その六
(六)
ベッドではなく、ソファーに座り込む。狭い部屋では、どこにも逃げようがない。
正面の椅子に、おっとりとした人のよさそうな男が腰をかけ、両脇を、いかにも殺し屋といわんばかりの屈強な男たちが、恭次を挟むように立っていた。
「――何をしていたんですか?」
正面の男が、タバコに火をつけながら訊いて来た。不敵な笑みを浮かべているが、もちろんその目は笑っていない。
何をしているだと? 女とホテルに来ているのだから、訊かなくても分かりそうなものじゃないか。
そう言いたかったが、恭次の口からそんな言葉が出て来るはずがない。状況的にこの後どうなるか、恭次にはすべて分かっていたからだ。
「その女、あんたとどういう関係なんですかね」
ベッドの隅にうつむき加減で腰をかけているルミをあごでしゃくりながら、静かな声で男が言った。
恭次は男の顔をじっと見てから、
「お前ら何者だ」
と、小声で訊いた。
「何者? ふん、あんたが言うような言葉じゃないと思いますがね。もっともあいつがあんたの女なら、べつに我々が出て来ることもありません。しかし――」
男はわずかに顔を近づけてから、「ルミはね、俺の女なんですよ」
と言って、持っていたタバコを灰皿に押しつぶした。
恭次はルミに視線を移す。
いつの間にかちゃんと服を着て、髪の毛まで乾かして……。
いや、違う。最初から風呂なんか入っていなかったのだろう。服を脱いだ形跡もなければ、濡れたあともない。
「――ルミ、どういうつもりだ」
言っても無駄だと思いながら、恭次はつい言葉を吐き出していた。
ルミの身体がピクッと動いたような気がした。しかし顔を向けることもできず、また下を向いてしまう。
「女を責めるとは、男として卑怯じゃないですか。まさかルミの方から誘ったわけではないでしょうからね」
「いや……」
俺は誘っていない、と恭次は言いたかった。どちらからともなく、そういう雰囲気になったから、という方が正しいのだ。
しかし、もちろんそんなことが通用するはずがない。
それに、たまたま助けた女がルミだったのだ。そしてたまたま、ホテルに入ってしまった、とは言い訳にもならないか……。
「さて、この状況、どうしましょうか」
と、正面の男が言った。
「待て、俺はまだ何もしちゃいない」
「何もしてなければ、それで済むんですか? 目的があってここにきたんじゃなかったんですか? 話しをするだけにしては、ちょっとまともな場所ではありませんね。誤解されても仕方ない」
「それはそうだが……」
恭次は覚悟しなければならない。「何が目当てだ。金か?」
と、半ば開き直って訊いた。
「金で何でも解決すると思っていらっしゃる。そこが問題ですな」
「他に解決策があるのか。ルミだってその気になっていたんだ。プライベートの付き合いでもあるし、初めて会ったときから縁を感じてたんだよ。その二人が久しぶりに出会ったんだから、こんな所に来ても仕方ない。違いますか?」
「ふむ、それは確かに道理だ。しかし――」
男はそう言って、「ここにいる以上、目的があったのは確かだ。俺の女に手を出そうとした、ということで。だからね、責任を取ってもらいますよ」
大声で怒鳴るわけではない。だからこそ不気味に感じるものだ。
男は内ポケットに手を入れると、それを取り出した。白木の鞘に収められた短刀が、恭次の目の前で、音も立てずにすっと抜かれる。
そして、テーブルの上にそっと置かれた。
「ま……待ってくれ。金なら出す。いくらだ。何十万……いや、何百万だせばいい」
