リアルワールド・フィクションサタデー
「先生。……私、本当に、今日でやめますからね」
ソファ(大)にふんぞり返ってふかふかタバコをふかす、よれよれ黒スーツ長髪もじゃもじゃ男に向かって、出来るだけはっきり、口を大きく開けて言い放つ。
もじゃもじゃ男はこっちを見もせず、足をだらっと伸ばしふんぞり返り天井をぼーっと見つめたまま、
「やめる前にコーヒーいれてってくれ」
とか言う。はあ、と私は無意識にため息を漏らし、
「角砂糖は三個でいいですか」
と、これもまた無意識に、いつもの質問をしてしまう。
「あー今日は二個でいい。ダイエット始めたんだ俺」
「角砂糖一個くらいじゃ何も変わりませんよ」
「チェンジザワールド」
全然意味がわからない。はあ、とまたため息を漏らしてしまう私。
チェンジザワールド。
とりあえずコーヒーを入れようと、キッチン(というか炊事場(というかただの流し))に向かうべく振り返り、何の気なしに部屋を見回してみる。
事務机一つに事務椅子(って言い方するのかわかんないけど)一つ、ソファ(大)一つ、ソファ(小)一つ、ソファ(大)とソファ(小)の間にガラス製テーブル一つ、以上。この部屋、殺風景のお手本みたいだなあ、としみじみ思う。ヤクザが有事のとき、ほとぼりが冷めるまで暮らす場所みたい(全然イメージだけで言ってる)。
でも。
こんな殺風景な場所でも、初めて来たときは、もう本当に恥ずかしいぐらいわくわくしてたなあ、と一年前の自分を思い出してなんだかしんみりしてしまう。そういえば、初めてここに来たのも今とおんなじような土曜の昼だった、気がする。
もう一年だ。
私が、ここ、練取探偵事務所にアルバイトとして入って、一年。
「めー子、早くコーヒー」
もじゃもじゃ男――練取さんの言葉でふっと我に帰る。我に帰ってすぐしんみりして、キッチンに向かいながらまた思い出に浸る。
この一年、私がしたことってなんだろう。蛇口をひねる。ヤカンに水を入れて蓋をする。コンロの上に乗せて点火。シンクに置いてあるマグカップとスプーンをさっと洗ってふきんで拭く。振り返る。小さな冷蔵庫の上に置いてあるインスタントコーヒーの瓶を。ああ。
一年ずっとこれしかやってないなあ、私。
探偵の、助手になるために、来たはずだったのに。
どこで何をどう間違えたんだろう。
はああ、と深い深いため息。
「あんまため息ばっかついてるとあれだぞめー子。あれになるぞー」
向こうから聞こえる練取さんの声。
「牛になるぞー」ならないだろ。はあ、とまたため息。ダメだ。すっごくもやもやする。お湯が沸くまでに、一度、はっきり聞いておこう。どしどし歩いて部屋に戻り、ソファ(大)の後ろに立ち、天井をぼけーっと眺めている練取さんの顔を上から覗き込む。
「練取さん」
「先生って呼べ」
「……練取先生」
「なんだいワトソンくん。…………ぷーっ」
口を細めて思いっきり吹き出し、一人でげらげら笑う練取(もう頭の中では呼び捨てでいいや)。
「練取先生、先生は……探偵なんですよね」
「おう俺シャーロック」
「私、先生が探偵らしいことしてるの、一回も見ないままやめることになりそうです」
はん、と鼻で笑い、練取先生(やっぱ一応先生付けとこう)はふんぞり返りから体勢を整え、まっすぐ座り、どでんと足を組み、
「おい、そこ座れ」
目の前のソファ(小)を、びっと指差した。少し戸惑いながら、でも言われたとおり、座る。短くなったタバコをぐりぐり灰皿に押し付けながらじっと私を見る練取先生。
「めー子、お前あれだな、あれだ。中坊んとき江戸川ランポーとか読んだクチだろ」
「混ざってます先生」
「江戸川コナンドイル」
「混ざってます」
「金田一春彦」
「それは辞書の人です」
「とにかく、だ。俺が言いたいのは」
