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夢牢   作者: 伝次郎
8/9

その八


        (八)



 薄っすらと目を開けた――のだろうか。

 自分でもよく分からない。長い間眠っていたようでもあり、まだ目が覚めていないようでもあり……。

 身体を起こしてみようと恭次は試みたが、気持ちばかりが先行して、肉体どころか指先さえもいうことを聞いてくれない。

 やっとの思いで瞼をわずかに持ち上げてみると、ぼんやりと辺りの様子を見る事ができた。

 ここは、病院――か?

 白いカーテンが周りを囲んでいる。照明は枕元のスタンドが灯っているだけで、薄暗い部屋に、恭次が寝ているベッドだけが浮かび上がっているようだ。

 聞こえて来るのは、心拍数や血圧を測定する機械的な音と、今にも絶えてしまいそうな小さな寝息だけ。その寝息が自分のものであると気づくまで、しばらくの時間がかかった。

 俺は……何をしているんだ。

 恭次は小さな息を、そっと吐いてみた。

 酸素マスクの中で息が跳ね返り、小さな蒸気が口の周りを渦巻いて行く。

 生きてるんだ、と恭次は思った。そして、夢を見ていたのか、と自分に問いただしてみる。

 あの妙な世界で見たスクリーンやモニター画面に映っていた映像が、ぼんやりと思い出された。

 今の自分だ……。このままの姿が映し出されていたんだ。

 コンコン、とドアを軽くノックする音が聞こえた。――誰か見舞いにでも来たのだろうか?

 恭次は返事をしようとしたが、声も出なければ身体が動くわけでもない。

 そっとドアが開く。入って来たのは看護婦だった。

 音を立てないようにカーテンを開けると、恭次の顔を覗いてから、機械類の数値をチェックしているようだ。体温計を脇の下に差し込み、軽く手首を握って脈拍を測る。手の温もりが伝わって来た。

「田所さん? ――田所さん?」

 看護婦が耳元に顔を寄せて、小さな声で呼びかけている。

 答えたつもりだった。「うん、俺は大丈夫だよ」と返事をしたつもりだった。しかし相手には伝わっていない。

 体温や容体を書き込む音が聞こえて、また恭次に声をかけて来る。

「田所さん、しっかりしてください」

 だから大丈夫だって言ってるじゃないか!

 言っても分からないのなら、と、恭次は脈を取られていた腕をその看護婦に突き出した。

 しかし、看護婦は何事もなかったように、その腕に何やらベルトのようなものを巻きつけて来た。腕帯らしい。

 どうやら自分で腕を上げたのではなかった。血圧を測定するため、看護婦が自ら引き寄せたのだ。

 腕帯に空気を送り込み、少しずつそれを抜いて行く。そして聴診器から聞こえて来る命の音を聞き分けるように、耳に差し込まれたその部分に神経を集中させているようだった。

 そのとき、そっとドアが開いて、別の看護婦が入って来た。

「どう?」

 簡単明瞭な問いである。

「先輩……先生はいらっしゃいますよね」

「どうしたの?」

「血圧が低下しています。何とかしないと……」

 聴診器を手に持った若い看護婦はうろたえていた。

「慌てないで。もうすぐ手術室から戻られるはずだから」

「でも……」

「ちょっとどいて。私が診てみる」

 先輩看護婦が自分の聴診器を恭次の腕にあてた。血圧を聞き分け、脈拍を取り、瞼をそっと持ち上げて瞳孔を確認する。

 その顔が、しだいに曇って行く。

 若い看護婦はその様子をじっと見つめていたが、

「先輩、ご家族に連絡した方がいいでしょうか?」

 と、動揺しながらも事務的な口調だ。

 看護婦たるもの、いかなるときでも冷静な判断と機敏な行動を取らなければならない。そう教えられて来たのだろう、生死をさまよう患者を前にして、聖職であろう「仕事」を全うしようとしているのだ。

「この患者さんのご家族は?」

「奥様だけで、お子さんはいらっしゃいません」

「そう。それじゃ、すぐ来てもらうように連絡して」

「奥様に、ですか?」

「子供はいないんでしょ? だったら分かり切ってることじゃないの。早くしなさい」

 先輩として、毅然たる態度を見せなければならない。

 しかし若い看護婦は、なぜかその場を動こうとしなかった。

「何してるの? 一刻の猶予もないのよ」

「はい、それは分かってますけど……」

「自宅の連絡先が分からないの?」

「いえ、そうではなくて……」

「はっきりしなさい!」

 つい先輩看護婦は怒鳴っていた。

「奥様をお呼びすることはできません」

 と、確かな声で答える。「私、ロビーで奥様が話していること、聞いてしまったんです」

「何を? どういうこと?」

「一緒にお見舞いに来られている男の人、奥様の愛人なんです。しかも旦那様の友人なんですよ。その二人が話していたことって、田所さんが早く死ねばいい、保険金が入ったら、二人で大きな家でも建てよう、って……。あの人、自分の夫が危ないというのに、他の男と笑ってるんです。私、許せません!」

