その三
(三)
「恭次……田所恭次……」
声が聞こえる。「早く目を覚ませ」
そう言われても困るんだよな。だって俺、もう死んじまったんだから……。
でも人間って、死んだらどうなるのだろう。肉体はおろか意識としての自分はすべてなくなって、その存在は消え去ってしまうのだろうか。
いや、俗っぽい言い方をすれば、天国と地獄という嘘のような世界が本当は存在するのかもしれない。
しかし恭次は、そんなことを信じるタイプではなかった。天国も地獄も、本人が生きている現世にこそあってしかるべきだと確信していたのである。悩みもなく心から楽しんでいられる時が「天国」であり、金銭ごとや肉体的、または精神的な苦痛に苛まれている時こそ「地獄」なのだ。
ということは、ここにたどり着くまでの出来事は、俺にとって地獄を見たことになるんだ、と恭次は思った。二十五年前に死んだ康雄の幽霊に苛まれ、生き埋めにされたうえ、杭で刺殺される。これほどまでの苦痛を経験したことがなかったのだから。
でも……俺は本当に殺されてしまったのだろうか。いや、死んでしまったことすら信じられないのだが……。
「田所恭次、目を覚ませ!」
腹の底に響くような男の声が聞こえて、恭次はハッと目を開けた。
まただ。あの駐車場で目を覚ました時と同じ感覚があった。辺りは真っ暗で何も見えない。しかも身体の状態だって、生き埋めにされていたせいか痺れたままだ。
しかしあの時と違うという事実に、恭次は少しずつ気がつき始めた。真っ暗ではなく、そこは薄暗い部屋の中だったのである。
ここはどこだろう……。目が慣れて来ると、その様子がぼんやりと見えて来た。狭いビルの一室でもあるようだが、四角い部屋はコンクリートの壁に囲まれ、窓らしきものは見当たらない。装飾品や棚類は何もなく、小さな机が置かれているだけだった。
横たわっていたのか、恭次はゆっくりと頭を上げてみた。そして立ち上がりながら、喉にそっと手を当ててみる。チクリと刺さった杭が一気にここを貫通したのだ。その感覚がまだ残っていた。
濡れている、と恭次は感じた。血であろうか。しかし目を凝らして見ると、それが汗であることが分かる。もちろん傷痕は何もなかった。
あれは夢だったのだろうか……。
「田所恭次――」
また声が聞こえた。「田所恭次、返事をしろ!」
「誰だ!」
恭次は立ち上がりざまそう叫んだ。
「うるさい、騒ぐな。これからお前の裁判を始める」
その声がどこから聞こえて来るのか分からない。部屋には自分だけしかいないし、外から声が漏れて来るような小窓さえ見当たらないのだ。
「裁判だと? 一体お前は誰なんだ!」
そう言って、恭次は辺りを見回しながら、声の主を探した。
「そう部屋の中をウロウロするな。私の姿は誰にも見つけられん。私は形として存在してはおらんのだから」
何をわけの分からないことを言っているのだろう、と恭次は思った。
「なぜ俺の名前を知っている」
「それは後から説明しよう。どうせ今言っても理解できんだろうから」
と、その声は言った。「とにかくお前は、勝手にここから出て行くことはできない。判決か下るまではな」
「どういうことだ。どこで話しをしているんだ!」
と怒鳴りかけて、「なあ頼む、教えてくれ。ここはどこなんだ。俺は一体どうしちまったんだ……」
恭次の声は、しだいに弱々しいものに変わって行った。
「人間というもの、死んだらどうなるか、とさっきまで考えていただろう」
「それがどうした」
「お前はどう思う。天国や地獄があると思うか?」
「ふん、馬鹿らしい。死んじまったらすべて終わりじゃないか」
