友達の息子
「凄い!」
シエルは感嘆の声を上げた。
目の前には、声を失ってしまう程の、美しい光景が広がっていた。
透けるような状態からジワジワと、その存在をはっきりとしたものへと変化させていった一枚の扉。目の前に現れた扉の鍵穴に、ディアナから贈られた鍵を挿し込み回す。
すると、カチンという音が聞こえ、扉が開いた。
薄暗い場所に慣れた目を苛めるような光が、開いた扉の隙間から漏れ出し、チチチッと鳥が鳴いている音も聞こえた。
えっと、あの荷物を中に運べばいいのかな。
そう思って振り返った時には、すでにブライアンが大きさも形も違う『鍵穴』を秘める物達を器用に、自身の両腕の中に積み上げていっていた。
「あっ、ゴメンなさい。持ちます。」
「いや、荷物持ちくらいさせてくれ。」
落ちそうで落ちない。そんな微妙なバランスに詰まれた光景に、シエルはハラハラと見入ってしまう。少しくらいは持たないと。そう思うが、何処に手を入れていいのかが分からない。少しでもシエルが手を触れてしまえば、崩れてしまいそうに思えた。
いいから。いいから。と笑うブライアンに促され、シエルは光を漏れ出す扉を押し、ディアナの箱庭へと足を踏み入れた。
『魔女大公』の忠告の声と共に起こった爆発。
シエル達はディアナによって避難させられた為、あの後箱庭の内部がどうなったのか、シエルには分からない。でも、大丈夫だと言いながら辛そうだったディアナの声は覚えている。
ムウロ達に、箱庭の中であれば魔女は最強になれると聞かされた。息子である神聖皇帝からの伝言で、怪我は治したと言った。それでも、ディアナの事は心配だった。
それと同じ伝言で、しばらく謹慎させるとあったから、そんなに連絡を取ってはいけないのかと思い、控えていた。そのこともあり、突然のことではあったがディアナに会うことになったということを、シエルは喜んでもいた。
「わぁ!!」
以前に訪れたのは、森の中に小さな広場だった。だから、シエルが抱いているディアナの箱庭への印象は森そのものだった。
だが、箱庭に足を踏み入れたシエルとブライアンを迎え入れた箱庭には、周囲を木々に囲まれた湖が目の前に広がっていた。丁度シエル達の目の前には、湖の中心に浮かんだ小さな家が建つ島に繋がる橋の入り口が駆けられている。
湖には水鳥が群れをなして泳ぎ、空にも鳥が飛んでいる。湖畔で湖の水で喉を潤している様々な動物の姿が見えた。
「魚もいる。」
引き寄せられるように橋へと近づき、シエルはその欄干から湖の中を覗いた。
背の低い草花が生い茂る地面へと荷物を置いたブライアンも、その後に続く。
シエルと同じように欄干から湖を覗けば、そこには色とりどり、大きさも様々な魚が悠々自適に体をくねらせている。
シエルの手程も無い小魚、時折村を訪れる商人が干物の状態で持ち込む大型の魚、シエルが本でしか見たことのない巨大な肉食の魚。
幾つかの泳いでいった魚を見た時には、隣からブライアンの乾いた笑いが聞こえたが、シエルは見た事も無い魚の姿に目を奪われていた。
「驚いた。帝国の皇子を連れてくるとはな。」
「えっ?」
「お久しぶりです、閣下。閣下が御出でということは、御母君の体調はまだ整いませんか?」
欄干の下を覗き込んでいたシエルは、その声が聞こえるまで誰かが近づいてきていたことに気づかなかった。だが、隣に居たブライアンは気づいていたようで、何時の間にかシエルの背後へと体を向け、小さく頭を下げていた。
「さすがは、母上の友人か。予想外の事を起こしてくれる。」
ブライアンに声を返す前に、ブライアンは一つ溜息を吐き出した。目を離せば何らかの騒動を起こしかける母。それと同じものを、最近の母が気に掛けている年下の友人に感じ取っていた。
「あまり行為が過ぎれば、痛い目を見ることになるぞ、小僧。」
疲れさえ感じさせた後、ブライアンを軽く睨みつける。
身なりの良い、深い皺が刻まれ始めた壮年の男性は、シエルが村でも良く見た事のある、悪さを働いた子供達を叱る大人達のような顔を作りブライアンへと向けていた。
