初めての同胞
自分でも何故か分からなく唐突に、目がテーブルの上に滑っていった。
ヘクスの座る前、テーブルの上に無造作に置かれている紙に目が向き、意味など無く手に取らねばという思いに襲われる。
「ジーク?」
突然の動きに、ヘクスが疑問の声を上げた。
何時もならば、愛する妻に声を掛けられれば迷うことなくそちらに目も意識も向かっている。だというのに、ジークの目は紙に釘付けだった。
「…シエルは今日中に戻ってくるってよ。」
紙を持ち上げると、そこには皇太子の署名と紋章付きの文が書かれていた。
渋い顔をしてジークは紙をヘクスに渡す。
ロゼや、意気揚々に準備を整えつつあった村人達が、ヘクスの背後に群がり紙を覗き込んだ。
「だから何?いきなり連れて行って謝るから許せって?」
ふざけんじゃないわよ。
荒々しい口調とは裏腹に、男達を送り出す準備を手伝っていたリアラやメアリ達女達が綺麗な笑みを作り出していた。その目は完全に据わり、分かってるわよね、と男達を見据えている。
「あ、あぁっと、あのな…?」
「何?」
再び険悪な空気が立ち上ったこの場に、しどろもどろな声が響いた。
口元を手で覆い、僅かに青褪めた顔の中で目を左右にウロウロと彷徨わせたジークが、その声の持ち主だった。元々ジークをまだ認めてはいないロゼが、そんなジークを睨みつけた。
「あぁ…うん。これ、多分俺への意趣返しっていうのも含まれてるかも知れねぇ…」
そう考えれば、先ほどの自分でも違和感を覚える動きに納得が行く。この村に来る前にも何度か体験したことのある違和感を思い出したジークが気まずげに頭をかく。
「はぁ?」
紙へと集まっていた視線が、ジークへと向かってきた。
「ちょっと…うん、ちょっと昔に仕事っていうか、私情っていうかで…皇太子の目の前で人を転移させた事があってだな…。まだ小さかった奴を大泣きさせた事があるっていうか…」
年の頃は5つくらいだったと思う。むせ返る程泣き叫ぶ声を思い出す。
「多分、それに対する仕返しも入ってるような気がするわ。」
「つまり、あの男をぶん殴る前に、貴方を殴ればいいって事ね。」
お前何やってんだよ。村人達の何とも言えない微妙な視線を受けるジークに向かい、据わった目のロゼが拳を振り上げていた。
それは、しっかりとジークの目を通して伝わっていた。
「驚いた。覚えていたのか。」
目を開けたブライアンは、苦々しい、でも何処か嬉しそうな表情を浮かべていた。覚えていてもらわなければ、今回の件にしない方が良いと分かっていても含ませた意趣返しに意味は無くなってしまう。そう思うのだが、それでも覚えていた事を嬉しく感じた。
「殿下?」
「一応、手紙には気づいてもらったよ。それでどう動くかは分からないがな。一応、警戒は強めるように通達しておこうか。」
部下達の疑問を含んだ呼びかけには一切答えることなく指示を出す。だが、それでもまだブライアンは、覚えていたのかと笑っていた。
「シエル嬢。頼みごとが終わったら、ちゃんと家に送り届けると約束する。何だったら、一発や二発君の家族に殴られても構わない。まぁ、顔は避けてもらいたいけどね。」
「えぇ…」
いいのかな?本当に殴られるよ?
そう思い周囲を見回すが、誰も彼もが当たり前だと頷いている。一人、困った顔をしている人もいたが、それでも顔は避けて下さいと呟いているだけだった。
「さて、色々な話は移動しながらにしよう。事は早く終わらせるに限る。」
立ち上がったブライアンが、未だに戸惑っているシエルに手を差し出した。
ブライアンに対して、戸惑っているにも関わらず、何故か信頼を覚えてしまっているシエルは、その手に簡単に自分の手を乗せていた。自分でも、その行動に驚いてしまうが、それでも大丈夫だという思いが心を占めていた。
「驚くだろ?元が同じ存在の部品だったせいか、欠片持ち同士は無条件に惹かれあい、信頼しあってしまうものなんだそうだ。それを自覚して、力を強めれば、それを拒絶することも出来るようになるが。」
まぁ頑張るといい。戸惑うシエルの頭を撫でたブライアンに手を繋がれたまま、周囲を騎士達に囲まれた状態で移動は始まった。ブライアンの隣を歩くシエルの斜め後ろにはシリウスが付き、今まで居た部屋を出る。
「あ、あの…手…」
部屋を出てすぐに、廊下に侍女や使用人、衛兵の姿を遠目に見ることになった。シエルはハッと、ブライアンに繋がれている手を目に入れ、離して欲しいと訴えた。皇太子と仲良さ気に手を繋ぐという事がどういう見方をされるのか、それに至るまで時間が掛かったもののシエルでも理解出来た。
「大丈夫。この一帯の人の目なら私が支配しておく。彼等に君は見えていない。」
「すごい…」
シエルに届ける為だけの小さな説明に、シエルは純粋な思いを口から零れ落としていた。シエルの『右耳』の力は話をするだけ、周囲に影響を与えているブライアンの力を欲しいなどとは思う事なくとも、ただ凄いと感じていた。
「君も同じような事をしているだろ?無自覚か?」
「え?」
「相手の耳を支配して、その耳に届く音を餞別して自分の声を拾うように仕向けている。それが、君の『遠話』の仕組みだ。」
そうか無自覚か…。
「どうして、知っているんですか?」
会ったのはこれが初めて。なのに、どうしてシエルの持つ『遠話の右耳』の事を、その仕組みを知っているのか。
「…誰かの視界を借り受けること。視線を使って意識を誘導すること。それが、この目の力だ。」
周囲に侍女達などの人影が無いことを騎士達に確認した後、ブライアンは声を抑えて説明を始めた。指差された翡翠色の右目が力を使っている最中だからなのか、揺らめいているように見えた。
「でも、これは不完全の半分でね。元々"印"をつけて置いた者の目か、見える範囲に居る者達の目しか支配出来ない。あとは、大分力を消耗して動けなくなるが欠片持ちの目だな。」
えっ?
