その九
(九)
その白い手が、恭次の頬にそっと触れる。
そして耳元に顔を寄せると、
「ごめんなさい……」
と、呟くように囁いた。「やっとあなたのところに帰って来ました。待っててくれてたのよね」
ああ、もちろんだとも。お前のことは忘れたことがなかったんだ。
今まで何をしていたんだよ。元気で暮らしてたのか? 心配してたんだぞ。
恭次はそう言いたかったが、全身の力が抜けて、思うように口を開くことができない。意識が戻ったといっても、ぼんやりとした頭で、容易に喋ることができないのだ。
しかし、こいつは神様なんだから、俺が言いたいことは分かってくれるはずだ、と恭次は確信していた。
俺の神様……。
もちろんそれは、恭次が愛していた女だった。
「あのとき」から愛していたのか? と訊かれたら、以前の恭次だったら首を横に振っていただろう。しかし死の淵まで行って、地獄を覗いて来たのである。
初めて自分が素直になれたから、その大事な存在を知ったのかもしれない。
「ル……ミ……」
恭次の口から、小さな声が漏れた。
「恭次さん? ――分かるの?」
驚いたようにルミが顔を近づけて来る。
返事はできない。その代わり、何とか瞼を少しだけ持ち上げて、かすかに笑って見せた。
「間に合ったのね。よかった」
ルミの唇が、恭次の頬にそっと触れた。
来てくれたのか。ありがとう。
でも、どうして俺がここにいるって知っていたんだ?
「私、あなたに会いたかった。でもそれはできない、って思ってた」
なぜだ。俺はお前を探してたんだぞ。
「だって私、あなたから逃げた女ですもの。合わせる顔なんてなかった。分かってくれるわよね」
ああ、もちろん分かるとも。悪いのは俺なんだから。
恭次が答えているのは、もちろん心の呟きである。返事をしようにも、はっきりとした言葉は出て来ないのだ。
「ねえ、聞いてる? 私が言ってること、分かる?」
そう言って、ルミは恭次の頬を両手に挟んだ。
「昨日の夜、以前私が働いていたお店のママから電話があったの。――そう、あなたがこの病院に運ばれるまで飲んでいた、あの店よ」
あのママが? うん、そうだろう。他に連絡する道はないのだから。 何と言ってかけて来たんだ? あの男、ついにくたばるわよ、とでも言っていたのか? それとも、罰が当たったのよ、いい気味だわ、と笑っていたに違いない。
俺の悪行はよく知っていた女だったからな。
「ママからね、あなたのところに行ってあげて、って言われたわ。恭次さんは一人ぼっちだから、誰も助ける人はいない、って。――そうよね。敵ばかり作って来たあなたの人生だし、身内の人や、奥様だって裏切っているんですもの。――ふふっ、私が知らないとでも思ってたの? 誰だって知ってたわ。あなたの周りの人も、私に連絡して来たママも。それをあなたが知らなかっただけよ。ほんとにおバカさんなんだから」
そう言って、ルミはクスッと笑った。
何だって? 俺だけが知らなかったというのか? ってことは、俺はとんだマヌケだってことじゃないか。ふん、全く笑っちまうぜ!
それで……何だ? お前は俺のことを笑いに来たのか?
しかしいつの間にか、ルミの表情が、暗く哀しげなものに変わっていた。
「それでも私……」
と言いながら、ルミは頬をすり寄せて来た。「恭次さん、私はあなたを愛してる。あのときも、そして今も。――もちろんひどい事をされて来たと思ってるわ。でもね、私だって女ですもの。惚れた男のためなら何だってやったし、恨んでもいない。あなたがそばにいてくれたら、それだけで幸せだったんだから」
おい、泣いてるのか?
ルミ、すまなかった。悪いのは俺だ。人間として悪い事を繰り返し、様々な人たちを傷つけたり泣かせたりして来たんだ。
分かった――分かったよ。
俺は一度死んだ人間だ。何も怖いものはない。
やり直そう。生まれ変わったつもりで、俺と暮らさないか。もちろんお前をつらい目になんか遭わせるものか。俺が働いて、お前に楽な暮らしをさせてやる。
俺を受け入れてくれるのは、ルミ、お前なんだから……。
「――恭次さん、最後にお願いがあります」
と、ルミは言った。
最後じゃないだろう。これからうんとお前のわがままは聞いてやるよ。
「私のそばにいて。ずっと、ずっと、あなたから離れたくない」
ルミの手が、恭次の酸素マスクに伸びて来た。そして、そっとそれを外した。
な……何をする……。息が……苦……。
「さっきナースセンターの外から、ドクターの話を聞いてたの。酸素と点滴が途絶えたら、弱っているあなたの身体では、そう長くはないんだって。三十分ももたないだろう、って」
そう言いながら、今度は恭次の腕に繋がれている点滴の針を外した。
「次の看護婦さんの巡回は、一時間後だって。それまでに間に合えばいいわね」
ルミが自分のバッグの中に手を差し込んだ。そして、ためらいもなく、それを取り出した。
やめろ……。そんな大きい包丁なんて、お前には似合わないよ。
遠くなって行く意識の中、かすかに開いた瞼の向こうに、その包丁を握り締めたルミの姿を見たような気がした。
愛しているんだろ? 俺と一緒にいたいんだろ? だったらそんな物、必要ないじゃないか。
恭次は叫びたかった。しかし、もうほとんど意識がない。酸素も、そして点滴から運ばれて来る命の水も、既に断たれたのだ。
「恭次さん、愛してる。やっと二人っきりになれるわ」
ルミが恭次にキスをした。
ルミは、恭次の身体に添うようにして、ベッドの上で身を寄せて来た。そして手に持っている包丁の切っ先を自分の喉にあてがった。
――笑っていたような気がする。喉が大きく切り裂かれたというのに、恭次の顔を見つめたまま、ルミは笑顔を崩さなかったような気がした。
遠のいて行く恭次の意識は、惚れた男と共に死を選んだ女の姿を見ていたのだった……。
――ここはどこだ?