「ほんの少し鳥の目を借りただけです。皇国に対する害意などは一切ありませんよ。」
「当たり前だ。それで、何用だ。」
あったのならば、その鳥でさえも国に張り巡らされた守りによって排除されている。
忠告のような言葉を吐き出し、神聖皇国全体に張り巡る守りの要でもある神聖皇帝カルロは、ブライアンへ用件を促した。
「帝国内で見つけた『魔女大公』の鍵穴をお渡ししようと思いまして。彼女に協力頂きました。」
ブライアンは、地面の上に置いておいた荷物へと指を向けた。
「…あまり無茶な事をすれば、母が悲しむことになると覚えておけ。」
シエルに協力してもらった。その意味を推し量ったカルロは、驚いた顔のまま自分を見上げてきているシエルを一瞥し、そしてブライアンを嗜めた。
「あの…ディアナちゃん…えぇ、えっと…」
「好きに呼べばいいと思うが?君は母の友人なのだし。」
ブライアンと、彼が指差す荷物へと目を向けているカルロに、シエルが躊躇いがちに声を掛けた。
二人の会話の中に、どうしても気になり、聞かなくてはと思うものがあった。一応は二人の話が終わる時を待ち、そしてカルロへと声を掛けたのだが、どう言えばいいのかが分からなかった。
ディアナは、シエルにはとっては優しくて楽しい、お姉さんのような友達だ。だからこそ、本人もそう望んだことのあって気軽に「ちゃん」付けで呼んでいる。
だが、問い掛けようとしているのは、ディアナの息子。しかも、シエルにとっては両親よりも見た目からしてうんと年上の、実年齢でいえば見た事もない祖父母よりも上だろう。そんな人相手に、「ちゃん」付けをしていいものか。そんな事にシエルは悩んでいた。
その悩みに気づいたカルロは、それまでの重苦しく険しい顔つきを緩ませた。思わず、シエルの頭に手を置き撫でていた事には、カルロ本人も驚いていた。
「ディアナちゃん、病気なんですか?」
御母君の体調、とブライアンは言った。それがシエルには気になって仕方が無かったのだ。カルロの許しを得て、皺の目立つ手に頭を撫でられたことには驚いたが、何処か心がほんわりと和んでいくのを感じる。そして、そういえば神聖皇帝は特別な方法で代々『欠片』を継承するんだっけと、思い出した。
「あぁ。少し体調を崩して寝込んでいるが、何も心配するようなことは無い。調子に乗って力を使い過ぎたのが原因、自業自得だ。」
「自業自得?」
「この箱庭。爆発の後に作り直したのはいいが、その後にあぁしたい、こうしたいと余分な力まで使って、寝食も忘れて手を加え続けて、完成させた。ここから見ただけでは分からないと思うが、色々と仕込んであるのだよ。」
仕込んである。
その言葉に周囲の光景を見渡すが、ただの風景としかシエルの目には映らない。
「もうすでに回復し始めているから、心配する必要は無い。なので、」
「なので?」
ガシッ
そんな音を、シエルは耳元で聞いた。
先程シエルの頭を撫でたカルロの手が、シエルの肩にしっかりと置かれている。
「叔父上には、特に上の叔父上にだけは、連絡しないように。」
迫力のある笑みが、シエルに注がれた。
「は、は~い。」
カルロが幼い頃から良く、ディアナは家族の話を面白、可笑しく話していたという。
その中で、子供に聞かせるということを考慮して表現を柔らかにしていた、弟の話はカルロの中でも印象深く刻まれている。柔らかにしたとしても、年を重ねれば重ねる程、顔を引きつかせることとなった上の弟レイがディアナの為にと起こした逸話の数々は、恐ろしくて仕方がなかった。それらの一部を可愛いでしょと言ってのける母にも、魔族と人では考えが違うのだなと、魔族が聞けば一緒にするなと叫びそうなことを思ったものだ。
ディアナが体調を崩した。
そんな話を聞けば、何をもってしても彼は、吸血鬼を従える『麗猛公爵』は、ディアナの下に駆けつけるだろう。それだけは、何としても避けねばならなかった。




