その五
(五)
外観ほど派手ではなく、部屋の中は至ってシンプルなものだった。
広めに取ってあるベッドルームの奥に、洒落たソファーがポツンと置いてある。壁や調度品はアイボリーで統一され、いやらしい赤や青やピンクといった色彩は全く感じられない。
男と女の欲情をかきためるには、いささか平凡すぎると言ってもいいほどだ。
しかし都会慣れした「大人たち」には、却って相手に対する集中心が増長するのかもしれない。色に惑わされることなく、相手の艶に順応した方がムードも盛り上がるというものだ。
ベッドに腰を下ろしたこの二人も、部屋の雰囲気に惑わされる事なく、吸い込まれるように互いを見つめ合っていた。
恭次の左腕がルミの肩を引き寄せる。もちろん右腕はその下腹部に添えられたままだ。
ルミの息遣いが荒くなって来る。それを確認したのか、恭次の右手が豊満な乳房を手の中にすっぽりと包み込んだ。
「待って……」
と、その手を拒むようにして、ルミは呟くように言った。
「お前に会いたかったんだ」
力ずくではいけない、と思いながらも、恭次はつい、ルミの上に覆いかぶさって行く。
二人は奪い合うかのように、お互いの唇をむさぼり合う。そしてセーターの中に潜り込んだ恭次の手は、しだいに背中へと移動すると、器用な指先でブラジャーのホックを外した。
「ねえ、本当に待って!」
ルミは身をよじらせながらそう言った。
「今さらいやってこともないだろ」
「そうじゃなくて……」
と、ベッドに座り直すと、「シャワーを浴びたいわ」
立ち上がったルミは、恭次の顔を覗き込むようにして、その唇にそっとキスをした。
笑顔を見せてからバスルームへと消えて行くルミ。恭次はその後ろ姿を見ながら、いやらしげな笑みを浮かべていた。
ふん、女なんて簡単なものだ。嫌だと言っても抱いてしまえば素直に応じる。
結局は俺から離れることができない女なんだ。
恭次は一人、ほくそ笑んでいた。
――シャワーの音が途切れることなく聞こえている。姿は見えなくとも、想像を掻き立てる快い音だ。
恭次はベッドにひっくり返り、その音に耳を傾けながら、何気なく部屋の中を見回していた。
と、片隅に置いてある大きなテレビに目が止まった。もちろんホテルにテレビは付き物である。この部屋を利用するカップルのため、欲望を煽り立てるいかがわしいビデオを放送するためのものだ。
しかし……そればかりではない、と恭次はとっさに思い立った。普通の番組もやっているはずだ。
今、恭次が置かれている現状はまともではない。記憶がないだけかもしれないが、どうしてこの街にいるのか、そして今日は何月何日なのかさえ分からない。それを確かめるための番組があるかもしれない。
枕元に置いてあるリモコンを手に取った恭次は、テレビに向けて赤いボタンを押した。
大きな画面が瞬時に輝き出す。――女の喘ぎ声が聞こえて、男と女がもつれ合うシーンが映し出された。
慌ててボリュームを落とす。シャワーを浴びているルミが聞いたら笑い出しかねない。また一人でいやらしいビデオを観てる、と馬鹿にされるだろう。もちろん本気でからかったりするわけではなかろうが、男としてはやはり照れ臭いものだ。
おっと、こんなものを見ている場合ではない。俺が見たい番組は他にやっているはずだ。
チャンネルのボタンを押してみる。今度は女同士が絡み合っていた。またボタンを押す。次は女が一人で――。とにかく、その手の映像がいくつか続いた。
何回目かのボタンを押した時、恭次の手が止まった。映し出された映像が、恭次の行動を凍らせたのだ。
何の番組だろう……。ニュース? 違う、そうだとしたらもっと画が動いているはずだ。ではドラマの一シーンか? いや、そうでもないらしい。たまたま男がベッドで寝ているシーンがあったにせよ、こんなドラマが存在するはずがないではないか。
恭次は上体を起こしてテレビに見入っていた。
自分が――恭次自身がベッド横になっているシーンを見つめながら……。
