「俺を愛しているんじゃなかったのか」と言われましたので、その件につきましては謹んでお詫び申し上げます
押せ押せな女の子からの好意を無下に扱っていたらある日突然その子が自分の元から離れていってどん底まで落ち込む男の話が好きなので書きました。よろしくお願いします。
「──俺を、愛しているんじゃなかったのか?」
底のない沼を思わせるようなレオンハルトの黒い眼差しが、フィアの身体中に鋭く突き刺さる。
そんな彼の光のない瞳の前で、フィアは大地に頭を突き刺すような勢いでもって、ほとんど直角に腰を折り曲げた。
「その件につきましては! 謹んでお詫び申し上げます──!!」
迷いのない謝罪の声は、雲一つない広大な空へと高らかに響き渡った。
そうして頭を下げるフィアに、レオンハルトは過呼吸を起こしたように喉を震わせ、唇の端を引き攣らせたのだった。
× × ×
天暦X年。
カイデー王国の東端に位置するカイデー山の頂点には、邪竜メッチャワルイドラゴンが巣窟を構え、時折人里へと舞い降りては気儘に街を蹂躙し、残虐に人々を喰らっていた。
そんな邪竜メッチャワルイドラゴンを討つべく、カイデ―王国の国王は選りすぐりの四人の勇士たちを召集した。
勇者、レオンハルト。
タンク、エイオス。
弓兵、リゼル。
そして聖女、フィア。
集められた四人は二年にも及ぶ過酷な旅を経て、遂に邪竜メッチャワルイドラゴンの討伐に成功したのだった──!
「きゃああーっ! 流石ですーっ! カッコいいですレオンさまぁーっ!!」
「ええい鬱陶しい! 擦り寄るな! ベタベタひっつくな!!」
死力を尽くした激戦の末、遂にレオンハルトは邪竜の首を刎ねた。
そうして横たわった邪竜の前で、フィアは一目散に彼へと飛びついた。
そんなフィアを引き剥がそうと、レオンハルトは躍起になってフィアの身体を押しのける。
「勝利の余韻を台無しにするんじゃない! 馬鹿女!」
「だってだって! もうあんまりにもレオンさまが凛々しくて、勇ましくて、とにかく最ッ高に素敵だったんですもん~!」
フィアは頬を桜色に染め、祈るように手を組み、レオンハルトの端正な顔を見上げた。
死闘の直後にしては些か気の抜けた会話だが、仲間たちは「またいつものが始まったか」という顔をして、慣れた様子で肩を竦めている。
「相変わらずブレないなあ、あの二人は」
「全くよ。やっと念願を果たしたってのに、これじゃ全然いつもと変わんないわ」
エイオス、リゼルはそれぞれため息をつき、しかし大仕事を終えて尚何一つ変化のない彼らを見て、どこか安堵した様子で頬を緩めてもいた。
フィア・アルハインは、レオンハルトを愛している。
これは自他共に認める公然の事実であり、夜空には星が数多く浮かんでいるのと同じくらい当たり前のことだった。
初めて会った日から、フィアは彼への愛を隠そうともしなかった。顔を合わせた瞬間に、フィアは彼に向かって声高らかに叫んだほどだ。
『あなたのことが!! 好き!!!!』
『──』
その瞬間のレオンハルトの顔はと言うと、それはもう凄まじいものだった。
例えるならば、ありったけの不愉快と嫌悪と拒絶を鍋でじっくり数十年煮込んだものを彼の顔の形をした器に流し込んで固めたような、そんな表情だった。
レオンハルトは、他人から好意を寄せられることに辟易していたのだ。
艶やかな黒い髪。凛々しい太眉に甘やかな垂れ目。鍛えられた長身には一切の隙がない。
すれ違う誰もが振り向くような美貌を持つ彼は、物心ついた時から女性に囲まれ、愛を求められてきた。しかし彼は色恋よりも剣の鍛錬を好む性質であり、向けられる好意は彼にとって煩わしいものでしかなかったのだ。
そんな彼からすれば、フィアの存在はうんざりするほど疎ましいものだった。初対面の時、「これから俺はこんな女と四六時中過ごさねばならないのか」という絶望が、彼の顔一面にありありと映し出されていたことを、フィアはよく覚えている。
旅の道中、フィアは彼に散々突き放された。
鬱陶しい。傍に寄るな。俺の視界に入るな。話しかけてくるな。迷惑だから失せろ。等々。
罵倒と拒絶のレパートリーは多岐に渡り、それだけで一冊の辞書が作れるほどだった。普通の乙女であれば、五秒で心が折れるに違いない。
けれどフィアは全くめげなかった。
