その四
(四)
恭次は歩いていた。
いや、歩くことしかすることがなかった。
どうやってここまで来たのか分からない。モニター画面を見ていたのは、ほんの数十秒足らずだ。しかも一歩たりとも動いてはいなかったのだ。
画面の中で動くものといえば、カラフルに輝くネオンだけだった。その光景に見とれていたのか、自分が置かれた状況の変化に、恭次は全く気づかなかったのである。
じっとしていても仕方ない。とにかく歩くしかない……。
この通りは歓楽街のど真ん中のように思われる。縦横無尽にあらゆる店の看板が軒を連ねていた。
とはいっても、ここはあの声の主が創り出した世界かもしれない。地獄へ行くか天国へ行くか、そのためのテストだと言っていたようだが。
しかし恭次は、今まで見て来たことは夢ではなかったのか、と思い始めていた。あまりにも現実離れしているし、遠い過去のようにも思える。
そして何より恭次の思考を鈍らせたのは、体調の良さがあったからかもしれない。
この街を歩いているうちに、なぜか心も身体も軽やかになって、しだいにウキウキした気分にさえなってきたのである。
「地獄への裁判? ふん、冗談じゃない!」
恭次はそう呟きながら、乾いたアスファルトに唾を吐き出した。その唾液が足下に落ちる寸前、スッと消えてしまったことに恭次は気づいていない。
今日は日曜日か? 誰もいない周辺を見渡しながら、恭次はそう考えていた。
しかし店はいくらでも開いているような気配だ。気晴らしに飲んで行くか……。
酒が飲めるところだったらどこでもいい。
恭次は落ち着いた雰囲気のある看板を見つけると、やおら足を踏み入れようとした。
と、突然そのドアが開いて、女が転がるように出て来た。そして二、三歩つんのめるように駆けたかと思ったら、そのまま道路に倒れ込んでしまった。
「君……大丈夫か?」
恭次は女に近づこうとした。異様な光景ではあったが、無人の街で見た初めての人間に、恭次は興奮していた。
すると、続けざまにその店からいかつい男が三人、肩を怒らせるように出て来る。そして道にうずくまる女の周囲に立ちはだかった。
「テメェ、なめるんじゃねえぞ」
三十歳前後であろうスキンヘッドに黒いスーツを身にまとった男が、女の顔に足を乗せながら言った。
「やめて……やめて下さい!」
すすり泣くような声で女は言った。
「約束が違うじゃねえか」
「約束なんかした憶えはありません」
「何だと? ベッドの中でヒィヒィ喜んでいたのはどこのどいつだ。あの夜お前は、『お願いだから、私をお嫁さんにして』と俺に言ったはずだ。だからこうやって迎えに来たんじゃねえか」
男はそう言いながら、嘲笑っているようでもある。そして嫌がる女を抱き起こそうとした。
女はとっさに男をはねのけて逃れようとする。しかし子分であろう残る二人の男が立ちはだかって、完全に自由を奪われてしまった。
「さあ、これからいい所へ連れて行ってやる。近くのホテルを予約してあるんだ。こいつらと一緒に、俺たちの結婚パーティをしようじゃないか」
ニヤニヤ笑いながら、男は女の肩を抱いた。
見るからにチンピラ風の男たちである。パーティといっても、おそらく乱交パーティのことだろう。
飲み屋のネェちゃんを口説いては、難癖をつけて何度も誘い出す。そして甘い言葉を囁きながら、その毒牙で女の感覚を麻痺させて行くのだ。
この女は、男の呪縛から逃れようとしている……。
少し離れたところから見ていた恭次は、本能的にそう感じていた。
足音を立てないよう、男の背後から静かに近寄って行く。もちろんさりげなく、である。
恭次は男の肩をそっと叩いた。
男が振り向く。と同時に、恭次の足が男の腹部にめり込んだ。
突然の襲撃に、男は悶絶して倒れ込む。その隙を見て、恭次は女の手を取って走り出した。
「早く――こっちだ!」
女は驚いていたが、とにかく野獣から逃れなければならない。藁をも掴む思いで恭次の手を握った。
お互いの顔を見る間もなく、二人は走り続ける。ちょっと振り返ってみたが、やつらはまだ追って来ないようだ。
ビルとビルに挟まれるように、細い路地が続いているところがあった。恭次は女の手を引きながら、とっさに身を躍らせた。
とにかくどこかに隠れなければ……。
とはいっても、知らない街であり、知らない店ばかりなのだ。却って不審に思われるのではないだろうか。
恭次がためらっていると、女がその手をグイッと引いた。
「――こっちに来て」
そう言いながら、女は少し古びた飲食店や事務所などか入り乱れる複合ビルへと入って行った。
慌ててついて行く恭次。女はエレベーターの前を通り過ぎると、非常階段を上り始めた。
「おい、待てよ」
「早く来て! エレベーターだと、どこで降りたのか分かってしまうわ」
二階へつながる踊り場まで来て、女は初めて振り向いた。「七階まで上がるけど、体力はある?」
その顔を見て、恭次の表情が変わった。
「お前……」
「いいから早く! 詳しいことは後で話すから」
女はそう言って、今度は一人で駆け上がり始めた。恭次の手を引いていては、足手まといになると思ったのかもしれない。
カッカッと乾いた女の足音が上昇して行く。恭次も体力に自信があるわけではないが、ここはついて行くしかない、と諦め半分、敢然と猛ダッシュを仕掛けたのだった。
しかし三階を過ぎた辺りから、しだいに息が切れ始めて来る。四階、五階と上るうち、足腰の筋肉が主人の命令に逆らうようになりつつあった。
ギィーっとドアが軋む音が聞こえる。女が七階にたどり着いたのだろう。
恭次が腰に手を当てながらドアを開けた時、その通路には人っ子一人見当たらない。しかしこの何軒か店がある中のどこかに入ったはずだ。
恭次はゆっくりと歩いてみた。
俺を置いて行くなんて、何という女だ。誰が助けたと思ってる!