よれたスーツの懐から、タバコの箱を取り出し開けて一本くわえ、
「火ぃくれ」
「ないですよ」
ちっ、と舌打ちし、ポケットをがさごそ。百円ライターを取り出してゆっくりのんびり火を点ける。
「いいか。俺が言いたいのは、お前は現実をナメてるってことだ」
「……なんですか、それ」
「大学、何年だっけお前。二年か?」
「はい、そうです」
「つーことは今年二十歳とかか。ん、もう二十歳か?」
「いえ、来月です……けど、それがどうかしましたか」
「女子大生紹介してくれ。合コン欲高まってんだ俺」
もう全然話が噛み合わない。この人、この一年、ずっとこんな調子だったなあと、呆れと感心となんとも言えない悲しさが入り混じる。と、ぴいぃぃーっ、とけたたましい音。あ、全然忘れてた。練取先生に何一つ返事せず、立ち上がり、急いでキッチンへ。火を止める。
部屋から、先生の声。
「いいかめー子、二十歳になったら現実見ろ。今日び探偵なんてのは全部が全部浮気調査員だ。お前の抱いてる探偵像は、ガキの想像の産物、作りもん、フィクションなんだよ、わかるか? フィクションしていいのは十九までだ。二十歳からは現実。これが世の中。……ま、でも現実も案外悪くねえぞー。浮気調査なんつってそんなのは表の顔、旦那が相手してくんない欲求不満のマダムらと昼間っからあれこれするこれが現実。どうよ? 実際、さっきお前が座ってたソファで俺おととい……うあー、早くコーヒーくれめー子。昨日の酒まだ残ってるわ俺」
どおりでよく喋る(そして酒くさい)と思った。はあああ、と深い深いため息が漏れる。もう今日これで最後にしようため息、と固く誓う。
インスタントコーヒーの粉を入れたカップにゆっくりゆっくりお湯を注ぎ、スプーンで軽く混ぜ、一息ついて、もう一息ついて、持っていく。ゆらゆら揺れる湯気。今日で最後のお茶くみバイト。
* * *
部屋に戻ると、人が増えていた。さっきまで私が座っていたソファ(小)に、男性が座っている。
ああそういえば、予約の電話来たとか、言ってたっけ。一時間ぐらい前。
「ああー、こいつは、助手です。めー子、ご挨拶」
先生は私を見つけるなり、さっきまでと打って変わらない、つまりさっきまでと全然同じ、だらっとした口調でそう言った。お客さんの前でもこんな風にいつも通りなのが、私が練取先生に対して『それどうだろう』と思うところその一。その二はお客さんをソファ(小)に座らせるところ。その三はもじゃじゃの髪型。などなど、頭の中でぶつぶつ言いながら、出来るだけ丁寧に男性にお辞儀をする。
男性は、私を何やらまじまじと見つめた。何かを考えるような表情で。
「……えっと、私、何か」
「ああ、いえ。なんでもありません」
ふっと柔らかな表情になり、お辞儀をする男性。パリッとしたリクルートスーツ、ノーネクタイ。腕時計とかアクセサリーの類とかを全く付けてない、こざっぱりとした風貌。歳は……結構若く見えるかも。私とあんまり変わらないんじゃないかなあ、とか思いつつ、コーヒーをテーブルの上に置く。
「それで、えー、まずお伺いしますが、当探偵事務所は何でご存知になりましたか」
消しもせず、相変わらずぷかぷかとタバコをふかし続ける先生。一年間ずっと思ってたけど改めて、本当にどうだろう、この人。
「ええと、ですね。電話帳です」ぼそぼそ喋る男性。
「電話帳。あー俺(私とか言わず俺ってお客さんに対して言っちゃうのもどうだろう)、電話帳って、写真付きで広告出してましたっけね、確か。俺の、顔写真、うん、わりとキメ顔の」
「はあ、ええ、そうです。それを見て」
「それはそれはありがとうございます。写真指名は、プラス千円になりまーす……ぷーっ」
くすくす一人で笑う先生。明らかに困惑した表情を浮かべる男性。私は、なんと言っていいかわからず、とりあえず男性にゆっくり頭を下げておいた。なんか本気で申し訳ない。