どれだけ冷たい言葉を吐かれようともケロッとした様子で微笑み、酷い拒絶を受けようとも諦めずに傍に寄り、どんな罵倒をされようとも温かいご飯を作って献身的に振る舞った。リゼルからは「あれだけ冷たくされてるのに、よくそこまで尽くせるわね」と呆れられたものだ。
しかしフィアにとっては、そうすることが当たり前だった。何故ならフィアは、彼のことを愛していたからだ。
「ちょっとレオン。もう少しフィアさんに優しくしてやれよ。お前だって、今まで彼女に散々お世話になってきただろう?」
相も変わらず冷淡なレオンハルトの態度が流石に目に余ったのか、エイオスが彼をたしなめる。レオンハルトは「ぐっ」と呻いて、目を逸らした。
「……確かに、コイツの力が役に立たなかったこともない、が。だが、俺以外には微塵も効果がないのはどう考えてもおかしかっただろ……!?」
「もう、レオンさまったら、何度も言ったじゃないですか。私の祈りは、愛する人にしか効かないんですってば!」
フィアは胸を押さえながら言った。
フィアの役割は後方支援。聖女の名に相応しく、仲間に様々な力を授けることができる。
が、旅の最中でその恩恵を受けたのはレオンハルト一人だけである。レオンハルトとしては、仲間全員に支援を与えてほしかったのだが、フィアは「それはできない」と頑なに拒否した。理由は「レオンさまだけを愛しているから」と。
実際与えられる恩恵は非常に強力なものであり、邪竜討伐においてフィアの存在は欠かせないものだった。
だがそれはそうとして、レオンハルトは釈然としなかった。
「いや、それ以外にもさ。食事の用意とか、身の回りの世話とか、色々とやってくれただろう?」
「……別に、俺は頼んでない……」
年長者であるエイオスに諭され、レオンハルトの語気が段々と弱くなっていく。
いつもは強く頼もしいが、実は繊細な所もあるレオンハルト。そんな彼の姿にキュンときたフィアは、笑顔で彼の前へと飛び出た。
「そうそう、いいんですよエイオス様! レオンさまの言う通り、私が勝手にやっているだけですので!」
「でもねえ、フィアさん……」
「レオンさまに尽くすことこそが私の幸せ! レオンさまを愛することこそが、今の私の生きる意味!」
別にどれだけ冷たくあしらわれても良いのだ。
彼がどれほど辛辣でも関係ない。彼に愛されることがなくとも、彼を愛していることに変わりはない。
そんなことを伝えながら、フィアは彼の頬についた汚れを拭った。すると彼は深いため息をつき、フィアをじっとりと睨みつける。
「……重い」
「えへへ。すみません」
「……お前のその態度には、うんざりする」
「ごめんなさい。でも好きです」
「……旅が終わって、お前から解放されると思うと、清々するな」
レオンハルトはいつものように悪態をついた。
その言葉に、フィアは目を丸くする。目を見開いて固まったフィアに、レオンハルトは少し慌てた様子で目を泳がせた。
「な、なんだ、その顔。まさか、今更傷ついたとでも?」
「……あ。いえ。そういうわけじゃ、ないんですけど」
フィアがそう答えると、彼は少し安堵したように息を吐いた。
そして「それなら何だ」と呟いて、唇を尖らせ睨みつけてくる。フィアは頬を掻きながら微笑み、目を伏せて言った。
「旅が終わるだなんて、なんだか実感が湧かなくて」
彼と出会ってから、もう二年が経ったのだ。
短かったような気もするし、長かったような気もする。こんな日々がずっと続いていくのではと、そう思っていた自分も居た。
しかし目的を遂げたのだ。フィアの仕事はこれで終わりだ。長旅の終幕は、思っていたよりも少し、呆気ない。
「レオンさま」
フィアは彼を見上げた。
そして手を叩き、笑顔を浮かべ、「おめでとうございます」と心からの祝福を述べる。
「長らくの間、お疲れさまでした」
「──」
「エイオス様も。リゼル様も。皆様、ありがとうございました」
フィアは彼らに偽りのない感謝を伝えた。
珍しいことに、その時ばかりはレオンハルトも悪態をつかず、ただ目を逸らして「……ふん」と鼻を鳴らすのみだった。
× × ×
邪竜メッチャワルイドラゴン討伐の偉業は、国を挙げて称えられた。
フィアら四人は王城に招かれ、国王からその功績を称賛され、様々な褒美が与えられた。
