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夢牢   作者: 伝次郎
2/9

その二



      (ニ) 


 全力で走る恭次の足音だけが、静まり返ったビルの谷間にこだましていた。

 とにかく走るしかない。捕まってしまえば、またあの拷問が待っているのだ。暴力を振るう側に立てば何の感情も表さない恭次だが、自分がその渦中に身を置かれたとき、痛みと恐怖感がその人間を小さなものにしてしまう。

 日頃の態度ほど、恭次は大人物ではない。本来は気の弱い臆病者なのだ。

 背後から追って来る何かを感じていた。足音は全く聞こえないが、複数の人間が自分を追っていることは間違いない。

 もう何時間、走っているだろう。逃げても逃げても、どこまで走ってもその風景は変わらない。それどころか、追って来る人の気配は消え去ることなく、恭次を精神的にも圧迫していた。

 ビルとビルの間に細い路地があった。恭次はとっさに身を躍らせた。

 ――逃げるという行動を、恭次は経験したことがなかった。 いや、精神的に逃げることはある。

 不正の不動産売買やヤミ金融など、表沙汰にはできない商売を生業にしている恭次にとって、ポーカーフェイスを装って契約にこじつけ、二束三文の物件を摑ませ、後は知らんふりというのは当たり前だ。また、金融業者に追われ、自殺寸前まで追い込まれた主婦や小売業者に愛の手を差し伸べ、自分の鎖に繋ぎとめる。手枷足かせをはめられた弱者たちは、暴利を貪る恭次の前に、泣く泣くひざを屈することしかできないのだ。

 そんな「騙された人間」たちの心の叫びは、恭次の心を動かすこともあった。しかし自分の職業には自信を持てという「詭弁」の下、心を逃避させながら、これまでの世知辛い世の中を乗り越えて来たのである。

 そして恭次は、常に自分に言い聞かせていた。

 たとえ邪魔者が現れたとしても、俺には血を分けた子分たちがいる。自分の命を捨ててまでも、必ず俺を守ってくれるはずだ……。

 ビルの角を曲がった途端、恭次はその場に立ちすくんだ。目の前に康雄が立っていたからだった。

「恭次さん、もう逃げられませんよ。諦めた方がいいんじゃありませんか?」

 どこから来たのだろう。追いかけて来ている気配はあったが、その姿は見えなかったのだ。しかもここまでの道は一直線だったはずだ。この路地を反対側から回り込むには、こんな短時間でたどり着くはずがない。

「康雄、いいかげんにしろ」

 荒く息を吐きながら、恭次は言った。

「どういうことですか? 僕は恭次さんに思い出してもらいたいだけなんですよ」

 康雄は息一つ切れていない。

「充分思い出してるよ。お前のことは忘れたことがないんだ」

「僕を騙していたことも、ですか?」

「俺が何を騙したというんだ。あんなに可愛がっていたじゃないか!」

「可愛がる……。そうねえ、大事にされていると思っていましたよ。ここに来るまではね。――でも違ってた」

 康雄はそう言ってため息をついた。「恭次さんに頼まれて、ある場所に箱を持って行きましたよね。あれ、現金が入っているとばかり思っていたのに、中身はただの新聞紙。相手が暴力団とも知らず、ノコノコ喜んで行ったんですよ、僕。だって恭次さんに褒めてもらいたかったから」

 恭次は黙って聞いていることしかできなかった。

「それでどうなったか、恭次さんは知ってますよね」

 と、康雄は言った。

 もちろん知らないはずがない。すべては恭次が仕組んだことなのだから……。

 あの当時、恭次はある不動産関係の小さな会社に就職したばかりだった。高校を卒業してから定職に就かず、子分を従えて遊び歩く。そんな中途半端な恭次を拾ってくれたのが、温厚そうな初老の男だったのである。