「多くの欠片持ちは自覚しているのか、中々視界を貸してはくれないものだが。それでも、情報を探る点に置いては中々役に立っている。」
色々と衝撃的なブライアンの言葉に、シエルはただ驚き声を失くすしか無かった。
「あぁ、シエル嬢の目は借りた事が無い。これは本当だ。君の周囲で目を借りたことがあるのは、君の父親のジークか、後は村を訪れた冒険者とかだけだな。君の力については、ジークの目を借りている時に知った。その後に、『勇者の欠片』について詳しい者の目を借りて、歴代の『耳』について調べたんだ。」
「…お父…さん?」
父ジークの名前が出たことが、今日一番の驚きかも知れない。
「彼とは色々縁がある。帰ったら聞いてみるといい。それと、欠片について気になる事があれば何時でも聞いてくれていい。色々と詳しいぞ、私は。」
「お、お父さんは普通の冒険者だったって…」
どうして皇太子なんて人と知り合いなの!?シエルは今すぐにでも、父に詰め寄りたい気持ちに襲われていた。だが、父が居るのは帝都からは大分離れた村。帰ったら絶対に問い詰める、シエルは決意していた。
「あぁ、でも。それに関しては、皇帝を初めとする一部皇族だけしか知らない秘密が関わってくる。知ってしまうと、シエル嬢には私の嫁になってもらわないと…」
いけなくなるかもな。
「殿下。」
そんな風に繋がろうとしていた言葉は、シリウスの鋭い言葉が重ねられたことによって掻き消された。
「そんな話が漏れて、貴族達から幼い少女達を送られてきても知りませんよ?」
「ホルド公爵は大喜びでしょうね。あそこには、12歳を初めとする令嬢しかいませんから。」
今まで口を挟まずに、ただ周囲を警戒するに務めていた側近や騎士達もポソリと釘を差す声を零した。普段ならば主の話に口を出すような無礼を犯すことのない彼等だったが、ブライアンのそれが冗談だと分かった上で、あまりにも戸惑うシエルが可哀想になって助けを出したのだった。
「冗談だ。分かってるだろ。」
幼過ぎて妃候補から外れている高位貴族の令嬢達の名を諳んじ始めた文官を睨みつけ、ブライアンは苦々しい表情を露にした。
「冗談でも止めてくれ。ホルドの一族達は苦手だと知っているだろう。」
分かっているから言いました。
本当に嫌そうな顔となっているブライアンに、ホルド公爵という名を出した側近がしたり顔をしていた。
そんなやり取りに、戸惑い不安な顔になっていたシエルも、少しだけ笑いを零してしまった。
「いくらなんでも、シリウス達兄弟の妹に手を出すなんて事をする勇気は持ち合わせていないさ。…そう考えると、ロゼの相手である彼は相当勇敢な男という事か。色々と活躍してくれそうだな。」
「!?」
「あぁ、此処からは私とシエル嬢だけだな。お前達は此処で待っててくれ。」
話をしている間にシエル達の足は順調に進んでいた。何時の間にか辿り着いていたのは、重苦しい印象を与える黒い重厚な扉の前。扉へと続く廊下には人気が一切無く、扉を護る兵の姿も無い。
此処からは、皇帝と皇太子、その許しを得た皇族しか入ることが出来ない領域だ。
そう説明したブライアンは自ら扉に手を置き、両扉の間に僅かな隙間を生み出すとシエルの手を引いて中へと入っていく。
扉の外に留まる、目を丸めて驚いているシリウスに笑みを送り、ブライアンとシエルの背中は閉じる扉の中へと消えていった。