華々しい凱旋パーティが行われ、彼らは民衆からの歓声を花吹雪と共に浴びたのだった。
そんなパーティも終わり、疲労が滲む中で、フィアはキョロキョロと辺りを見回していた。一体レオンハルトはどこに居るのだろうか。
すると門をくぐった所で、件のレオンハルトにばったりと遭遇した。
彼は石壁にもたれかかり、まるで誰かを待っているようだった。
「レオン様! こんな所で会うなんて奇遇ですね!」
「……奇遇じゃない」
「え?」
「どうせ、お前は俺を探しているんだろうと思っていただけだ」
なんと、彼が待っていたのは自分だったらしい。フィアは驚き、目を瞬かせた。
レオンハルトは眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうな口調で言う。
「お前、俺に話があるんだろう」
「えっ! すごい……! どうして分かったんですか!?」
「二年も付き纏われてたんだ。お前の考えていることなんて嫌でも分かる」
フィアは両手で口を覆った。彼にはこちらの考えが筒抜けらしい。それは、話が早くて助かる。
「では、どこか二人きりになれる場所へ行きませんか?」
「はあ……」
レオンハルトはため息をつき、「全く仕方がない」と言わんばかりにのろのろとフィアの後ろをついていく。
フィアはしばらく彼と共に歩き、人の居ない川沿いの道へと辿り着いた。足元一面を黄色い花が覆っていて、それが穏やかな風に吹かれて揺れている。
「旅が終わったら、あなたに言わなきゃいけないことがあると、ずっと考えていたんです」
フィアがそう呟くと、そこで唐突にレオンハルトが「待て」と言う。
彼は顔の下半分を手で隠し、自分の足の間で何度も視線を動かして、それから深く息を吸い込んだ。
「……俺が、先に、言う」
「レオン様が?」
問いかけると、彼は渋々という感じで頷いた。
「……旅が終わってから、考えていた。確かに俺は、お前に助けられたことがない、こともない。食事も、まあ、悪くはない味だった」
「ええと、ありがとうございます?」
「だから、つまり……。……どうせお前は、俺が何を言っても聞かないんだろうから。仕方なく、諦めてやることにした」
「ええと……?」
「……だから! おっ、お前の言葉を! 受け入れてやってもいいと言っているんだ!」
レオンハルトがそう叫ぶ。
フィアは目を見張り、そして手を組んで「なんて寛大なお方……!」と呟いた。
よかった、これで心置きなく彼に打ち明けることができる。
フィアは胸を撫で下ろし、彼を潤んだ瞳で見つめた。
「レオン様……」
「……ああ」
フィアは目を閉じ、そして、凄まじい勢いで頭を下げた。
「本当にッ! 申し訳ございませんでしたぁーーッ!!」
「……、……はっ?」
信じられない勢いで繰り出された突然の謝罪に、レオンハルトは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まる。
そんな彼に向け、フィアは深く頭を下げたまま、心の底からの謝罪を述べた。
「二年もの間! 嫌がるあなたに付き纏い! 執拗に距離を詰めたこと! 心よりお詫び申し上げます!!」
「はッ? い、いや、今更そんなこと……」
「しかし、これには深い事情があるのです!」
「じ、事情っ?」
フィアは己の胸に手を当て、レオンハルトへと詰め寄った。
そう。フィアには止むに止まれぬ事情があったのだ。
「私の特異体質──『愛と献身』は、全ステータスの上昇に加えて治癒力増強、疲労回復、肩こり・腰痛・神経痛・筋肉痛の改善、むくみ解消に睡眠の質向上などなど! 私が愛する者に様々な恩恵をもたらします!」
それこそが、フィアが生まれながらに授かった特異な能力であった。
この世界には時折、特殊な才能を持った人間が生まれることがある。普通なら起こりえるはずのない、人智の及ばぬ奇跡を起こせるような異能を持つ者が。
フィアもそのうちの一人で、非常に強力なサポート型の能力者である。しかし同時に、これはあまりに使い勝手の悪い力でもあった。
「旅の中でもそれとなくお話しましたが、この能力は“私が愛している者”にしか効果がありません」
フィアは目を細め、「そこで!」と誇らしげに言った。