 若い看護婦は、一気にまくしたてるように言った。

 もちろん目の前にいる患者自身のことである。危篤状態だからといっても、もしかしたら聞いているかもしれない。だから直接聞こえないように言ったつもりだった。

 先輩はしばらく黙って見つめていた。

 ベテラン看護婦である。言われなくても、そんなことは分かっているのだ。

 患者の容体だけではなく、その精神面や、環境までも把握しておくのが看護婦の任務だと言い聞かせていたのである。

 先輩看護婦は聴診器を手に取ると、また血圧を測り始めた。

「――早く奥様に知らせなさい。私は先生を呼んで来るわ」

 そして、先輩は振り向いた。「それが私たちの仕事でしょ?」

 ちょっとためらってから、若い看護婦は頭を下げた。そして足早に病室を出て行く。

 先輩の方も、もう一度恭次の様子を見てから出て行った。

「すぐ先生を呼んで来ますからね。頑張って下さい」

 という言葉を残して……。



 静寂だけが残った。静まり返った病室が、恭次にはとてつもなく広く感じた。

「おい……」

 と、恭次は呟いた。「おい、返事をしてくれ」

 声が出たのだろうか。頭の中で響いていただけかもしれないが、恭次が頼る相手は他にいないのである。

 唯一の話し相手を、恭次は呼び続けた。

 神様だろうが閻魔の使いだろうが、何だっていい。いなくなったわけではあるまい。

 結局そいつも、俺なんだから。

「おい、俺はこれから、どうなるんだよ……」

 といっても、ここは現実の世界に帰って来ているのだ。相手が自分自身なら、返事のしようがないというものである。

 もちろんあの声は聞こえて来なかった。

 ふん、夢を見ていただけなんだ……。

 恭次は諦めたかのように、そっと息を吐き出した。

 生きてやる……。こうなったらトコトン生きてやる!

 何の病気だか知らないが、奇跡的に助かるかもしれないと言っていたじゃないか。――しかしそれは神様が言っていたのだから、結局は自分が言い聞かせていたのかもしれないが……。

 と、病室のドアが突然開いて、手術を終えた担当医が、さっきの看護婦に伴われて駆け込んで来た。

「血圧を測ってくれ。それから点滴を――」

 と、患者の容体を細かに診察しながら、担当医は的確に指示を与える。

 そして患者の命を救うべく、しばらくの間、懸命に治療を施していたのだったが――。

「どういうことだ……」

 と、医師の表情が怪しく歪んだ。

「先生、家族の方には今連絡を取っています。それまでに間に合えば――」

 と、看護婦が言うと、

「そうじゃない。――奇跡だ」

 医師の顔が紅潮した。「君、もう一度血圧を測ってくれないか」

 わけが分からず、うろたえるように恭次の腕に腕帯を巻き付ける看護婦。

 聴診器を耳に当てたその顔が、驚きの表情に変わった。

「先生、戻っています。あんなに低下していたのに」

「患者の顔を見てくれ。朱みが増して来たじゃないか。回復してるぞ」

 そう言ってから、医師は恭次の瞼を持ち上げた。「ほら、開きかけていた瞳孔がしっかりして来た。間違いない。きっと快方に向かうはずだ」

 と言って、医師は安堵のため息をついた。

「こんなことって、あるんでしょうか……」

「本人の意志だ。死にたくないという気持ちが病魔に勝ったんだよ」

 医師の顔を、この病院に来て初めて見たような気がする。

 もちろん見ているのは恭次である。医師が瞼を持ち上げたとき、はっきりと視界が広がったのだ。

 看護婦が恭次の頬に手を当てる。そして、

「田所さん?」

 と、声をかけた。

「う……ん……」

 声が、少しだけだが出たような気がする。

 酸素マスクで口を塞がれているから、医師たちには聞こえなかったとは思うが、意識が戻って来たのは充分伝わったはずだ。

「先生、大丈夫ですよね」

「ああ、明日になれば話だってできるかもしれん」

「よかった……」

「しかし安心したらだめだぞ。点滴と酸素マスクだけは気をつけてろよ。もし切れたらおしまいだ」

「はい、分かりました」

「変化があったらすぐ知らせてくれ」

 と言って、医師は病室を出て行った。

 看護婦は医療機器や点滴をもう一度確かめる。そしてその時間をノートに書き写した。

 そっと布団をかけて、患者の顔を覗き込む。

「また後で来ますからね」

 小さな声で語りかけてから、その看護婦も出て行った。



 助かるんだ、と恭次は思った。俺は死なずにすむ……。

 今まで見て来たものは何だったんだろう。

 ぼんやりと浮かんだ天井を見つめながら、恭次はこれまでのことを思い返していた。

 地獄だったような、夢だったような……。

 いや、地獄へ行くための裁判と言っていたような気がする。だったら、恭次の〈勝訴〉ということになるのではないか。

 生き戻ることができるのだから。

 しかし〈敗訴〉となっても仕方ない、と思わせるような人生だった。地獄のような夢は、それを恭次に教えていたのだ。

 だが、恭次には分からないことがあった。

 あの世界で「善」と「悪」が別々に存在していたことだ。もちろん人間は両方を兼ね備えているものだが、悪であった自分が、なぜ善という自分を見ることができたのだろう。

 いや、なぜその声を聞くことができたのか、ということだった。

 そしてもっと気になっていたのは、「神様」の存在である。

 生きるか死ぬかは、神様の判断しだいではなかったのか?

