1.さすらう弦楽師
するり、するり、と、静かな音が人の隙間を抜けていく。
落ち着いたリュートの音色が、石畳の敷かれた広場を満たしていた。耳に心地良い調べを奏でているのは一人の若者。円の形をした広場の縁に胡坐をかき、彼は手にした楽器を爪弾いていた。
夕暮れが近くなり、往来の減ったこの場所には、もう数えるほどの人影しか見えない。少し前までの賑やかさなど、その面影すらなかった。本来ならば主張して然るべき空間にあって、あくまで控えめに、まばらな人通りに染み渡るように、リュートの音は響いている。
広場を横切る人々も、彼とその音色を風景の一部といった風に扱っていた。時折りはちらと視線を送る者もいたが、さりとて立ち止まることはない。
そうして暫く経ち。市場の閉まる時間が迫ると、人の姿もほとんど無くなっていった。
視界に映る人間がもはや一人もいなくなると、彼はふっと演奏を止めた。持っていたリュートに布を巻き、傍らに置いてある木製の入れ物に仕舞う。
立ち上がった若者は、体の下に敷いていた外套の汚れを払って身に着けると、楽器の入った入れ物を持って、彼が寝泊りしている宿へと向かった。
ラキという名のその若者は、この町の住人ではない。町や村を転々とする、いわゆる旅人だった。
木の板を鉄で僅かばかり補強した、無骨な扉を開ける。
ラキの姿を認めた宿の主人が、にっこり笑っておかえりなさいと挨拶をしてきた。もう5ディラもこの宿に泊まっているので、向こうにも顔を覚えられている。
「新曲とやらは出来たのかい?」
預けていた部屋の鍵を差し出しながら、宿の主人はラキに尋ねた。
「いやぁ、さっぱりダメですね。こう、刺激になるようなものでもあればいいんですが」
ラキは苦笑いと共に鍵を受け取る。
「ふぅむ、刺激ねぇ。この町にゃあんまり派手なものはないから、お客さんみたいな若い人には退屈かもしれないね。強いて言うなら、珍しいお菓子があるくらいかな」
「町の特産だっていうあれですか?」
「そうそう、お客さんも一度食べてみるといいよ。本当に美味しいからさ」
「ええ、そうですね。そうしてみます」
「ああ、それがいい。食事は後で部屋まで持っていくよ」
「ありがとうございます」
宿の主人との世間話を済ませたラキは、奥にある石の階段を上り、借りている部屋へ戻った。話している内に日が暮れたのか、開け放していた窓の外には薄闇が見えている。石造りの壁は、部屋の暗さと相まって、とても冷たそうである。
とは言うものの、この地方は気候が穏やかで、夜になってもあまり冷え込まないので、薄い布一枚で事足りる。それは、着の身着のままのラキには非常にありがたいことだった。
ランプに火を入れて部屋を明るくしたラキは、上着を脱いで椅子にかけた。リュートを机の上に置き、ベッドに浅く腰掛ける。
「ふぅ……」
旅人であり、リュート弾きであるラキには、決めていることがあった。
滞在した町ごとに最低でも一つ、曲を作ること。そして曲が出来るまでは次の町へは行かないこと。
これといってそうする理由があるわけではない。ただ、旅を続ける内に、自然とそうするのがいいと思うようになった。今のところ、この決め事を破ったことはない。
「はぁ……」
部屋に戻って二度目のため息。嘆息の原因は先ほどの決め事が原因だ。
全くといっていいほど曲が出来ていないののである。とっかかりさえ掴めない。
もうあらかた町を見て回ったというのに、何も思い浮かばずにいる。まとまらないというのならまだしも、何も出てこないというのは初めての経験なだけに、ラキはずいぶんと頭を悩ませているのだった。
「仕方が無い。明日はもう一度、町を回ってみようか」
とりあえずの結論を出した彼はベッドに寝転がり、夕食が来るのを待つことにした。
次の日、路銀稼ぎもそこそこに、ラキは町を歩き回った。それこそ隅々まで。その甲斐があって、おやっ?と思うような、ラキが興味を引かれる景色に出会ったのは、昼を過ぎてしばらくのことだった。
その光景を簡単に説明するならば、草っぱらに何本かの剣が突き立てられているというもの。それも、石で出来た剣が、だ。
町の外れも外れ、住人も滅多に立ち寄らないような辺鄙な場所のはずのそこには、意外なことに先客がいた。
女性だ。後ろ姿を見るに、二十に届くか届かないかといったところの、至って普通の少女のようである。地味な色合いのスカートと、白いブラウスという服装は、その辺にいる町娘の格好と大差ない。
赤茶の肩より少し長い髪を真っ直ぐに下ろした少女は、大きな石に腰掛けて、じっと立ち並ぶ剣を眺めていた。
近付くと、彼女はラキの気配に気付いて振り返る。人が来ると思っていなかったのだろう、ぱっちりした目がちょっと大きくなった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
ラキの挨拶に、驚きのためかやや返事は遅れたものの、少女はしっかりとした口調で返してくれた。
特に言葉を続けるでもなく、彼女は視線を前に戻す。その仕草につられる様に、ラキも目の前の景色に向き合う。