 何も知らない恭次の仕事は、住宅や狭い土地の関係資料を顧客に配布するため、社長の命令であちこち飛び回ることがほとんどだった。

 そしてある日、土地の売買を取り付けた地主の元に、手付金として一千万円の現金を持って行くよう命じられたのである。

 この町から抜け出したい、都会に行ってもっとましな生活を送りたい、と恭次は考えていた。だから、康雄をだしに使ったのだった。現金を手中に収め、いつまでも付きまとう煩わしい男を排除できるかもしれない。短絡的な考えながら、悪運の強さを示した計画でもあった。

 新聞紙が詰められた箱を持って行った康雄は、地主の逆鱗に触れ、「鉄砲弾」と呼ばれるチンピラたちの餌食にされてしまった。もちろん不動産の社長にも触手は伸びて来たらしいが、その時は既に、恭次の姿はその町では見られなかったのである。

 康雄の死は、様子を見に行かせていた他の子分に聞いた。そして後から見に行くと言って、目印になるよう、大きな杭を立てておくよう命じていた。

「ま、待て! まさか殺されるなんて思っていなかったんだ」

「そうですかね。でもあいつら、最初っから誰かを殺すつもりだったらしいですよ。もともとあの不動産屋のオヤジが消されることになっていたらしいけど」

「――どういうことだ」

「あのオヤジ、かなり悪どい商売をしていたらしいんです。だから使いで来た恭次さんを見せしめのために痛め付けて、それからオヤジを締め上げる。そんな手はずになっていたらしい。でもあの箱を持って行ったのは恭次さんではなかった。そして詰め寄られたあのオヤジも、冷たく僕を見捨てたんです。そんな奴は知らない、ってね」

 あの社長が? 温厚そうに見えていたのに、裏の顔までは見えなかった。いや、見抜けという方が無理なのだ。まだ二十歳にもなっていなかったし、就職してからだって三月と経っていなかったのだから。

 恭次は意外といった面持ちで聞いていた。いや、自分が殺されずにすんだことは、逆に運が良かったんだ、とさえ思っていた。

「僕がどうやって殺されたか、恭次さん、もちろん知りませんよね」

 当然だ。そのとき既に、恭次は遠く離れた都会へと飛んでいたのだ。

「す……すまん。悪かった! 本当に悪かったと思ってるよ。だから――」

「だから、何です?」

 康雄の顔に鈍い笑みが浮かんだ。「今さら恭次さんを責めようなんて思っていません。さっきも言ったように、ただ思い出していただきたいだけですから」

 康雄が進み出た。

 もうだめだ。こいつは俺を殺す気なんだ。恭次はとっさに身を翻し、その場を立ち去ろうとした。

 走り出した瞬間、恭次の身体が弾かれたように飛ばされた。地面に叩きつけられて、やっと辺りを見回すことができた恭次は、また男たちに取り囲まれている自分の立場に気がついた。

 さっきと同じだ……。あの駐車場でリンチを受けたときと同じ男たちが、冷たい眼差しで恭次を見下ろしていた。

「康雄、こいつら何者だ!」

 半狂乱になりながら、恭次は怒鳴りつけるように訊いていた。

「忘れたんですか?」

 と、康雄は言った。「僕らが暴走族まがいのことをしていたとき、警察にパクられたり事故ったりした奴らですよ」

「俺と何の関係があるんだ!」

「だからすべての要因が、恭次さん、あなたなんです」

 康雄が男たちに視線を送った。「恭次さんがいなかったら、お前ら死ぬことはなかったんだよな」

 取り囲む男たちは、同調するでもなく、ただ睨みつけているだけだ。しかし憎悪の光が込められている。

「こいつらが勝手に死んだんじゃないか。俺が殺したわけじゃないだろ」

「もちろんそうです。でもね、因果応報ってやつですかね。あんたにいじめられたり痛めつけられたりしているうちに、いつか必ず復讐してやるって気持ちが膨らんで来る。そして事故や病気で死んで行った奴らが、思いを遂げられずにいたんです。だからここで待っていたんですよ、みんな」