「あんた、ルミを金で売買するつもりですか? それは彼女を愛していない証拠だ。俺はね、ルミのことを愛しているんですよ。だから俺の目的は一つ。あんたに消えてもらうことだ」
「俺を殺す気か!」
「薄汚い小指なんかもらったって仕方ない。潔くご自分の喉をかっ切ってはいかがですか? こいつらの手にかかる前に」
と言うと、両脇に立っている男たちが身をかがめ、恭次の顔をぐっと睨んだ。
殺される、と恭次は思った。こいつらは間違いなく本職のヤクザだろうし、女を使った「ゆすり」などはお手の物だろう。
しかし金銭を要求しているわけではない。本当に死ねというのか。
なぜだ……。どうしてこんなことになってしまったんだ。
男が短刀を取り上げて、恭次に差し出す。もちろん刃の方を握って、柄の方を突き出したのだ。
恭次はそれを握った。――鋭く尖った切っ先が目の前にある。
手が震えた。人を傷つけることはあっても、自分の身を切り裂くなど、考えたこともない。病院の注射でさえ怖がるほどなのだから。
しかし逆らえば、両脇にいる男たちが何をするか分からない。一気に殺してくれたらいいものを、おそらく苦痛に歪む恭次の顔を楽しみながら、じわじわ痛めつけて来るだろう。
「どうしました?」
男のさっきまでの笑みが消えた。「死ぬのが怖いんですか?」
恭次は何も答えず、じっと男の顔を見つめる。
男が、またフフッと笑った。もちろん嘲笑いだ。
そして男が下を向いて、タバコに手を伸ばした時だった。
恭次が持っている短刀が真っすぐ突き出された。ズン、という鈍い感触が恭次の手に伝わる。短刀が、男の胸を――いや、とっさにかわした男の腕に突き刺さっていたのだ。
傷口を押さえてうずくまる男を尻目に、右側にいる男を突き飛ばす。左側の男は突然のことに驚いて、ただ呆然としているようだ。
恭次は駆け出した。ドアに向かって、猛然と飛び込んだ。
今なら逃げられる。このホテルを出てしまえば、二度と捕まることはないだろう。
ドアを開けながら外に出ようとして、恭次は部屋の中を振り返った。
ルミが、寂しそうな目で見つめていた。
男に弄ばれ、食い物にされ、散々いたぶられて来た哀れな青春であったろう。自分のためではなく、奴隷のごとく働かされ、野獣の餌にされながら、その収益はすべて「飼い主」に吸い取られていったのだ。
初めての「飼い主」となったのが、恭次だった。自分の女にしておきながら、「美人局」の餌にしていたのである。男に誘わせてホテルに入る。ある程度時間を見計らったところで、恭次が雇っていたチンピラたちに踏み込ませる。そして散々痛めつけたあげく、自分の女を連れ込んだ賠償として、多額の金をふんだくるのだ。
餌となったルミは、当然、俺を恨んでいただろう。そして今雇われている、腕を怪我した新しい雇い主のことも恨んでいるだろう。
しかしルミは、恭次に逆らったことなど一度もなかったし、文句を言うこともなかった。あの日突然、いなくなるでは……。
そして――今日出会ったのは、偶然なんかではないのかもしれない。俺に復讐するため、わざとここまで連れて来たのだ。あの男たちを待たせておいて。 恭次はルミの顔を瞬時見つめた。つらい目に合わせてすまなかった、という思いを込めて。
背を向けて部屋を出ようとした時だった。腕を傷つけられた男が、手に短刀を握りしめて、猛然と走り出して来た。
「待て!」
とっさに恭次は身構えた。
男の顔が歪んでいる。もちろんそれは傷口の痛みによるものだけではない。恭次という標的に不覚を取ったからだろう。
逃げなければ、と思った。しかしその時、ルミが立ち上がる姿が見えて、ついその足が止まった。
俺を追いかけるのか? そこまで俺を恨んでいたのか?