「私は“好きな時に好きな相手を好きになれる”ように、幼少期から訓練を行ってきました!」
「…………、……えっ?」
レオンハルトは長い長い沈黙の後に、頭を硬い石で殴られたかのような声を出した。
そんな彼の前で、フィアは清々しい表情を浮かべながら言葉を続ける。
「この力を使って、私は色んな所でお仕事をしています。今回の旅はお国からの依頼で、邪竜の討伐を確実なものとするため、レオンハルト様をサポートしてほしいということでした」
「…………仕事?」
「はい! お仕事です!」
フィアは胸に手を当てて言い切った。
「…………なら、今までの、お前のアレは。全部、演技、だった。と、いうこと、か?」
「演技? いえいえ、演技などではありません!」
どうやら彼は何か誤解をしているようだ。フィアはそう思い、顔の前で忙しなく手を振った。
「私の能力は本当に愛している相手にしか効果を発揮しません。いくら愛しているフリをした所で、その感情が偽物では全く意味がないのです!」
「な、なら、」
「ですので! 私はいつでも、どこででも、誰でも、本気で愛することができるように特訓を重ねたのです! つまり、演技ではなく自己暗示! 私はお仕事の度に、毎度本気で皆様を愛しているのです!」
フィアは胸を張って言った。
フィアの真価はこの“自己暗示”にこそある。求められればどんな相手でも一瞬で愛することができる。それこそが、フィアの能力を極めて有用なものへと押し上げていた。
「とはいえ、他にも縛りはいくつかあります。この力は対象となる相手から離れると弱まりますし、一人にのみ好意を集中させないと効果が薄れてしまいます」
フィアは眉を下げ、レオンハルトを見つめた。
「そのせいでお仕事とはいえ、レオン様一人に付き纏うこととなってしまったのは、本当に申し訳なく思っているのです……」
けれど、これに関してはどうしようもなかったと言う他ない。
何故なら、フィアは本気で彼のことを愛していたからだ。
それがたとえ強烈な自己暗示による思い込みであったとしても、その間の感情は本物なのだ。だから自分の行動を制御できないし、彼に近づきたい気持ちを押さえられない。
自己暗示をかけている間、フィアは──なんというか、こう、柔らかい表現を使って言えば、頭がお花畑で埋め尽くされてしまう。直接的に言うと、盲目的なアホになるのだ。
旅の道中、そのせいで彼には非常に不快な思いをさせてしまった。
自己暗示を解いた今、フィアの胸中は彼に多大な迷惑をかけてしまったことへの申し訳なさでいっぱいだった。
「……な、なぜ」
すると、レオンハルトは震えた声で言った。
「何故、そのことを黙っていた? はじめから、仕事だと。そう言えば良かっただろう……」
「ああ、それはですね。そのぉ、レオン様は“女嫌い”で有名とのことでしたので。私の能力が発動する条件を伝えた場合、私をパーティメンバーから外すように言って聞かないだろうからと。私の上司から、事実を伏せておくように指示されまして……」
レオンハルトは黙り込んだ。それが図星だったからだろう。
彼のことだから、きっとフィアの体質のことを知っていれば、「そんな力がなくとも俺は十分に戦える」と言って、フィアの存在を拒絶していただろう。
確かに彼は一人でも強い。しかし邪竜を確実に討伐するためには、少しでもリスクを減らしておく必要があったのだ。
彼はフィアを見つめた。その黒い瞳は、雨粒の下敷きになった水たまりのように揺れていた。
フィアが首を傾げると、彼は下唇を噛みしめながら言った。
「お、お前は。な、何のために、そんなことを?」
「お金と生活のためです!」
フィアは迷いなく断言した。
フィアはこれ一本で食っているのだ。愛を量り売りすることで、フィアは快適な寝床と、温かい食事を得ているのだ。
フィアは自分の体質に感謝をしている。これがなければ、きっと自分は満足に腹を満たすこともできなかっただろうからだ。
するとレオンハルトは、完全に黙り込んでしまった。彼の瞳は虚ろで、不思議なくらいに焦点が合わなかった。
フィアは八の字の形に眉を下げ、彼の様子を伺った。やはり、彼の怒りはまだ収まっていないのだろうか。
「──俺を」
すると長い間を置いてから、彼は首に縄をかけられた処刑寸前の罪人のような目をして呟いた。