 康雄は感情の起伏のない平淡な声で言った。

「ここはどこだ……。ここは一体どこなんだ!」

 恭次は誰ともなく叫んでいた。

「さあみんな、恭次さんが忘れていた過去を思い出させてやれ」

 康雄の言葉で、男たちが一斉に動き始めた。

 恭次の身体が感電したように震え出す。

「たのむ……やめてくれ……」

 その声は虚しく響いていたのだろう。誰も反応を示すこともなく、恭次の身体に手を伸ばして来る。

 ズルズルと引きずられる音。さっきまで散々逃げ回っていた街並みが、仰向けにされた恭次には、天地がひっくり返ったような幻の世界しかみえていない。

 どこに行く……。どこまで連れて行く気なんだ……。

 抱えられていた身体が、そこにたどり着いたとたん、投げ捨てられるように降ろされた。

 何もない殺風景な景色ではあったが、見たことがある、と恭次は感じた。いや、忘れたくても忘れられない場所というべきか。

 深い森の中を通り抜け、ぽっかりと空いた雑草の生い茂った空間である。

「ここ、知ってますよね」

 感情のない冷たい康雄の声が、遠くから聞こえたような気がした。

 もちろん知っている。知らないはずがない。毎年確認しに来ている場所なのだから。

「僕、そこに埋められているんですよ」

 康雄はそう言いながら、薄っすらと盛り上がったその場所を指差した。

 しかし「あれ」がない。目印にしているはずの杭がどこにも見当たらないのだ。

「お前はそこにいるじゃないか」

 理不尽な言葉だと分かっていても、恭次にはその言葉しか出て来ない。

「土の中の世界……。どんなに辛いか、分からないだろうな。冷たくて、孤独で、苦しくて……。恭次さんにも味わってもらわなきゃ」

 そう言いながら、脇に転がっている古くなった杭を康雄は拾って来た。

 そしていつの間に持って来たのか、その手にはチェーンだのバットだの、昔よく使っていたリンチ用の道具をぶら下げている。周りにいる男たちも、見るだけで失神してしまいそうな物騒なものを手にしていた。

 恭次は身を縮めた。逃げることもできなければ、逆らうことだってできないのだ。恭次にできる行動はそれしかなかった。

「お兄ちゃん、僕と遊んでくれよ」

 右脇に立っている男が、軽い調子で言った。

 恭次は思い出していた。その言葉は、自分が若いころ、相手を痛ぶる予告として吐いていた言葉だと。

 次の瞬間、恭次に過去を思い出させる凶器が一斉に動き出した瞬間でもあった。

 否応なく振り下ろされるチェーン。呼吸をする暇すら与えてくれない腹に打ち下ろされるバット。足下には熱く焼けた金属片が、履いている靴を溶かし始めている臭いが立ち込めていた。

 何とか逃れようとして、恭次は頭を庇いながら上半身を起こそうとする。しかし石を投げ付けられて、のけ反るようにまた倒れてしまう。

 全身を痛めつけられているのに、自然と頭と顔だけを庇っていた恭次は、両手首を摑まれて、自由を奪われた。

 地べたに両腕を押さえ付けられ、恭次の顔が剥き出しになった。

「なあ康雄……康雄さん……。勘弁して下さい……」

 その声は、まるで子供が駄々をこねているようでもある。

 恭次の鼻先に、康雄の顔があった。

「もうへばっちまったんですか? まだこれからだっていうのに」

 つまんねえな、という言葉を残して、康雄は暴行の手を止めた。そして、恭次の隣に座った。

 他の男たちが散らばって行ったと思ったら、今度はシャベルを手にしてまた集まって来る。そして小高く盛り上がった場所を一斉に掘り始めたのだ。

 何をしている……。まさか……。

 恭次の身体が小刻みに震え始めた。

「そろそろいいんじゃねえか」

 と康雄は言いながら、深く掘られた穴を覗き込んだ。恭次は腰が抜けたのか、動けずにいたはずなのに、いつの間にか穴の淵まで連れて来られ、シャベルが突き立てられた底の方を見ることになった。

