立て札の意味
「ムウさん。」
ムウロに対して突きつけられた形で鈍く光る剣の刃を見上げ、シエルはムウロの背中を強く握り締めた。
シエルの目が自分が突きつけている剣に向けられているということに、男は一瞬動きを止め、口元に浮かべた下品な笑いを深めた。
カッとなって剣を振り上げたが、男にはそれを下ろそう、収めようという考えは無かった。いや、振り上げた時にはあったが、頭に上った血は下がっていくのも早く、もうすでに、怯えさせて言うことを聞かせようという考えが男の頭の中では纏まっていた。
男達は、それなりに名の通った冒険者のパーティーだ。その評判の多くは、実力や戦歴に関するものでは無く、その態度や行いに対する悪名だったが、その悪名を背負って今まで自由気ままにやってきただけの実力も確かに備わっている。
男達はそれを自負していた。
それだけの死線を、男達は冒険者として潜り抜けていた。
目の前にいる、貴族だと言われても納得する若い男と長閑な村に住んでいそうな少女という、迷宮の中にいるには違和感を感じさせる二人組になど負ける可能性など一片たりとも見出すことは無かった。
さぁどうやって平和的に話し合いをしようか。
今にも剣を振り下ろそうとしている男に怯え動けずにいる、と勝手に判断している二人を目に入れ、男はニヤニヤと笑う。男にとっての平和的とは、大人しく男達の言うことを何でも聞くこと。俺としては無駄に血が見たい訳じゃないんだよ。なんて呟きを口にして、チラチラとシエルの背中にある荷物を見た。分かっているだろ、と言わんばかりの態度だったが、シエルもムウロも、男の思い描いた通りの行動を取ろうとはしない。
だんだんと、動こうとはせず真紅の目で男を見上げてくるだけで立ち惚けているように見えるムウロにも、チラチラと怯えとは少し違う色を持った黒に見える時もある深い赤色の目を向けるシエルにも、男は再び苛立ちを募らせ始めていた。
「おい。」
そんな男の肩を、声をかけて叩く手があった。
「あっ、何だよ。」
いい所じゃねぇか、邪魔するな。
背後から肩を叩かれ、男は仲間の誰かだと思っていた。よく考えれば、その声は自分の仲間の誰のものでもないと気づくことも出来ただろうが、ムウロとシエルに対する苛立ちで頭のほとんどを占有されてしまっていては無理なことだった。
ムウロに対して剣を突きつけた姿のまま、男は顔だけを仲間へと向ける。
本来なら、剣を突きつけている最中に相手から視線を逸らすなど、愚か極まりない行為だ。男も普段であれば、そんな愚行はしない筈だ。だが、ムウロを完全に見かけだけで侮っている男は、そんな愚行をついつい行なってしまっていた。
バキッ
振り返った男の頬に勢いよくめり込んだ一発の拳。
鈍い音を生み出した拳は、男の身体をよろめかせることに成功していた。
「なんだ、テメェは!!?」
男は叫ぶ。
背後にいたのは仲間などではなかった。
男の仲間達は、若い冒険者達によって縄をかけられたり、剣を突きつけられて身動きを封じられている状態にあった。
ペッと、殴られたせいで口の中に溜り始めた血と唾が混ざり合ったものを、男は吐き出した。
「なんだ、って、こんな状況を見ちまった以上は助けるのが人として当たり前の行為ってもんだろ?」
男を殴ったのは、くすんだ金髪に青い目の、服装も装備しているものも普通に居る冒険者とそう変わりは無いものの身奇麗なところに少しだけ違和感を感じさせる青年だった。それは、男の仲間達を縄で縛りつけている三人の若い冒険者達も同じだった。ムウロの背中から顔を覗かせたシエルは、助けてくれた青年達を見回していた。
「まぁ、余計なお世話だったみたいだけどな。」
「は?何言ってやが…」
青年の言葉はムウロに向けられていた。
シエルと目を合わせれば愛想の良い笑顔を返し手を振る青年。だが、その目がムウロから離れることは一瞬のことで、ムウロに向かう目には強い警戒を覗かせていた。