しかし、どこだろう……。恭次は一つひとつのドアに耳を傾けながら、慎重に確かめてみる。
静かだ、と恭次は思った。どのドアからも、音や声らしきものは何も聞こえて来ることはなかった。
しかし、もっとも奥まった一軒の店から、かすかに漏れてくる音楽が聞こえる。この店に入ったのだろうか? 恭次が手を掛けようとしたとき、そのドアがスッと中から開いた。
「早く入って」
と、その女が言った。「ここなら大丈夫。店の人は私の友達だから」
恭次が中へ入ると、女は内鍵を掛けたのだった……。
小さなショットバーといった雰囲気の店である。カウンターに五、六席と、四人掛けの小さなテーブルが三卓あるだけ。カラオケの機材も見当たらなければ、ホステスらしき女の姿もない。
BGMが静かに流れている。昔懐かしい、グレンミラーのヒットナンバーだ。
何という曲だっけ? 若い頃聴いていたジャズのメロディが、頭の中に蘇る。
おっと、そんな悠長なことを考えている場合ではない。
恭次は店の中を見回して、女の姿を探した。内鍵を掛けた後、突然いなくなってしまったのだ。
とにかく店の中には誰もいない。恭次は仕方なく、また店の外に出ようとした。もしかしたら、裏口みたいなものがあるのかもしれない。
ドアの取っ手に手を掛けようとして、
「待って!」
という声を背後に聞いた。
振り向いた恭次は、カウンターの中にその女が立っているのを見て、しばらく懐かしいその容姿を見つめていた。
「ルミ……だろ?」
と、恭次は言った。「どうしてこんなところにいるんだ」
「どうしてかしらね。あなたに会うため、かな?」
ルミはちょっと笑顔を見せて、「座ったら? 水割りでも作るから」
棚に並んだボトルの中から高級ブランデーを手に取ると、慣れた手つきで水割りを――いや、気が変わったのか、ロックにしてカウンターの上にそっと置いた。もちろんグラスは二つ並んでいる。
カウンターを出たルミは、恭次の横に座ると、寄り添うように頭をもたげた。
「会いたかったわ……」
甘えるような囁きだった。
――この女と会うのは何年ぶりだろう。
恭次の行きつけの店で、短期間だけ働いていたことがある。もちろんアルバイトのホステスであって、本業はOLと言っていたようだが。
あの当時はまだ二十歳と言っていたから、今では二十四か、五か……。
恭次はこの女を気に入っていた。若い割には落ち着きがあって、気品すら漂う美人である。着飾っているわけでもなければ、派手な化粧をしているわけでもない。
そのままの姿が艶やかに輝いているようでもあった。
そしてもちろん、恭次が手を付けないはずがなかった。短い時期ではあったが、ルミは恭次の「女」だったのである……。
「――お前、どこに行ってたんだ。探したんだぞ」
ルミの頭に手を乗せて、恭次は言った。
「あなたの知らないところ」
「俺から逃げた、ということか」
「そうね……。そうかもしれない」
ルミはそう言ってから、グラスの酒を一気に飲み干した。
グラスを置いた手が、そのままうなじへと移動して髪をかき上げる。その仕草は昔のままだ。
「あの店……さっきお前が飛び出して来た店は、今働いているところなのか?」
と、恭次は訊いた。
「ううん、違うわ」
「それじゃ、飲みに来てたのか?」
「私、お酒はやめてたの」
「だったらどうして……さっきいた男たちに誘われて――」
「あなたを待っていたの」
ルミは恭次の目を見つめながら言った。「やっと会えたから、こうして飲んでるのよ」
俺を待っていた? そんな馬鹿な!