 粗く削られた土の中に、白いものがいくつか見える。恭次はたまらず口にした。

「あれは何だ……」

「二十五年も眠っていた割には、結構綺麗にしていると思いませんか?」

 康雄はニヤリと笑って、「あれ、僕の骨なんですよ」

 と言った。こんな時なのに、その顔を見て恭次は笑い出しそうになった。目の前にいる本人が、自分の骨だって? 全く笑わせるんじゃないよ。

 しかし本当に笑えるほど呑気ではない。非現実的な状況にあって、恭次の精神状態は崩壊しているのだ。

「――俺をどうする気だ」

 と、恭次は呟くように言った。

「何、大したことじゃありません。僕と同じ経験をしてもらおう、ってだけですから」

 康雄は何でもないといった口調でそう言うと、「かなり苦しいと思うけど、ま、せいぜい頑張って下さい」

 そして……恭次の背中がそっと押された。

 全身を痛めつけられたうえ、精神的にも追い詰められている恭次は、呆気なくバランスを崩して穴の中に転げ落ちた。

したたか頭を強打したものの、何とか顔を持ち上げてみる。 目の前に、康雄のものであろう、頭蓋骨が転がっていた。

ヒッ、と声を上げたところに、頭上からバラバラと冷たい土が降り落ちて来た。

「ま……待ってくれ……助けてくれ!」

 懇願しながら穴の淵を見上げると、康雄と数人の男たちが薄ら嗤いを浮かべながら見下ろしている。彼らの手には、それぞれ土が盛られたシャベルが握られていた。

「恭次さん、楽しみながら少しずつ行きますよ。いいですか」

 そう言われて「はいどうぞ」と答えるわけにはいかない。かといってどうすればいいのか。穴を這い上がろうにも、ほぼ垂直にその壁は切り立っているのだ。

 恭次は両腕を高く突き上げてみる。しかし無情にも冷たい土はいつまでも降り注いでいた。

 男たちの笑い声が聞こえたような気がした。はっきり聞き取れなかったのは、その身体がほぼ頭まで埋れていたからだった。

 ドサッ、ドサッと叩きつける音がする。よく聞いていると、土を踏み固めている音らしい。ということは、もう埋め終わったのだろうか?

 しかしここで、恭次は不思議なことに気がついた。

 俺はまだ生きている……。顔まで土がかぶさってから、かなりの時間が経っているはずである。死に至らないとしても、意識はなくなって当然ではないか。

 もっともこれまでのことだって不思議なことに変わりはないのだが……。

 また音が聞こえて来た。今度はカン、カンという乾いた音だ。その振動が恭次の身体に伝わって来た。

「――この辺りで大丈夫ですよね」

 遠くから男の声が聞こえて来た。

「ああ、そのまま真っすぐ打てば、ちょうど喉辺りに刺さるんじゃないか?」

 康雄の声である。どうやら杭を打ち込んでいるらしい。

「いいんですかね、身体に傷をつけて」

「別に構わねえよ。俺だって喉を一撃にされたんだから」

 そしてまた、杭は打ち込まれ始めた。

 カン、カンという乾いた音から、ズン、ズンと鈍い音に変わって来た。振動もまた、さっきより重くなっているような気がする。康雄が打ち込んでいる杭が近くまで迫っているのだ。

 康雄の大きな掛け声が聞こえた。次の瞬間、大きな振動と共に、杭の切っ先が恭次の喉元すれすれに当たった。

 殺される……と恭次は思った。鋭く尖った杭の先が、少しだけチクリと刺さったのだ。

 痛いと感じた。痛かったからこそ、恭次は死を覚悟したのかもしれない。

「さあ、もう一発いくぞ!」

 康雄が手にしている木槌が、恭次の喉元を狙っている杭をめがけ、渾身の力を込めて振り下ろされた。

 土の中なのに、恭次の目がカッと見開いた瞬間だった……。



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