男の声にも反応せず、真っ直ぐにムウロに向けられ続ける青年の目。短い時間も長く感じられた。
「…シエル。助けを求める言葉を叫んでみて。」
しばらくの間、青年の視線を受けてムウロが、シエルを笑顔で振り返った。
「助けを求める…?」
突然のムウロの言葉に、シエルは首を傾げた。
助けを求める言葉と言っても、色々ある。その上、何故そうしなけらばならないのかが分からなかった。
「そう。助けてーでもいいんだよ。危機感があればあるほど、だから具体的に想像して叫んで欲しいかな?」
叫ぶ理由の説明は無かったが、ムウロが言うのなら何かあるのだろう。
シエルは、分かったと頷いた。
そして、叫ぶ為に大きく息を吸い込んだ。
吸い込んだ後で、シエルは頭に思い浮かべる。
シエルが今までに経験した大変だった出来事の数々。吸血鬼に襲われたこともあった、ドラゴンに追いかけられたこともあった、毒を吸い込んで混乱した冒険者に斬られそうになったこともある。色々と思い出してみても、逃げるのに大変だったという思いが浮かんできた。
浮かんできた当時の感情を込め、シエルは口を開く。
「助けてぇぇぇぇぇぇ~」
大きく、確かに危機感を纏ったシエルの叫び声が辺り一帯に繰り返し響いた。
「これでいい?」
「うん。充分だよ。」
叫び終わったシエルはケロリとした顔でムウロに問い掛けた。
満足そうな顔をしたムウロが、殴られた頬を真っ赤に腫らした男の足下を指差し、シエルに見るよう促した。
シエルが視線を向けた途端、男の足下に穴が開いた。
それは真っ黒で、男一人を落とす穴。
声を出す暇も与えず、男は穴の中に落ちていった。
その姿は、一瞬にして穴の中を染める黒色の中で見えなくなっていった。
ムウロ以外の全員が、口をポカンと開けていた。
男に近い位置にいた青年達や男の仲間、そしてシエルは穴の中を覗き込んだりもした。周囲で様子を見守っていた冒険者達は警戒を露にしながらも、遠目から穴の様子を窺っている。
「何、これ?」
シエルが穴を指差し、ムウロに問う。
小さな声で、「もしかして、またケイブさん?」と聞くのも忘れなかった。
「ミール村の人間に手を出した罰だよ。」
書いてあったでしょ、立て札に。
ムウロの言葉を耳を立てて聞いていた冒険者達は首を傾げている。
だが、シエルはすぐにそれが何の事かを思い出した。
この村と村人は『銀砕大公』の名の下に庇護されることを宣言する。
…コレを害なすもの全てを『銀砕大公』は許すことなく、地の果てまでも追いかけよう。
我は、我から奪う者を許す事はない。幾年の先にも希望は無いと心得よ。
ミール村の入り口に立てられている立て札に書かれていた言葉をシエルは思い出した。
シエルが始めて読んだ時に笑ったそれは、確かムウロがアルスには知らせずに立てたものだった筈だ。
その事も思い出したシエルは、ムウロを見た。
「ちゃんと、その言葉になるように迷宮全体に仕掛けを施しておいたんだ。」
シエルにだけ聞こえる声でムウロは言った。
悪戯を成功させた子供のような、晴れやかな笑みを浮かべたムウロに、先程までの不機嫌さは見受けられなかった。
そして、次の言葉は冒険者達にも聞こえるように声量を上げた。
「彼は今、お仕置き用に作られた階層の中で、『銀砕大公』の幻影に負われながらを迷路を彷徨い始めているよ。脱出する方法も用意されているから、運が良ければ生きて出てこれるかもね。」
何かあれば迷うことなく助けを求めた叫ぶといいよ。
ムウロは、シエルにそう言い聞かせた。
隠された階層から逃げる方法。
それは二つ。
広大な空間に広がる迷路の中に一ヶ所だけに隠してある出口を見つける、か、追いかけてくる『銀砕大公』の幻影を打ち倒すこと。
さぁ、あの愚かな男は戻ってこれるかな?
ムウロは、アルスに変性が起こった事を告げられた時に思いつきで作った仕掛けへ初めて落ちていった男の行く末を気にかけ、笑みを深めた。