何年間も音信不通だった女を、恭次の方が探していたぐらいなのだ。しかもこの街に来たのは初めてだし、どうやってたどり着いたのかさえ分からない。
そんな自分を待っていたということはあり得ないはずだ。
しかしやっと巡り会えたのだ。場をしらけさせて、雰囲気を壊すのはいただけない。これも何かの縁かもしれないではないか。
恭次はルミの言葉に応えるように、その口元に自分の唇を重ねた。
「さっき絡んで来た男たち、お前の客か?」
抵抗しないルミに、恭次は訊いた。
「客……。そうね、客になるのかもしれないわね」
「結婚とか言ってたな、あの男。どうせ無理やり連れ込まれたんだろ。酒に酔った男なんて、身勝手なものだからな」
ルミはそれには答えず、ふふっ、と笑っただけだった。
「なあルミ、ここは――」
と言いかけて、恭次は口をつぐんだ。ここはどこなんだ、と訊きたかったのだが、俺がおかしくなったんじゃないか、と思われるかもしれない。
すると、ルミの方から切り出してきた。
「ねえ恭次さん、ここ、どこだと思う?」
ここというのは、この店のことか? それとも恭次が迷い込んだ世界のことだろうか……。
「私ね、本当にあなたを待っていたのよ」
と、ルミが言った。
「どういうことだか分からないな。俺がこの街に来るのを知っていたとでもいうのか」
「ええ、そうよ」
「そうか……」
恭次は少し考えてから、「だったら正直に言うが、俺が今いる場所、どこだか分からないんだ。もちろんこの店のことじゃない。異様な世界に紛れ込んだような気がしているんだ」
と、ためらいながら言った。
「そうでしょうね」
「教えてくれ。――ここはどこなんた? どうしてお前がここにいるんだ?」
「私、自分からここに来たんじゃないわ。頼まれて来ただけ」
「誰に頼まれたんだ。俺のことを知っている奴か?」
「もちろんよ」
ルミは笑顔を見せてから、「だって神様なんだもの」
と言ったのだった……。
こいつ、おかしくなったんじゃないか、と思った。同時に、俺がおかしいのかもしれない、とも思った。
恭次は空になったグラスにブランデーを落とした。そして一気に口の中へと流し込む。
「神様か……」
「そう、神様」
「どんな奴だ、その神様ってのは」
と、恭次は訊いてみた。
「それはあなたが一番よく知っているんじゃないかしら」
ルミは平然とした顔で言う。
「俺の知り合いなのか?」
恭次は思わす笑い出しそうになった。
「というより、あなたしか知らない、と言った方が正しいわね」
「詳しく教えてほしいな」
そう言いながら、ルミの腰をグイッと引き寄せる。
「私に? それとも……私の身体に?」
ルミが恭次の首に絡み付いた。
神様なんかどうだっていい。ルミと再会したことがすべてではないか。
こいつは俺に会いたがっていたわけだし、俺だって探していたんだ。そしてここに二人でいるということは、それこそ神様が引き合わせたのかもしれない。
奇妙な世界に紛れ込んだと、もちろん今でも思っている。しかしそれは、ルミに会うための運命なのだ、と恭次は自分に言い聞かせていた。
ルミの首すじに唇を這わせながら、セーターの裾から手を差し込むと、豊かな乳房をまさぐり始める。
「待って……」
と、ルミはセーターの上から恭次の手を抑えた、
「いやなのか?」
「ここじゃいや。だから……」
二人は唇を重ねてから、店の出入り口へと歩いて行く。
ルミがロックを外すと、肩を抱いたままエレベーターへと向かった。
箱に載り込むと、二人はまた抱き合った。そして激しく唇を絡め合わせる。
一階までたどり着いたら、ルミを痛ぶっていた男たちが待っているかもしれない。あちこち探し回って、俺たちが出て来るのを待っているかもしれない。
もちろんそう思わないでもなかったが、あれから充分時間は経っている。もう大丈夫だろう。
恭次はルミの肩を抱いて、表通りに出た。
やはり人影は全く見当たらない。もちろん車や鳥でさえ目にすることはない。ネオンだけが瞬く「死んだ街」を、二人の人間が歩いているのだ。
恭次は空を見上げた。――夜なのか? 雲はかけらもないが、月や星も見当たらない。ただどんよりとした鈍い光が空一面から発しているようでもある。
どうでもいい、と恭次は気にも留めなかった。
昼だろうが夜だろうが、そんなことは関係ない。今、俺の腕の中にルミがいるのだ。
ラブホテルだぞと言わんばかりの派手な造りの建物が見えて、恭次はルミの肩にかけた手にちょっと力を入れてみる。
恭次の腰にまわしたルミの手が、ピクッと動いた。
暗黙の了解である。二人は真っ直ぐ、キラキラとイルミネーションが輝く箱の中へと吸い込まれて行ったのだった……。