「これは……何だ?」
信じられない、と恭次は思った。もちろんあの駐車場で目を覚ましてからが信じられない出来事の連続ではあるが、ここで自分の姿をテレビで見るとは思ってもいなかった。
しかし、ベッドで寝ているといっても、そこはどうも病院らしい。簡易なパイプベッドの上で横になっているものの、心電図の計器や酸素を送り出す機械からいくつものパイプや電気コードがその身体につながっているし、天井から吊るされた点滴から、確実に液体薬品が静脈を経由して流れ込んでいた。
まさしく病人の姿である。いや、かなり重病ではないのだろうか。
そういえば――同じシーンをどこかで見たような気がする。あれは確か……この街に来る前だ。何もない殺風景な部屋の中でパソコンの中に現れたあのシーン。ベッドの中の自分を見て驚いていたではないか。そしてこの街がモニターの中に映っていて、いつの間にかその中に移動していたのだ。
ということは、やはり俺は夢を見ているわけではないのだろう。すべてが続いていることになる。
しかし、俺が病気で入院している? いつのことだろう。過去にそんな経験はない。ということは、未来の姿ということか? それとも自分の記憶にない、忘れていた過去があるのだろうか……。
恭次は横に首を振った。
危険な目には何度も遭って来たが、肉体的な衰えを感じたことはない。風邪はともかくとして、医者の世話になるような病気など全く縁がなかったのである。
何かの間違いだ。自分に似ているだけかもしれないじゃないか。
「――田所恭次」
自分の名を呼ぶ声が聞こえた。「目を逸らすな。しっかり見届けろ」
どこからだろう。恭次はテレビから視線を外し、うろたえるように辺りを見回した。
「誰だ!」
姿の見えない相手に、恭次は怒鳴りつけるように言った。
「私の声を忘れたわけではあるまい」
と、その声は言った。「どうだね、お前の今までの人生、思い出したことがあったかな?」
あの声だ、と恭次は気がついた。あの部屋で裁判だの何だのとほざいていた、薄気味悪いジジイの声。
閻魔の使い? いや、あの世の裁判長と言っていたか……。
「またお前か。どこにいるんだ。姿を見せないとは卑怯じゃないか」
「卑怯? ふむ、そうかもしれんな」
「何者だ。なぜ俺の後を付け回す」
「それは仕方のないことだ。お前にこの姿をさらけ出したくとも、容易にできることではない」
と、その声はにべもなく言った。「もっとも私のことは、お前が一番よく知っているはずなんだがな」
恭次は耳をすましていた。どこかに――この部屋のどこかに声の主がいるはずだ。
恭次の神経は、入り口ドアの横にある、大きな鏡に集中していた。
隠し部屋があるのかもしれない。あの鏡がマジックミラーになっていて、その奥に潜んでいることだって考えられる。俺が見えないところで嘲笑っているに違いない。
恭次はさりげなく、枕元にある大きな灰皿を手にしていた。
「こんな状況なのに、ずいぶん楽しんでいるじゃないか」
と、その声が言った。
「ああ、おかげさまでね」
「お前は本当にルミのことが好きだったようだな」
好きだった? どうだろう……。
恭次には長年連れ添った女房がいる。子供はいないが、別にそれが離婚の原因に持ち上がることはなかったし、大きな喧嘩だってしたことがない。もちろん女遊びは飽きるほどして来たが、それだって女房に勝るような女が現れなかったからこそ、今でも夫婦生活が成り立っているのである。
浮気が女房にばれたことがないではないが、あくまでも仕事の延長だと言い聞かせていたのだ。それを納得していたからこそ、いつまでも夫婦としてやって来れたのである。
ルミに出会ったのは四、五年前になるだろうか。行きつけの店にたまたまアルバイトで入って来た女を、恭次は何気なく誘ってみた。そして食事だけのはずだったデートが、その日のうちに身体の関係ができてしまったのだ。何かを感じたから……。
何かとは――愛? そんな馬鹿な!