練取先生は、ひとしきり笑い終え、男性に向き直り、
「ああーっと、さて、じゃ、さっそくご用件のほうを」
「はい。あの、ですね」
「の前に。……お名前ってお伺いしてもいいですかね」
ほんの一瞬、黙り込む男性。
「ええと、それは、本名で」
「そりゃあそうです。嫌ならどうぞお引取りください」
なに言ってんだろうこの人、もう全然意味がわからない。なのに男性はムッとしたりもせず、
「ええと……押切、と言います」
「押切さん。うん。では、ご用件を」
煙が立ち上るタバコを口から離し手に持って、にっこり笑う先生。
「ええと、ですね……妻の、浮気を、調査して頂きたいなあ、と」
「うん。では単刀直入にお伺いしますが、ぶっちゃけ、誰があやしいとか、あります?」
それを調べるのがあなたの仕事でしょうよ、と言いたい気持ちをぎゅっと抑える。
押切さんは、少し俯き、それから顔を上げ、
「ええ、あります」
「おおー。それはずばり誰」
「……小学生の娘の、家庭教師の男、です」
わー、お昼のドラマで見たことあるそういうの。なんだか思わずそわそわしてしまう自分の体、を、どうにか抑制。
「なあ、つーかめー子。お前いつまで突っ立ってんだよ」
「へっ?」急に話振られてちょっと高い声が出た。
「ぼさっとしてないで、コーヒーいれてこい、お客さんの分」
えー。あくまで今テーブルの上にあるのは自分の分として譲らないんだー。わりと本気で口がぽかんと開いた。
「あ、いえ、私は大丈夫です。あの、お気になさらず」と押切さん。
「じゃあ、まあでも突っ立たれるのもアレだし、めー子、座ってろ」
先生が事務机を顎でくいくいっと指す。こく、と頷き、大人しく言われたとおり座る。もう私、助手っていうかペットかなんかみたいだ。
「あーで、なんでしたっけ。そうだ、娘さんの家庭教師と、奥さんが、デキてんじゃないかっていう」デキてるって言い方どうだろう。
「はあ、そうです。それで……ですね。実は、ちょっとお願いしたいことが、ありまして」
押切さんが、声のトーンをぐっと落とす。
「家を、調べて頂きたいのです」
「家? ……押切さんの、ご自宅?」
「はい。先生に、上がって頂いて」
ほー、と息だか声だかわからない音を漏らしながら、先生は足を組み直し、タバコを灰皿に押し付けて消した。
「えーでも、いいんですか? 上がっちゃって。ってまー俺としては、楽しそうなんで全然やりたいですが。家宅捜索。へへ、いいじゃないですか」
「ただですね、一つ、条件がありまして」
「おー、どうぞなんなりと」
「お一人で、やって頂きたいのです」
押切さんは、なんだか妙に鋭い目をしていた。
「……もうちょっと詳しく、お話しして頂けますかね」
いつになく慎重な口ぶりで言うと、先生は取り出した新しいタバコをゆっくり、口にくわえた。
* * *
それから。
押切さんは、よく喋った。――少し、気持ち悪いぐらいに。
私はそれを聞きながら、助手として、そう、一応、助手として、メモをとっていた。まあ、他にやることがなかった、というのが一番の理由だけど。
内容をまとめるとこんな感じ。
一つ、家には先生一人で行って欲しい。
一つ、鍵は植木鉢の下に置いてあるのでそれを使って欲しい。
一つ、家に入る前に必ず自分の携帯に電話を入れて欲しい。
一つ、玄関入ってすぐの寝室を、重点的に調べて欲しい。
一つ、娘が六時に帰宅するのでそれまでに済ませて欲しい。
……以上。
「どうしてもはずせない仕事がありまして、私はご一緒出来ないのです」
押切さんは申し訳なさそうに頭を下げた。先生は、うーん、ともじゃもじゃの髪の毛を掻き、
「ではご主人のご都合のいいときでもいいですよ、明日とかどーです」