「俺を、愛しているんじゃなかったのか?」
フィアは緩やかに瞬きを繰り返して、それからハッと、「これは改めて謝るチャンスをくれているんだな」と思い至った。
だから直角に腰を折り、長い髪を地に向けて垂らし、空気を割り裂くような声で叫んだのだった。
「その件につきましては! 謹んでお詫び申し上げます──!!」
と。
× × ×
こうして邪竜討伐の旅は終わり、それから三年の月日が流れた。
「んん……」
フィアは最低限の家具しか置かれていない部屋で目を覚まし、簡素なベッドから身を起こした。
目を擦り、伸びをしたあとに、歯を磨き、黄みがかった灰色の髪を梳かす。
部屋にあまり物が置かれていないのは、ただ単にフィアがそれを必要としていないからだ。この家は上司から与えられているものだが、フィアにとっては寝るためだけの場所でしかない。
身支度を整え終えたフィアは、家の近くにある仕事場へと向かった。
そこは貴族の屋敷のような外観をしていて、周囲には頑丈な鉄格子の門がそびえ立っている。
門の脇には何人かの兵士が警備のために立っていたが、フィアはその隣を無感情に素通りした。
「おはようございます」
フィアは上司に対し、折り目正しく頭を下げた。
フィアが勤めているのは、言わば人材派遣サービスを行う組織である。ここには様々な才能を持った優秀な人材が取り揃えられていて、必要に応じてその“商品”たちが貸し出されるのだ。
その中でもフィアは特に人気の高い売れっ子である。
フィアの愛を求める者は多い。どんな相手でもすぐに愛せる、という柔軟さが、フィアの市場価値を美しい宝石など比べ物にならないほどに高めていた。
そのお陰で、フィアは路頭に迷うこともなく、良い暮らしを送らせてもらっている。
腕っぷしが強いわけでもなく、そこまで器量が良いわけでもないフィアにとって、この仕事は生命線そのものなのだ。
仕事の内容はいつも同じで、そして単純だ。
フィアはただ、命じられるままに相手を愛せばいい。
だから今回も、フィアは当然のように、自分を呼びつけた上司に問いかけた。
「新しいお仕事ですよね。次はどなたを愛せばいいのですか?」
微笑みながらそう尋ねると、上司は「その必要はない」と言った。
フィアは目を見開き、そして首を傾げる。
「……? それは、ええと、つまり?」
「今回のお前の仕事は、ただある人物の世話をすることだけだ」
上司は淡々とそう述べた。
フィアは目を瞬かせて、困惑した声色で「お世話を……?」と呟く。
「そのぉ、それってメイドさんのお仕事では? いえ、確かに私も一通りの家事は心得ていますが……」
「先方の要求はそれだけだ。報酬は既に受け取っている」
「はあ……」
それは一体どういうことだろうか。
愛するのではなく、ただ世話を焼くだけ? それなら普通の家政婦やメイドを雇った方がずっと安く済むだろうに。
フィアは自分につけられている値段が、目玉が飛び出るほどのものであるということを知っている。それなのにただ家事をさせるだけだなんて、札束をドブに捨てるようなものだ。
すると上司は薄く笑いながら言った。
「どうしてもお前でなければいけない、とのことだ」
「へえ……ちなみに、そのある人物とはどなたで?」
「レオンハルト・エストレージャだ」
「レオンハルト……」
フィアは口元に指を当て、しばらく考え込んでから、柔らかな微笑みを浮かべて首を傾げた。
「ええと、どちら様でしょうか?」
フィアは本気で彼のことを思い出すことができなかった。
何せフィアは数え切れないほどの人間を愛しているのだ。これまで関わってきた相手の名を完璧に脳内に刻み込んでいては、記憶の容量があっという間に足りなくなってしまう。
「三年前に国からの依頼で二年ほど旅に出たことがあっただろう。その時にお前が相手をしていた男だ」
「……ああ! 思い出しました!」
説明を受け、やっと合点がいく。
ああ、あの時のパーティのリーダーか。確か黒髪に、揃いの黒い目をしていたはず……? 顔立ちはぼんやりとしか浮かんでこないが、とにかく彼が誰だったかは思い出すことができた。
「レオン様かあ。懐かしいなあ。最後に会ってから三年くらい経ちますけど、元気にしてますかねぇ」
「さあな」
しかし、どうして彼がわざわざ自分を指名したのか?