ルミが、小さく肯いた。そして――くるりと背を向けて、雇い主であろう短刀を持ったその男に体当たりしたのである。
転倒した男に覆いかぶさって、ルミが叫んだ。
「逃げて! ――早く!」
男はルミを撥ねのけようとしたが、傷口が痛むのか、思うように力が入らない。
「気様、裏切る気か!」
「恭次さん、私のことは心配しなくていいから!」
早く行け、と目で訴えている。
恭次はためらった。今のうちなら逃げられるかもしれない。
ルミ、すまん……。
部屋を飛び出した恭次は、薄暗い廊下を駆け出した。
そんなに大きくないホテルなのに、一階に降りる階段が見当たらない。と、エレベーターが目の前にある。
ボタンを押すと、すぐにドアが開く。飛び乗った恭次は、〈1〉の部分に指を叩きつけた。
ドアが閉まって下降を始める。モーターが唸る音の中に、女の悲痛な叫び声が聞こえたような気がした。
今ごろルミは、男たちに殴られているだろうか。俺を助けた報いとして、惨たらしい仕打ちを受けているかもしれない。
恭次は複雑な思いで、表示ランプを見ていた。
一階に着いた表示が点滅して、箱が静かに止まる。そして、ドアが静かに開いて行く。
一階のロビー――ではない。
恭次は自分の目を疑った。そこはさっきまでルミといた、逃げ出して来たはずの、そのホテルの一室だったのである。
三人の男たちが、ベッドやソファに座ってこっちを見ている。
ベッドに腰掛けて不敵な笑みを浮かべている男の足下には、制裁を加えられたのであろう、ぐったりとしたルミが、哀れにも横たわっていた。
「お帰りなさい。散歩は楽しかったですか?」
と、男が言った。
「どういうことだ……」
恭次は呟いた。
「あんたにはね、他に行くべき場所なんかないんです。自分がやったことに対する仕打ちは、ちゃんと自分で受け止めなさいよ」
男たちが立ち上がった。そして恭次に近づいて来る。
「待ってくれ。ルミに何をしたんだ」
「何って、こいつが勝手に望んだんだよ。自分の命を懸けてまでも、あんたを助けたいんだとさ。しかしあんたは、責任を取らなきゃならん。だから帰って来たんじゃないのかい?」
二人の男が恭次の両脇を抱えると、そのままベッドに叩きつける。あっという間に素っ裸にされて、その身体はロープで固定された。
男が恭次の身体をまたいで、馬乗りになる。腕の傷は、いつの間にか消えていた。
「俺はさっき、あんたに短刀を渡したはずだ。しかしあんたは、それを俺に返した。ということは、俺に制裁してほしい、ってことだよな」
男の持った短刀の刃が、恭次の頬をゆっくりと舐めて行く。
「た……助けてくれ……」
恭次の声は震えていた。
「何? 聞こえないね」
短刀の切っ先が、恭次の胸に赤い筋を引いて行く。糸のような傷口から滲んだ血は、一気に溢れることはなく、滴るように胸板を流れた。
「待って!」
ルミがベッドに近寄って来る。しかし二人の男に阻まれた。
「どうした。お前の手でやってやるか?」
「私はどうなってもいいから、恭次さんを助けてあげて。お願い!」
「助けるだと? 忘れたのか、お前がこの男にされて来たことを」
「忘れはしないわ。でも、それは、私が彼のためにやってあげてたことなんだもの。恭次さん一人のせいじゃない」
「ふん、馬鹿な女だ」
「馬鹿で結構。あんたよりよっぽどましよ!」
と、ルミは叩きつけるように言った。「人の身体を売り物にして、痛めつけるだけ。優しい言葉もなければ、自由にもさせてくれない。でも恭次さんは違うわ。悪いこともして来たけど、私と二人でいるときは優しくしてくれたし、愛してくれた。奥さんがいてもいい、愛人でもいい。彼のために尽くしてあげたい、って、ずっとそう思っていたわ。だって私、恭次さんを愛しているから」