「そうか……。では言おう。お前は死の淵に立っている。いや、死にかかっていると言った方がいいかもしれん」
当たり前だ。俺はさっき生き埋めにされたばかりなのだから。杭で一突きにされて生きている方がおかしい。
恭次は返事する気もなく、鼻で笑った。
「しかし勘違いをするな。お前は康雄に殺されたわけじゃない。それ以前に死にかかってここへやって来たというわけだ。ただ、死んだ後のお前をどうするか、じっくりと審議しなければいけない」
「ちょっと待ってくれ。康雄に殺されたのではないとすると、一体誰が殺したというんだ」
恭次は姿の見えない相手に訊いた。
「お前の記憶はどこまである」
「花見が終わって、いつものスナックに行って、歌を唄って……」
「その時のメンバー、憶えているか?」
あの時は確か、五、六人いたはずだ。スナックのママと、取引先の不動産関係者、そして恭次の下で働いている男が二人。そういえば昔からの友人、田部友也も途中から参加していたっけ。恭次の唯一と言っていいプライベートの親友で、仕事があるからと言って、二次会から顔を出したような気がする。
おっと、大事な存在を忘れていた。結婚して十年になる愛しき妻が一緒だったはずだ。いかに宴会といえども、仕事が絡んだ席にしゃしゃり出ることを控えていた妻である。
仕事も私生活も順調に行っていた時期だけに、恭次は心から楽しみたくなって、身近な人間たちを集めた宴会だった。
――恭次は部屋の中をぐるっと一周してから、やっと口を開いた。
「その中の誰かが俺を殺した、というわけか」
「ふむ、いいところに気がついたな」
「それは誰だ。俺はあいつらに恨まれる憶えなんかないぞ」
「ほう、大した自信だな。本当にそう思っているのか?」
「当たり前だ! 今まで俺が面倒を見て来てやった奴らばかりじゃないか。感謝はされても、殺される謂れはない」
と、恭次は断言した。
しかしその行動は、言葉とは全く違っていた。部屋の中を行ったり来たり、壁を叩いては手の痛さにしかめっ面したり……。自分が置かれた立場に対する不安が如実に現れていた。
恭次は天井を見上げて、
「なあ、頼む、教えてくれ」
と言った。「ここはどこなんだ」
「地獄への入り口――とでも言うべきかな。俗にいう、三途の川の手前と思えばいい」
その声はあくまでも冷静であり、冷淡な響きだった。
「ということは、俺は地獄へ行くのか?」
「だから言っただろう。地獄へ行くか天国へ行くか、これから裁判を始めるんだ」
「こんな誰もいない部屋で、どうやって進めるつもりだ」
「まずは、お前が自分の人生に対して、反省する気持ちがあるか、というところから検証してみる。ただし、話だけでは真相が見えない。従って、お前をテストしてみることにした」
テスト? どういうことだろう。恭次にはさっぱりわけが分からない。
しかしさっきまでのことを考えてみると、あれがテストなのかもしれない、と思わないでもなかった。二十五年前に死んだ康雄が現れるのもおかしいし、目が覚めた場所が尋常な所ではない。ましてや生き埋めにされても、こうして生きているではないか。
恭次は部屋の中を見回してから、机の上に置いてある箱のようなものに目を止めた。さっきからあったはずなのに、全く気がつかなかったのだ。
これはテレビか? よく見るとパソコンのモニターのようでもある。しかしそこには何も映っていない。その下にキーボードもあり、マウスらしきものもあるのだが。
どうしてこんな物がここにあるのだろう。声の主は地獄への入り口と言っていたはずだ。要するに「あの世」ということではないのか?