と考えてみたものの、今さら何も悩むことはない。
無人の街を歩いていようが、得体のしれない空間が漂っていようが、行く先は分かっているのだから……。
冷たくどんよりと浮かび上がったアスファルトが、生命のかけらすら感じさせない道路となって、一直線に伸びている。
その真ん中を、恭次は悠然と歩いていた。
どこに行くのだろう。いや、それが今まで分からなかったことが、おかしなことなのである。
「――おい」
と、恭次は呼んでみた。「返事をしろ。どうせ判決は分かってるんだから」
ここはあの世への入り口なのだ。夢のような世界でもあり、恭次が作り上げた現実かもしれない。死の淵に立った者しか見ることができない、人生のアルバム。
それを思い返すことで、人生の反省をしなければいけないのだろう。
「神様に会ったか?」
と、その声が言った。
どこから聞こえて来るのか……。と、そんなことを考える必要もない。すべて自問自答なのだろうから。
「ああ、まさかあいつが神様だとは思わなかったよ」
恭次は笑顔でそう言っていた。
「惚れてたんだろ?」
「うん、そうかもしれないな」
「よかったじゃないか。最後は一緒になれたんだから」
「俺はいいかもしれないが、ルミには気の毒なことをしたと思ってるよ。俺があいつの人生をめちゃくちゃにしたんだから」
「反省してるのか?」
「当たり前だ。ルミだけではなく、傷つけた人間、すべてにな」
恭次は歩いていた。
目的地が分からないその道を……。
「それで、地獄行きに決まったんだろ?」
と、恭次は訊いた。「覚悟はできてるんだ。早く連れて行ってくれ」
「そう慌てるな。ルミという連れがいるんだから」
「ルミも地獄に連れて行く気か」
「それはお前しだいだ」
と、その声が言った。「ほれ、どっちに行く?」
恭次が顔を上げると、道が二つに分かれていた。
その二つの道がどこに通じているのかは分からない。おそらくどちらかが天国で、一方が地獄なのだろう。
まるでゲームだな、と恭次は思った。いや、人生最後の大バクチなのだ。
声の問いには答えず、恭次は一方の道を真っ直ぐ見つめていた。
「さて、行くか」
そう言うと、恭次は歩き始めた。
「そっちでいいのか?」
「構うもんか。俺が選んだ道だ。誰も文句を言う筋合いはない」
「地獄だったらどうする?」
「潔く天罰を受けてやる。それでいいだろ」
「ルミも一緒だぞ」
「あいつは俺が守ってやる。今度こそ、俺が助けてやらなきゃルミに申し訳ない。遅過ぎたのかもしれないが、それが俺の愛情表現だ。俺流のな」
――笑い声が聞こえた。
あの声なのか、自分の声なのか、恭次には分からない。いや、どっちしても自分の声であることは間違いないのだ。
岐路に立った恭次は、迷わず自分が選んだ方向へと進んで行った。
両側に並んだビルの窓から、いくつもの顔が恭次を見下ろしている。路地や建物の間からは、今にも飛び出して来そうな悪漢たちの気配を感じた。
どっちに行っても同じだよ、と恭次は思っていた。天国だろうが地獄だろうが、自分の人生だったのだ。苦い思い出だったとしても、充分楽しませてもらったよ。
「あれは……何だ?」
恭次は立ち止まって、呟いた。
その道が途切れたところに、大きな川が流れていた。
三途の川? まさかね。そんなもの、いくらでも渡り切って来たじゃないか。
しかし、いずれにせよ渡らなきゃいけないのだろう。それが裁判であろうが関門であろうが――いや、獄門であろうが、引き返すわけにはいかないのだから。
「ルミ、俺から離れるな」
恭次はその手を引いた。そして、包み込むようにその身体を抱いた。
ルミが腕を絡めて来た……のだろうか。本当にルミは腕の中にいるのだろうか。
そんなことはどうでもいい、と恭次は思った。感触がないにせよ、恭次の神様はルミなのだから。
「――さ、行くぞ」
大切なものを抱きしめるようにして、恭次は足を踏み出した。
冷たい川の水に足が突き刺さる。
しかし恭次には、それが心地よくさえ感じていた……。
了