ルミの瞳から涙がこぼれ落ちた。
圧し殺したように男が笑い始める。そして我慢しきれなくなったのか、大声で笑い出した。
男がベッドから降りる。ルミの前にしゃがみ込んで、短刀の切っ先をその喉元に当てた。
「やめろ!」
見ていた恭次が叫んだ。
「こうなりゃ、二人ともお仕置きだ。仲良く死んでもらうか」
と、男は冷たく言い捨てた。「さて、どっちから殺るかな」
ルミの身体に刃を滑らせながら、その視線は恭次に注がれる。
ルミは恭次を見つめていた。何の淀みもない、真実の目なのかもしれない。
俺を愛している、とルミは言った。あのときも――そして、今も。
なぜだ。ルミを「食い物」にしていた俺を、どうして愛していたというんだ。
「ルミ、見てろ」
と、男が言った。「愛している男のザマをな」
ベッドに飛び乗って来た男の短刀が、恭次の目の前でキラリと光る。
しかしその刃が見えなくなった。いや、下腹部へと下がって行ったのだ。
「一気に殺しても面白くない。ジワジワ痛めつけてやる」
見ていたルミの目がカッと見開いた。
「やめて、何をするの!」
「悪い部分を削ぎ落としてやらないとな」
男が持っている刃が、恭次の陰部――つまり男のシンボルである「それ」に当てがわれたのだ。
冷んやりとした感触を股間に覚えた恭次は、全身を硬直させた。しかしロープで拘束されている以上、どうすることもできない。
「ま、待ってくれ……」
「どうした。辞世の句でも詠むか?」
「訊きたいことがあるんだ」
と、恭次は静かに言った。「これは――現実なのか?」
「夢を見ているとでも言いたいのか」
「俺は死にかけているらしい。あの世の裁判を受けているらしい。でも信じられないんだ。ベッドに寝ていた俺の姿も、今こうして痛めつけられていることも」
あの声を思い出していた。天国か地獄、一体どっちに行くべきなのか、審議すると言っていたっけ。
今まで自分がやって来たことを思い出せという。しかし、こんなことまでやった憶えはない。
といっても、自分で手を下して来たわけではないのだ。雇われた手下が余計なことをしたとしても、恭次は関知しなかったし、訊くこともなかった。ただ言いつけた仕事を全うしていれば、後は金を払っておしまい。それでよかったはずなのだ……。
結局、俺の責任なのか? もちろんそれは間違いない。
だから、その罰を受けていることになるのだろうか。
「――ここはどこなんだ。お前ら一体、何者なんだ」
恭次は天井を見つめていた。
「俺たちはね、頼まれてやってるだけなんだよ。あんたが人を使っていたようにね」
「誰に頼まれた。――神様か?」
「よく分かってるじゃねえか」
「だったらもう一つ訊く。神様とは何者だ」
「ふん、ばかなことを訊くね。あんた、知らないの?」
「知ってるよ」
と、恭次は言った。「――いや、やっと分かった、と言うべきかな」
部屋の中をゆっくりと見渡す。
何もない殺風景な部屋だと、改めて思った。感情も表現も、愛情のかけらも見当たらない。
いや、生命感がない、と恭次は思った。
ルミが哀しげな目で見つめている。恭次はその顔を見て、少しだけ微笑んだ。
「やるなら早くしてくれ。待っていると結構怖いもんなんだよ」
と、恭次は男を見て言った。
「じゃ、やるよ」
男が短刀を押し当てる。「ルミ、見てろよ」
股間に激痛が走った。まるで腹の中をえぐられているような気がする。それは痛みを通り越した、不思議な感覚でもあった。
ルミの悲鳴か聞こえたような気がした。その後、泣き叫んでいる声も……。
恭次は笑っていた。痛くて、つらくて、苦しくて。
なぜ笑っているのか、自分でも分からない。
いや、その理由は、恭次だけにしか分かるはずがないのだ。
天井の鏡に映った自分の姿が、あまりにも無様すぎたからだった……。