その答えは分からないままだったが、しかし考えても無駄なことだ、とフィアは結論付けた。
どうせ今回だって、与えられた仕事を何も考えずにこなせばいいだけなのだ。仕事中のフィアは、言われたことを言われた通りにやるだけの機械のようなもの。機械に心は要らないし、頭を悩ませる必要もない。
フィアは首を右に傾げ、唇に淡い笑みを滲ませた。
「何にせよ、ご心配なく。お給料分はきっちり働きますので」
「ああ。信頼しているぞ、フィア」
彼は年端も行かない子供を褒める時のように、フィアの頭に巨大な手のひらをのせた。
「お前はここで、最も利口な商品なのだから」
フィアは微笑みを崩さないまま、ただ「はい」とだけ従順に答えた。
× × ×
フィアは教えられた住所の元へと足を運び、目の前に広がる巨大な屋敷を見上げた。
「ここがレオン様のおうちですか……」
彼は邪竜討伐の褒美としてこの家を貰ったらしい。しかし一人で住むにはいささか広すぎる気もする。
自分なら持て余してしまいそうだ、なんてことを考えながら、フィアは呼び鈴を鳴らした。
「おはようございます。おはようございまーす!」
が、しかし返事はない。
フィアは首を傾げ、それから更に激しく鈴を揺らし、扉をドンドンと叩いた。
「おはようございまーす!! ご依頼を受け、お仕事に参りまし──、」
するとその時、いかにも渋々といった様子の軋んだ音を立てて扉が開いた。
その奥から、聞いているだけで呪われそうなほど低く掠れた声が漏れ出してくる。
「……うるさい……誰だ……帰れ……」
フィアは目を丸くした。
現れた青年、レオンハルトの姿が、以前のものとはかけ離れていたからだ。
髪は無造作に伸び、その毛先は天地の向きを忘れたかのように跳ねていて、目の下にはインクを零したようにベッタリと濃いクマが張り付いていた。端正な顔立ちは相変わらず健在だが、そこにかつての活力はなく、むしろ不気味な印象さえ感じられる。
一目見るだけでボロボロなのが丸分かりな姿だ。
一体何があったのだろうか。
そこでやっと彼は顔を上げ、にこやかに微笑むフィアを真正面から見た。彼は目玉が零れ落ちてしまいそうなほどに瞼を上げ、声にならない声を喉から漏らす。
「なッ……ぁ、なっ……?」
「お久しぶりですね、レオン様」
フィアは春の日差しのような笑顔を浮かべた。
「私のことは覚えておいででしょうか? 以前に旅に同行させていただいたフィア・アルハインと申します」
「……」
「レオン様?」
呼びかけると、彼ははっとした様子で我に返り、頭を激しく上下に振った。それから彼はお化けでも見たような顔をして、声を頼りなく震わせる。
「な、なんで、お前がここに?」
「ええと、ご依頼がありましたので。しばらくレオン様のお世話をするように、と……」
レオンハルトは絶句した。
彼は石像になったみたいに固まり、しばらく間を置いてから、突然家の壁に額を強烈に打ち付けた。
「エイオスの野郎……!!」
そして彼は、血の滲むような声でそう呟いた。
フィアは目を瞬かせながら、「ああ、なるほど」と思う。
恐らくこの依頼を出したのは彼ではなくエイオスなのだろう。思い返してみれば、レオンハルトは剣の腕こそ天下一品だが、生活面では酷く不器用な人だった。それは「この人一人でやっていけるのかな」と心配になるほどだったのだが、このやつれきった顔を見るに、やはりその懸念は当たっていたのだろう。
しかも彼は人を寄せ付けない性質なので、きっと使用人を雇うこともしなかったはずだ。そこで、せめて顔見知りなら受け入れてくれるかもしれないと、彼の惨状を見かねたエイオスが助けを求めてきたのかもしれない。
そんなふうに当たりをつけたフィアは、腕捲りをして「よし」と意気込んだ。