石の剣はよく見るとそれぞれ形が違った。ずいぶんと古いものらしく、汚れや苔も目立っていて、風化もかなり進んでいるようだ。比較する物が周囲にないせいか、ずっと眺めていると、なんだかここだけ時の流れに取り残されているような、そんな不思議な気分になる。
「詩人さんかい?」
少女がやにわに口を開いた。年頃の女性とは思えない男っぽい言い方だったが、やや低くかすれた声によく似合う口調だ。
「いえいえ。私は詩はからっきしで。ただの旅の楽師といったところです」
「へえ、そうかい。その、手に持ってる楽器は?」
「これはほら、この通り。リュートですよ」
楽器の収まった入れ物を指差して問う彼女に、ラキはリュートを取り出して見せた。
「ところで、ここの景色はいささか変わってますね。一体どういった場所なんです?」
「ここは墓だよ」
「墓、ですか?」
「そう、英雄の墓さ」
予想外の返答に、ラキは少しばかり面食らう。確かに、墓石の代わりに剣が立っていると考えれば、納得できないこともない。
しかし、彼女は英雄の墓と言った。その言葉が本当なら、もっと丁重に扱われて然るべきだと思う。見れば、眠っている者の名前さえ彫られていない。
「百年以上昔、この町が魔獣の群れに襲われたとき、町を守って散った戦士たちの墓なんだってさ。あれは、その戦士たちの剣を象った石だそうだよ。私のじいちゃんから聞いた話だけど」
「そんな話が……。私はこの町に5ディラは滞在していますが、初めて聞きましたよ」
「じいちゃんはひいじいちゃんから聞いたって言ってたけどね。こんな話、もう覚えてる人なんてほとんどいないだろうさ」
そう言って、彼女は耳にかかる髪をかきあげた。風化しつつある剣を見る少女の目は、どことなく優しい。
「好きなんですか、この場所が?」
「そうだね。町の人は見向きもしないだろうけど、時間の流れがゆっくりになったみたいな、そういう感覚に浸れるから」
「……そうですね」
少女の言っていることは分かる。先ほどから、ラキも同じような感慨を抱いていた。
名も知らぬ英雄たち。忘れ去られ、ただ朽ちるのを待つだけの存在。
そういったものを前にして、不意に、ラキの胸の内でぐるぐると渦巻くものが生まれる。湧き上がってくる、言葉に表わしがたい情動に従って、ラキはリュートを構えた。
少女は唐突に響くリュートの音を聴き、ちらりとラキの顔を見上げたが、何かを言うことはせず、黙って耳を傾ける。
ラキは何も考えず、浮かんでくる旋律をただひたすら繋いでいった。
淡々とした導入から始まって、中盤を力強く盛り上げ、徐々に抑えていく。最後は途切れそうなほど弱々しい音を連ね、寂しげに消える。
余韻が空気を僅かに震わし、静寂が暫し空間を満たした。
「良いね。なんて曲だい?」
少女の質問に、ラキは詰めていた息を静かに吐き出してから答える。
「名前はまだありませんよ。たった今出来た曲ですから」
「そうなのかい?」
「ええ、そうですとも。……ありがとうございます」
少女は怪訝な顔をした。礼を言われるとは思っていなかったのだろう。
「貴方のおかげで新しい曲が思い浮かびました」
「そうかい。それは何より」
真面目な表情でそんなことを言うラキに、少女は頬を緩め、柔らかい声で返した。そして、腰に括り付けていた袋から何かを取り出し、ラキに差し出す。
「それは?」
「この町の銘菓さ。良い曲を聴かせてくれたお礼。どうぞ」
「これはどうも」
ありがたく頂戴したラキは一口、平べったい菓子を口に入れた。さっくりした食感の後に、果物の爽やかな甘みが広がる。
「美味しい」
「だろう?」
思わず呟くと、少女はちょっと得意げに笑った。
「旅の楽師と言っていたね? いつまで町にいるんだい?」
「そうですね……。明日の朝には発とうかと」
菓子を食べ終えたラキは、リュートを仕舞いつつ言った。曲が出来た以上、この町に長居する理由はもうない。
「そうかい? もう少しゆっくりしていったらいいのに」
残念といった風に、少女の表情が曇る。ラキはいたずらっぽい笑みを浮かべ、彼女に言い聞かせるように呟いた。
「私は旅人ですから。人の心に僅かな隙間を作るくらいが、丁度いいんですよ」
「心に……?」
ラキの言った意味が分からないのか、少女は首を傾げる。ラキは自分の言葉の意味を説明しようとはしなかった。
「そろそろ私は行くとします。なかなか楽しかったですよ」
「私もだよ」
「それは光栄です。それでは、さようならお嬢さん」
最後に少女と笑みを交わしたラキは町へと戻り、翌朝、言葉通りに町を後にしたのだった。
ラキが町を出た日の午後、少女はラキがリュートを演奏していた広場を通りかかった。
ふと立ち止まり、少女は思う。そういえば、あの旅人の最後の台詞、心に隙間を作るとはどういう意味なのだろう。
そんな考えが頭を過ぎったとき、
「ママ、あの楽器の人いなくなっちゃったの?」
「あらほんと。いつの間にかいなくなっちゃったのねぇ」
通りかかった親子の会話が聞こえた。母親の少しだけ残念そうな声が遠ざかっていく。
親子を見送った少女は、まあいいさと疑問をそのままに、また歩き出した。
歩きながら、彼女は小さな声で口ずさむ。詩もなく、名前さえ知らないその曲を。
1ディラ=1日




