貴族の令嬢、と見ただけで分かる美しい女性は、ロゼよりも年下だろうか。
「ふふ、ふふふ、シリウス様。」
綺麗な人だなぁなんて思っていたシエルだったが、女性がシリウスの名を噛み締めるように呼び声が、うっとりと惚けるようにシリウスへと向ける目が、恐ろしくてたまらなくなり、そんな感想はどこかに飛んでいってしまった。
「このような場所で、何をなさっておいでなのですか、シリウス様?わたくしがお会いしたいとお願い申し上げても、お仕事がお忙しいと構って下さいませんのに。」
うっとりとシリウスの反応も何も関係なく言葉を紡ぎ続ける女性の背後で、同じ服を纏っている男女が顔を青褪めて、無言のまま頭を何度も下げているのもまた、恐ろしく見える。
「あぁ、そうなのですね。わたくしに会いに来て下さったのですわね。わたくしが学園の実習とはいえ、このような危うい場所に出向くとお知りになって、心配して来て下さったのですわね。」
彼女の中では、何かシエルの及びつかない話が進んでいるようだった。
その目は一切、シリウスから離れることはなく、一挙一動を見逃さないとばかりに、瞬きもしていないように見える。
「私用で来ているだけです。学園で行なわれる実習の日程は存じてはいませんし、この場所が"このような”と判断されるような場所だとは一切思いもしませんが?」
淡々と、ヘクスのように何も無くした表情で、シリウスはグリーフェル公爵家の娘、アナスタシアに向かう。
その後ろ手で、シエルとヘクスに指示を出した。人の流れの向こう側、クインが待っている方向に行けと指で示す。
だが、シエル達がその指示に従うよりも早く、瞬きの無いアナスタシアの目が二人に向けられた。
「そこの女達は一体なんですの?先程、なにかシリウス様と不相応にもお話をされているようでしたけど…。あぁ!まさか、不敬にもシリウス様に声を掛けてきたのですか?そして、わたくしの気を引こうとそれにお付き合いなさっていたのですね。いやですわ。そんなことをせずとも、わたくしはいつも、いつも、シリウス様のことばかりを見て、考えておりますのに。」
立場を弁えない頭の軽い女達は、わたくしがすぐに退けて差し上げますわ。
ご心配には及びませんわ。いつもと同じように、ですもの。
にっこりと笑うアナスタシアの周囲で、魔力が蠢き始める。
それまでは、横目に流しながらも気にかけることなく通り過ぎていた人々も、なんだなんだと足を止め、そして後退りなどをして逃げ始めていた。
「さぁ、わたくしとシリウス様の間に入ろうだなんて愚行を、反省なさい。」
シエルからすれば、初めて会った女性から向けられる殺意が詰め込まれた魔術。
だが、シエルにはあまり危機感が無かった。
ロゼのように、鈍感なシエルが驚く程の力は感じない。
グレルならば瞬きをしている間に発動し、そして終わってしまっている魔術を知っていると、とても遅く感じてしまうアナスタシアの魔術。
アルスやムウロ、レイなどのような、存在感も感じない。
それを口にしてしまえば、シエルがおかしいのだと誰かが教えてくれただろう。だが、それがシエルの知っている普通なのだ。
それに比べれば、アナスタシアの言動や様子に恐ろしさを感じても、その力には微塵の恐怖も覚えなかった。