もちろんルミのことは一目で気に入った。抱いた後も、いつまでも余韻が残っていたものである。会う度にその肉体を欲し、貪るように絡み合った。お互いにそれを望んでいたように、
しかし、自分がルミに与えて来た仕打ちは……。
「――彼女、風呂に入っているのか?」
と、その声が訊いた。
「ああ、あいつはきれい好きだからな」
「そうか。ならばその間に、お前におもしろいものを見せてやる」
「ふん、姿も見せられない奴が、いい加減なことを言うな」
「まあそう言うな。――テレビを見てみろ」
従うつもりはないが、ついつられて恭次はテレビに視線が移る。
画面はさっきのままだ。自分がベッドに横たわっているシーン。
「これがどうした。まさかこのまま死んで行くわけではあるまい」
「さあ、それはどうかな」
その声が言い終わらないうちに、画面の端から人影か現れた。女が一人……いや、その後ろから男がついて来る。
ベッドの傍に立った二人は、無表情な面持ちで恭次の顔を覗き込んだ。
これは……。恭次は自分の妻が画面に映っているのを見て、驚きを隠せなかった。
「おい、これはどういうことだ」
テレビを睨みながら、恭次は訊いた。
「私に訊かなくても分かるだろう。お前の女房が見舞いに来てくれてるんだよ。――愛しい恋人と二人でな」
「恋人と? ちょっと待て。こいつ、田部じゃないか」
「そう、お前の親友、田部友也だ」
と、その声は言った。「この二人が怪しいってこと、知らなかったわけではあるまい。お前が仕事でいないとき、この男はいつも家に来ていただろう。お前が知らないうちに関係が出来たとしても不思議ではない」
「そんな馬鹿な……。こいつ、俺の親友だぞ。女房だってこんな奴に――」
「親友だからこそ、お前のことも女房のことも知っているものだ」
「まさか……。それでこの二人、何をしに来たんだ」
「さて、そこから説明しないといけないようだな。よく聞けよ」
そう言ってから、その声は楽しんでいるかのように声を上げて笑った。
テレビ画面の中では、ベッドで寝ている恭次が苦悶の表情を見せていた。
「花見をしたあの日、二次会でいつものスナックに行っただろう。お前が目を付けているママがやっている店だ。そこでお前は突然ぶっ倒れたんだよ」
「倒れた?」
「脳の血管がブチ切れたんだってよ。もちろん疲れのせいではない。単なる酒の飲み過ぎだ」
倒れた……。そういえば、飲んでいるときから身体中が痺れているような感覚があったような気がする。しかしそれも、カラオケを楽しんでいるまでのことしか憶えていない。
「それで、どうなったんだ」
と、恭次は訊いた。
「救急車で病院へ直行。すぐ検査がされたんだけどな――」
と、その声は言葉尻を濁した。
「もったいぶるな。知ってるんだったら早く教えろ!」
つい恭次は怒鳴っていた。
「それは私から言うべきではない。直接、医師から聞いた者に訊くべきではないのかね」
「誰が聞いたんだ」
「それはお前の女房しかおらんじゃないか。ともかく、テレビの続きを見てみろ。何ならボリュームを上げてやろうか?」
最後まで聞かないうちに、恭次はすっかりテレビの画面に釘付けになっていた。
自分の身を案じたことが第一だが、女房と田部のことが気になっていたのだ。
テレビの音量が大きくなって行く。病室だから静かではあるが、心拍を測定する機械音が断続的に聞こえて来る。脈拍はまだしっかりしているようだが、苦しんでいるのか、呼吸は乱れ、苦しそうに喘いでいる自分の声が聞こえていた。
女房が恭次の顔を覗き込む。そして田部が、女房に何やら話しかけていた。
「医者は何と言ってるんだ?」
「はっきりは言わないけど、たぶん今夜が山だろう、って」
女房は悲しんでいるのか、暗く寂しげな声で言った。
「そうか……。意識がなくなって、もう三日経つんだもんな。やっぱりだめか」
三日? そんなに俺は眠っていたのか。
しかも今夜が山だって? こいつら何を言ってるんだ!