まさか死後の世界までハイテクの影響を受けたわけではあるまい。もっとも恭次は、自分が死んだとは、全く思っていないのだが。
よく見ると、パソコンに生命を与える電源のコードが見当たらない。何だ、やはり飾りだけなんだ、と恭次はせせら笑った。
「おい、おっさん!」
恭次は叫んだ。「これは何だ!」
と同時に、モニターを思いっきり手のひらで叩いた。
すると画面が一瞬閃光して、モニターが明るく輝き出す。恭次は驚いて声を上げそうになった。
「どうした恭次。それくらいで驚いているのか?」
あの声が嘲笑うように言った。
「どういうことだ。俺を馬鹿にしているのか」
「とんでもない。お前が生に未練があるだろうから、遺して来た世界を見せてやろうと思っただけだ。ありがたいと思え」
「どうやって見るんだよ」
「ん? まさかお前、パソコンが使えないと……」
「うるさい! こんなもん、俺には必要ないんだよ」
と、恭次は吐き捨てた。もちろん使ったこともなければ、触ったことすらなかったのだ。
あの声が、くくくっ、と押し殺したように笑っている。そして、
「そうか。では私からのプレゼントだ。じっくり見てくれたまえ」
モニター画面に、あるシーンが映し出された。
それは恭次自身がベッドに横たわっている場面だった。
おそらく病院なのだろうか、心音や血圧などを測定する機械があって、病人であろう恭次の顔には酸素マスクがつけられている。
どういうことだ……。俺は今まで入院なんかしたことがなかったはずだ。いつの間にこんなものを作りやがった!
よく見てみると、恭次自身の荒い息遣いが聞こえて来る。今にも呼吸が止まりそうだ。
ベッド上の恭次の目が、悶絶するように動き始めた。マスクがはめられたままなので、余計に苦しそうである。
そして――画面は真っ暗になった。
「――これはどういうことだ」
恭次の額に脂汗が浮かぶ。
「これがお前の現状だ」
と、その声は言った。
「俺はこの後、どうなる」
「さあ、どうかな。お前次第、とでも言っておくか」
その声はそう言いながら、くくくっ、とまた笑い始めた。
恭次は真っ暗になったモニター画面を見つめながら、
「一つだけ教えてくれ」
小さく息を吐いてから、「お前は何者だ」
と訊いた。
「私か? そうだな……。閻魔大王の遣いだと思ってくれ。言うなれば、あの世の裁判長、というところかな」
「裁判長……」
恭次は呟くように言った。
「そうだ。そしてまた、お前自身でもある」
裁判長が俺自身だって? さっぱりわけが分からない。
「一つだけ言っておこう。アドバイスと思ってくれたらいい。天国や地獄というものは、自分自身が作り上げるものだ。夢もまたしかり。人間は死ぬ間際、過去のことを走馬灯のように思い出すという。それがどの世界へ行くかの岐路だということを忘れるな」
淡々とした声は、部屋の中に響いているのではなかった。恭次自身の中から聞こえているような気がした。
「俺は今、過去のことを思い出しているというのか」
と、恭次は問いかけた。
「それは自身で判断しろ。自分が経験したことかもしれないし、他人に経験させたことかもしれん。お前が気づかなかった思い出を見せてやってるんだから」
「もし俺が本当に死んだのであれば、天国に行ける道はあるのか」
「それはどうだろう。テストの結果と、審判を下す人間が決めることだ」
と、その声は断言した。
「人間が……。誰が決めるというんだ」
「さて、テストの続きでもやるか」
恭次の言葉も聞かず、その声は続けた。「恭次、モニターを見てみろ」
無視しようと思ったが、この部屋にはそのパソコンしか置いてないのだ。明るく輝き出せば、いやでも目が行ってしまう。
画面の中に、繁華街と思われる街並みが映っていた。色とりどりのネオンが輝き、怪しげな看板なども目に付く。
スナックや小料理屋、雀荘にピンクサロン。雑貨屋には子供には見せられないような玩具が並んでいる。
しかし、何かがおかしい、と恭次は思った。何だろう……。
そして、大事なことに気がついた。
その中に、人の姿が全く見られなかったのだ。いや、人だけではない。犬や猫、そして鳥さえもいない。生命感というものが全く感じられなかった。
そして恭次は、もっと大事なことに気づくことになった。
いつの間にか、恭次はその街の中に、ただ一人突っ立っていたのだった……。