「ん、ああ、いえ、今日でないと困るんです。……困る、と言いますか、その、妻がですね、外出しているんです、今日は夜まで。そんなこと、めったにないもので、その」
「うん。なるほどなるほど。じゃあ質問その二。なんで家に入る前に電話をしなきゃいけないんでしょうか。そして質問その三。植木鉢の下の鍵はご家族でお使いになってるものですか?」
先生は何が面白いのか、ずっとにやにや笑っている。私はなんだか目の前の光景の意味が掴めず、ただぼんやりと見続けてしまう。
「ええと、ですね……電話は、迷わず家に着けたかどうか、確認の意味です。鍵は、ええ、皆で使っています。うっかり鍵を忘れてしまったとき用で」
押切さんはまっすぐ先生を見つめていた。
「はいはいなるほど、よーし、では最後、質問その四。重点的に調べて欲しいのは寝室、でしたっけ」
「ええ……こんなことを言うのはなんですが、やはり、何かそういうことがあるとしたら寝室」
「ええ、ええ、ええ、それはいいんです全然。そこじゃなくてですね、俺が訊きたいのは……逆に、調べて欲しくないのって、どこです?」
楽しそうに、にこにこ笑う先生。なに言ってるんだろうこの人。いや――この笑顔と言葉には何か意味がある、ような気がする。何か。わからないけど、何か。
対する押切さんは、相当、怪訝な表情をしていた。
「調べて欲しくない場所……そんなものは、別に、ありませんが」
「ほんとですか? なら旦那さんの部屋とかがんがん調べちゃいますよ? なんか見つかったら困るものとか、あんじゃないですか?」
「……特には」
「へえ。じゃあ寝室すっ飛ばして、家入ったら真っ先に旦那さんの部屋行っちゃおうかなあー、へへ」
観察でもするように、押切さんをじっと見つめながら喋る先生。
「ま、てのは嘘で、ちゃんと寝室をまずじっくり調べますよ。うん。えーと、めー子、今何時」
「えっ、あ、えーっと」急に話振られて一オクターブ高い声出た。腕時計を見る。「三時、です」
「おー、じゃ急がないと。娘さん、六時なんですもんね、学校終わって帰ってくるの」
「ええ、そうです」
「学校、終わって」同じことを繰り返す練取先生。
「ええ、そうです」同じことを繰り返す押切さん。
「めー子、今日何曜だっけ」
「えっ、あ、えっと」また急に話振られてオクターブ上がった。腕時計を見る、けど腕時計にその情報はない。あ。
「土曜、です。土曜」
私がここに初めて来たのも今日みたいな土曜だった、とか考えてたんだ。だから、今日は土曜。あれ?
「あれー? 土曜って学校ありますっけ? 押切さん」
私の思ったことを、そっくりそのまま先生が言った。
押切さんは、少し黙り、そして、
「私立、なんで、土曜も、はい」
と、小さく返した。
「なるほどなるほどなるほどねー。うんうん。よし、では行きましょう。って俺一人で行くんでしたね」
やたら元気に言いながら先生がすっと立ち上がり、それに続くように押切さんがゆっくりと立ち上がった。
それから二人は、何駅からどうだとかなんとかマンションのどこだとか、おそらく住所の話をしていた。
それをぼーっと見つめながら私は、今日探偵の助手としてやったことはコーヒーいれて時間と曜日を答えただけかあ、と助手最後の日だっていうのにあんまりな功績を振り返りながら、ため息をつきそうになり、ぐっとこらえて引っ込めた。二十歳からの現実。十九までのフィクション。先生が言っていたことが、わけもなく頭の中で反芻される。
「めー子さん、でしたっけ」
「えっ、あ、はいっ」急に話振られてオクターブ上がることに関して、他の追随を許さなくなってきたと思う、自分。
「あの、このあと私、駅のほうに向かいたいんですが……なにぶんこの辺の地理に疎いもので、その、もしよければ、ちょっと外まで一緒に来て頂いて、道、教えて貰っていいでしょうか……?」