 ――神様とは誰だ? あの医師か、それとも看護婦か?

 そんなことはない。あいつらは仕事なんだから。

 ということは……。

「――いつまで悩んでいるんだ」

 声が……聞こえた?

 どこからだろう。辺りを見回して見たが、誰かが病室に入って来たわけではない。

 しかし、恭次にはその声の主は分かっていた。

「どこにいる」

 と、恭次は言った。もちろん意識の中で、である。

「どこ、ということもあるまい。俺はお前なんだから」

「ここは夢の中じゃないんだぞ。こんな会話っておかしいだろ」

「仕方ないよ。お前が悩んでいるなら、助けるのは俺しかいない。違うか?」

「ふん、笑わせるな」

 今さら何を言う。お前の力を借りなくとも、既に回復へと向かってるんだ。

 恭次は本当に笑い出したい気分でもあった。

「お前が悩んでいることを教えてやろう」

 と、その声が言った。「死の淵に立ったとき、己の過去を後悔しただろう。傷つけて来た人間たちに、申し訳なかった、と反省したよな。そのとき初めて、田所恭次の良心的な部分が姿を見せたんだ。少なからず、悪人のままで終わりたくなかったんだよ」

 その通りだ、と恭次は思った。自分の言葉であるその声に納得するのは妙なものではあったが。

「それでお前は、『俺は良い人間なんだぞ』とでも言いたかったのか?」

「違う。私はあくまでも、お前の道先案内人だ。間違ったところへ行かないよう、ちゃんとお連れしなきゃね」

「そのために話しかけてるのか」

「ああ、そうだ。死ぬ前の懺悔は、人間には必要だ」

と、その声は言った。「人は死ぬ前、自分が生まれてから死ぬまでの人生を、走馬灯のように見るというじゃないか。人間というのは勝手なもので、楽しかったことや嬉しかったことはすぐ忘れてしまうというのに、辛かったことや苦しんだことは、いつまでも忘れないものだ。だからお前が自棄にならないよう、こうして『田所恭次』を落ち着かせているんだよ」

 恭次は天井を見つめながら、その声を聞いていた。

 ぼんやりと、ではない。恭次の意識は覚醒に近いものがあった。

「だったら俺からも言わせてもらう」

 と、恭次は思った。

「何だ、未練でもあるのか?」

「お前が俺であるなら、さっきの医者の話しは聞いていただろう」

「ああ、医者のくせに驚いてたな」

「俺は助かるんだよ。死にはしないんだ。ということは、今まで見ていた――懺悔だか裁判だか知らないが、意味がないじゃないか」

 恭次は笑みさえ浮かべて、「夢なんだよ。熱にうなされて、悪夢を見ていただけなんだ。違うか」

「ふむ、そうかもしれん。いや、そうであったら、と願いたいものだ」

「どういうことだ」

「神様はどうなんだ? 気にならないのか?」

 と言われて、恭次はハッとした。

 生きるか死ぬかは、神様の判断に委ねられていると言っていたような気がする。もちろんわけの分からない夢の世界の話だから、そんなものは存在しないと思っていたが、恭次には最も気になっていることだった。

「神様とは俺じゃなかったのか。もちろんお前も、ということだが」

 恭次は本気でそう思っていた。

「――もうすぐ来る」

 と、その声が言った。「お前の運命を決める神様が、もうすぐここに来るはずだ」

「ここに……来る?」

「ああ、自分でも分かってるんだろ?」

 分かってる。――そう、このベッドで目が覚めたときから、恭次は確信していたことがあったのである。

 来るのだろうか?

 いや、来て欲しい、と恭次は思っていた。

 ――かすかではあるが、廊下の方から足音が聞こえたような気がした。

 その音が、病室の前で止まった。

 中に入るのをためらっているのか、それとも辺りを気にしているのか、しばらく動く様子はない。

 誰だろう。看護婦か? 女房か? いや、そうであればためらいなく入って来るはずだ。

 そして……。

 トントン。――ほとんど聞こえないほどの小さなノックが、音ではなく、振動として伝わって来た。

 静かにドアが開く。そして――「神様」が、ベッドの傍へと近づいて来た。

 心配そうに、恭次の顔を見つめる神様。

 恭次は薄っすらと開いた瞼の隙間から、その顔を見つめていた。

 本当に神様だったんだ、と恭次は思った。

 いや、女神だな、とも思っていたのだった……。



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