壁にもたれかかってブツブツと何かを呟き続けているレオンハルトの後ろを通り抜け、彼の家の中へと勇み足で突入する。
「う、うわあ……!」
そうして目の当たりにしたのは、予想を遥かに上回るほど荒み切った部屋の有様だった。
そこはたった今強盗に襲われている最中なのかと思うほどに物が散らかっていて、まさに足の踏み場がないという言葉が相応しい。空気は澱んでいて、かなり埃臭い。この空間の中で座っていると、それだけで気が滅入ってしまいそうだ。
確かにレオンハルトは生活能力に難があった。しかし、これほどまでに壊滅的ではなかった気がするのだが。フィアは不思議に思いながら、事細かに辺りを見回す。
まずはこの家の全体図を把握するべきだと考えたフィアは、優秀な探検家のような足取りで家の中の扉を開けて回った。
家の中にはいくつも部屋があって、一通り見て回るだけでも一苦労だ。
そんな中で、フィアは一つの扉の前で足を止めた。
その扉は他のそれと特に変わらない、至って普通の木で作られた扉だったが、その奥からは何だかやけに妙な雰囲気が漂っていたのだ。
フィアは少し首を傾げてから、何のためらいもなくその扉を開けてみた。
すると、そこには。
「──」
異様な光景が広がっていた。
壁中には額縁が大量に取り付けられており、その中に収められていたのは、紛れもなくフィアの肖像画だった。
一体これらはいつ描かれたものだろうか。微笑む自分、空を見上げる自分、目を閉じた自分、頬を赤く染めた自分。
まるで視界をそのまま切り取ったかのように精巧な絵の数々は、それが自分自身でさえなければ感嘆の息を零すに相応しいものだっただろう。
他にも棚の上には、恐らく、というか確実に自分を模した人形がいくつも飾られている。フィアはそれを指で摘まみ上げてみた。よくできた人形である。余程腕のいい人形師に作ってもらったのだろう。
「ッ、うわああああああああ!!」
すると突然、真に迫った悲鳴が聞こえてきた。
どうやら我に返ったらしいレオンハルトが、フィアを追いかけて家の中を走ってきたようだった。だがしかし残念なことに、フィアは既に彼にとって最も見られたくない暗部へ土足で踏み込んだあとだった。
目を点にして部屋を眺めるフィアを前にした彼の顔色は、死後長い間放置された死体よりも余程悪くなった。彼の指先はカタカタという音が聞こえてきそうなほどに震えていた。
「あ、い、いや、ちがう、これは、違うんだ……」
一体何が違うのかは全く分からないが、レオンハルトはしきりに「違う」という言葉を繰り返した。
どうやら彼は何故だか酷く焦っているらしい。
「レオン様……」
「そ、その。あの。これは。な、なんというか……」
彼は処刑台に立たされた罪人のように身体を震わせていた。
そんな彼に対し、フィアは晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「この部屋は綺麗に片付いていますね!」
「えっ」
「物は沢山置かれてますが、よく整頓されています! ここは手を加える必要がなさそうですね!」
何故自分を模した品々が置かれているのかは分からない。が、まあ別にそこまで気にする必要はないだろう。フィアはただ、自分の仕事を完璧にこなせさえすればいいのだ。
するとレオンハルトは、下唇を噛みしめて、顎にぎゅっと皺を浮かべた。それは「何も突っ込まれないのもそれはそれで苦しい」という顔だったが、生憎フィアには何一つ伝わらなかった。
× × ×
さて、それでは旅が終わってからのレオンハルトの様子を振り返って見ていこう。
邪竜討伐を終え、英雄となった彼は、その後一体何をしていたのだろうか?