「おい――おい!」
恭次は姿の見えない声の主を呼んだ。
「どうした。自分の姿を見て驚いたのか」
「これはいつの映像だ。過去か? それとも未来か?」
「今現在の状況だ。リアルタイムで見せてやってるんだよ」
「俺はここにいるじゃないか。一体どういうことだ」
「見ての通り、お前は死にかけている。だからこそ、お前は肉体を離れて自分の姿を見ることができるんだ」
と、その声は言った。「前にも言ったが、完全に死んでしまう前に、地獄に行くか天国に行くか、審議しなければいけない。つまり、お前の過去を――」
「ちょっと待て!」
恭次は遮った。「まだ死んだわけじゃないだろ。助かるかもしれないじゃないか」
「まあ、それはそうだな」
恭次はちょっと考えてから、
「――助かる道はないのか?」
と訊いていた。
「うむ……。ないでもない」
「どうすればいい。頼む、教えてくれ」
「条件としては、生き残ったお前を、心から受け入れてくれる人間がいるか、ということだ。つまり、お前が生きていて喜ぶ人間が一人でもいたら、その愛で助かることが出来るかもしれん」
そんなことは簡単じゃないか。俺は人に愛されて来た人間だ。傷つけたり恨みを買ったりすることもあったが、すべて誰かのために俺は悪役を買って出ていたんだから。
誰のために? それはもちろん……。
自分のためだったとしても、何が悪い。俺が満足できなけりゃ、人を幸せにすることなんかできないはずだ。
現に女房だって、こんなに俺のことを……。
その時、テレビの中から、女房の笑い声を聞いたような気がした。
恭次はじっと画面を見つめた。
「――まさか生き返ったりしないだろうな」
この声は、田部のものだ。
「大丈夫よ。そんなに悪運が強い男じゃないわ」
これは女房の声。
「せっかくのチャンスなんだ。このまま死んでくれたらありがたい」
「保険も大きいものに入ったばかりだしね」
「今まで我慢して来た甲斐があったよ。恭次に隠れてお前を抱くのはもうごめんだ」
「ねえ、私と結婚してくれる? もっとも法律上、半年は待たなきゃいけないけどね」
「それは紙切れだけの問題だ。喪が明けたら、二人で新居を構えるか」
返事の代わりに、女房は目を閉じた。その唇に、田部が自分の唇を合わせる。
苦痛に喘ぐ、恭次のベッドの横で……。
何だ……。これは何だ!
恭次は手にしていた灰皿を握りしめた。
「こんな馬鹿なことがあるか!」
「これが現実だ」
と、その声が言った。「お前には、もう、帰るところはない」
「うるさい! こんなこと……デタラメに決まってる。それに……」
「それに、何だ?」
「女房が裏切ったとしても、俺にはルミがいる。ルミが俺を受け入れたら、このまま死ぬことはないんだろ」
言い終わらないうちに、その声が高笑いを始めた。腹の底からおかしいのか、その笑い声は恭次の脳髄まで痺れさせるかのようだった。
「お前は今まで何をやって来た。自分がして来たことが分かっていないのか」
笑い声から一転して、叩きつけるような怒りの響きに、その声は変わっていた。
恭次は鏡を睨みつけていた。
その裏に隠れている何者かが、自分を陥れるために虚構の世界を作り出しているに違いない。
俺が何をしたというんだ。自分の人生を切り開くためにやって来たことが間違いだったというのか。
恭次はベッドの傍にゆっくり立ち上がると、
「ルミ……おい、ルミ! 早く出て来い!」
と怒鳴った。こんな所は早く出て行った方がいい。
「どこに行くんだ。お前に行くべき所があるのか」
その声は、恭次の中から聞こえたような気がした。
「うるさい! 黙れ、化け物!」
手に持っていた灰皿を、鏡に向かって思いっきり投げつけた。
静寂を切り裂くような大きな音と共に、ガラスの破片がカーペットに飛び散る。大小さまざまなかけらになった鏡が砕け散る中、最後までへばりついていた大きな破片が、ゆっくりと壁からはがれて行った。惨めな恭次の姿を写しながら……。
その破片が叩きつけられたとき、鋭く尖ったガラス片が、恭次の頬をかすめて行った。
血が流れているかもしれない。頬に熱い痛みがあったのだから、怪我をしていても当然である。
しかし恭次は気にすることもなく鏡がはがれ落ちた後の、白い壁を見つめた。
隠し部屋など、もちろんない。壁を突き破ったとしても、その向こうは屋外の空間が広がっているだけなのだから。
「ルミ、いつまでシャワーを浴びてるんだ」
恭次の声は、いつしか弱々しいものに変わっていた。
バスルームから聞こえていたシャワーの音が、いつの間にか止んでいる。身体を流し終えたのだろうか。それとも鏡が割れる音に驚いたのかもしれない。
とにかく、こんな所は早く出て行くに限る。
恭次はいつまでも出て来ないルミを迎えるべく、バスルームへと歩きかけて……。
そのドアが、音を立てて勢いよく開いた。
そしてルミが――ではなく、見知らぬチンピラ風の男が数人出て来て、恭次の前に立ちはだかった。