困ったような、申し訳なさそうな微笑みを浮かべる押切さん。
私はというと、もう、これは私の助手人生の最後に助手の神様(小林少年)から与えられたチャンスだと思い、いや別にそんな大したことじゃないんだけど、でもただ単にお客さんの助けになれることが嬉しくて、急いで押切さんの元へ走り寄り、
「はい、もちろ」「行くな」
はっきりと、でも小さな声で。
低く、鋭く、練取先生が囁いた。
手でそっと、私が先に行くのを制しながら。
「え、なんでですか」「なんででもだ」
押切さんに見えないように、聞こえないように、私だけに向けられた表情と言葉。
私にはその意味が理解できなかった。
でもそれは一瞬で、先生はすぐにいつもの、だらっとした調子に戻り、
「あーすみません押切さん、こいつちょっと今からここで仕事があるんです。ので、交番、ここ出て、まっすぐちょっと行ったとこにあるんで、もしわかんなかったらそこで訊いてください」
一瞬。
時間にしてそれは、おそらくゼロコンマ何秒。
押切さんの表情に、私は鬼を見た。
眉間に皺を寄せ、眉をしかめ、私と先生を鋭く睨みつけ、怒る、鬼。……そしてすぐ、彼は普段どおりの温和な表情に戻った。
それから押切さんは、よろしくお願いします、のようなことを笑顔で言って出て行った。先生は、こちらこそー、みたいなことを笑顔で言って見送った。一瞬現れた鬼を確かに見てしまった私は、二人が笑顔で表面的な挨拶をしているその間、声も出せず、動くことも出来ないでいた。
* * *
「指輪してなかっただろあいつ」
ソファ(大)に寝っ転がり、タバコをふかしながら先生が言った。
「指輪、ですか。結婚指輪?」
ソファ(小)に座り、前傾姿勢で先生を見つめる私。
「浮気調査の依頼しに来る男っつーのは、絶対みんな、指輪してんだよ。女はな、してないこともあるけど。でも男は絶対。百パー。そんだけ奥さんのこと愛してるからこそ、独占したいからこそ、自分のものでいて欲しいからこそ、わざわざ浮気調査してもらいに来るわけだから」
「はあ、そういうもの、ですか」
「そ。だから俺は、最初見たときから、こいつ怪しいなーって思ってたわけ」
こくこく、と自然に頷きながら聞いてしまった。
「あとあれだな、ポイントは、なんでわざわざウチ選んだのかってこと」
「それは……電話帳で、写真見てって」
先生は、ふはあーと大きく煙を吐き出した。
「男が必要だったんだよ。それもちょーど俺みたいなさ、そこそこかっこよくて、奥様受けしそうで、だらーっとしてる風貌の」
自分でもだらーっとしてるって自覚あったんだ、と少し驚いた。
で、こっからはもっと推論だけど、と前置きして、先生はゆっくり話し始めた。
「あいつが、奥さんと浮気してる家庭教師本人だと思うよ、俺は。小学生の娘がいる旦那には見えなかったしな、うん。今日、いつものよーに浮気して乳繰り合ってる最中に、理由はわかんねえけどさ、揉めて、殺しちゃったんだろ、奥さんを。……もしかしたら娘も死んでると思うけど。で、どうしようか困って困って困り抜いて、誰かに罪をなすりつけようと、考えた。まあまあ、そういう流れはありうるわな。うん」
よ、と勢いをつけて起き上がり、先生はタバコを灰皿にぽいっと投げ入れた。
「めー子、なんであいつ、俺を家に上げて調査させようとしたと思う」
「え、えっと、それは……うーん」
ふん、と鼻で笑い、先生は私の頭を軽くはたいた。
「読んでたんだろ、金田一蓮十郎」
「それはハレのちグゥの人です」
「俺に罪着せようとしたに決まってんだろ。俺が調査してる間に、警察かなんか呼ぶ気だったんだよどーせ」
あ、とそこで思い出し、思い出して立ち上がり、事務机の上に置いておいたメモを取ってきてまたソファに座る。
「先生、これ」
「ん」
「押切さんが言ってた条件です。一つ、家には先生一人で行って欲しい」
「そりゃそうだろ、俺に罪なすりつけるための大前提の大前提」
「じゃあ先生、これは。一つ、家に入る前に必ず携帯に電話を入れて欲しい」
「あーそれそれ、それ変だなーって思ったんだ俺。うん。だからその電話合図に、ちょっとしてから警察呼ぶつもりだったんじゃねーのかねえ、わからんけど」
「一つ、鍵は植木鉢の下に置いてあるのでそれを使って欲しい。これはどうですか?」
ふはあと大きなあくびをしながら、先生が首をぽきぽき鳴らした。
「そうだな、死んだ奥さんから鍵奪って植木鉢の下に置いといて、あーもちろん指紋とか付かないように気いつけてさ、で、俺だけその鍵触って指紋べったり、みたいなトラップ? かねえ、うーん」
「一つ、玄関入ってすぐの寝室を、重点的に調べて欲しい。これは?」
「たとえば俺が家上がってすぐ死体見つけちゃって警察に電話かけたらあいつの計画ドボンだろ。だから、寝室を重点的に、とかそれらしいこと言っといて、あいつが呼んだ警察が到着するまでの時間稼ぎ、みたいな。死体は……俺の推理では、旦那の部屋だろうな間違いなく。浮気調査で唯一見る必要がない部屋だから、そこに隠しときゃまずバレない、と。うんうん」足を大きく伸ばし、んーと先生は伸びをして、「ま、全部憶測の憶測、推論の推論だから、真実はどうだかわかんないけどな」
はあああ、と私の口から大きなため息が漏れた。
呆れじゃなくて、感動の。
「先生」
「んだよ」
「探偵っぽいじゃないですか」
ぱし、と先生が私の頭をはたく。
「ぽい、じゃなくて探偵だよ俺は」
それからしばらく、二人でくすくす笑い合った。
* * *
「先生、そういえば」
「ん」
もう五時すぎ。
誰も手をつけないまま、すっかり冷め切ってしまったコーヒーを、ぼんやり見ながら私は訊く。
「なんで、私が外に出るの止めたんですか」
「出てたら死んでたかも知れないからだよ、お前が」
さらっとした先生のその言葉。
現実味のないものに思えたけど、すぐに脳裏に、押切さんの、一瞬見えたあの『鬼』の表情が浮かんだ。
「ほら、あいつ、ここ来て最初、お前のこと見て、変な顔しなかったか」
あ。ゆっくりと思い出す。確かに押切さんは、私を何やらまじまじ見つめて、何か考えるような表情をしていた、気がする。
「想定外だったんだろ。電話帳の広告には、助手がいるなんて書いてなかったし。あいつの計画には、目撃者がいちゃ困るわけだし。だったらお前をまず殺しとこうみたいな、わかんないけどな、殺人の後ってテンションがハイになってると思うわけだ。うん。だから、冷静な判断を欠いちまうっていうか、邪魔者は殺しちゃえみたいなさ」と、マグカップを取りコーヒーを一口飲んで「うえっ! おいめー子、これ、角砂糖何個入れた」
あ。
「ゼロです」
はあああ、と、私みたいに、先生が深い深いため息をついた。
「仕事最後の日に、コーヒー一つ満足に入れらんないのかお前」
「あの、それ、なんですけど」
すう、と一回深呼吸して、練取先生をまっすぐ見つめる。
「私、やめるの、やめます」
ふん、と鼻で笑いながら、カップを置き、先生がにやにや私を見る。
「どういう風の吹き回しだ、おい」
「来月……二十歳になって、現実に踏み込むまで私、フィクションを思いっきり生きてみようと思ったんです。ここで」
今、もしかしたらここにあるものは、フィクションかも知れないし、現実かも知れない。一年前、ここに初めて来たあの土曜日みたいに、私は心底わくわくしていた。
先生は、懐から、タバコの箱を取り出し開けて一本くわえ、
「チェンジザワールド」
と言って笑った。
「ハードボイルドな探偵もの」というお題を頂き、書きました。が、ハードボイルドが欠落しました。