答えは簡単だ。
『あんなに……あんなに俺を好きだと言っていたのに……!』
泣きながら酒を呷っていた。
天下の黒獅子と謡われた彼は、大衆酒屋のテーブルに突っ伏し、バケツをひっくり返したような涙を流していたのであった。
その情けない泣き顔に英雄らしい覇気は一切なく、通りがかった者が彼を見てもレオンハルトだと気づくことはないだろう。
……レオンハルトは、色恋自体を忌み嫌っていた。
それは彼の父親が、あまりにも恋に奔放な男だったためである。
レオンハルトとよく似た顔立ちをした父は、それはもう浮名を流しに流し、いつ見ても違う顔の女性と夜を共にしていた。だからレオンハルトはどの女性が自分の本当の母親なのか知らないし、どの女性も「自分こそが本当の母親だ」と主張していた。
別に殴られたりだとか、満足に食事を与えられなかったりだとか、そんな酷い扱いは受けていない。父も、父が愛していた女たちも、皆レオンハルトに優しかった。
だがしかし、レオンハルトは彼らのことが大嫌いだった。彼らの感情を理解することができなかった。気味が悪かった。
だからレオンハルトは、誰かを愛するという行為に拒否反応を示していた。父親に瓜二つな自分の顔が嫌いだったし、その顔に見惚れて近寄ってくる女が嫌いだった。
いつしか彼は剣の道に傾倒し、自分の人生から恋やら愛やらを弾き出すようになった。そんな感情は人を愚かにするだけだ。自分は絶対に、あの父や、父の恋人たちのようにはなりたくない。そんな一心で、彼は自分に近寄る女たちを突き放し続けた。
そんな中で現れたのが、フィアという女だった。
彼女もまた他の女たちと同様に、盲目的にレオンハルトを慕っていた。
レオンハルトは彼女を鼻で笑った。一体自分のどこを見て「愛している」だなんて戯言をほざいているのか。
どうせこの顔が好きなだけだろう。容姿に惹かれただけなんだろう。愛しているのは外面だけだろう。そんな薄っぺらい好意に何の価値があるというのか。
そんなふうに、レオンハルトは彼女の愛を馬鹿にして、見下していた。
けれど彼女は他の者と違って、どれだけレオンハルトが冷たく接しようとも諦めなかった。
どれだけ酷い言葉を吐きかけようとも、離れることなくレオンハルトに愛を与え続けた。
その見返りを求めない献身に、いつしかレオンハルトの凍り付いていた心は溶かされはじめていた。
気付いた時には、彼女の存在が日常の一部になっていたのだ。彼女が傍に居ることが当たり前で、むしろ近くに居ないと違和感を覚えるようにすらなっていた。
きっと、旅が終わっても彼女は自分についてくるものだと思っていた。
今更彼女が自分の元を離れてどこかへ行くなんて、想像すらもできなかったのだ。
『う、ううううう……!』
けれど彼女は呆気なく目の前から消えていった。
レオンハルトは机に額を打ち付けた。なんだ。何なんだこの気持ちは。くそ。くそくそくそ。
『だから言ったのにさあ。そんな態度取ってたらいつか後悔するぞって』
『うわああああっ』
隣のエイオスに白い目を向けられ、レオンハルトは頭を抱えて絶叫した。かれこれ数時間レオンハルトの泣き言を聞かされ続けているエイオスは、もう完全に投げやりになっていた。
フィアから真相を打ち明けられて尚、レオンハルトはまだ心のどこかで信じていたのだ。
ああは言ってもあれだけ自分を慕ってくれていたのだ。またあの旅中のように追いかけてきて、家まで押しかけてくれるのではないかと。
『全ッ然そんなことなかった!!』
本当に、一切の連絡がなかった。
家に押しかけてくるどころか、手紙の一枚すらも来なかった。本ッ当に微塵も来なかった。
与えられた屋敷は、一人で暮らすには広すぎた。きっと彼女がやってくるだろうと思っていたのに、現実はこんなにがらんどうだ。無駄に余った部屋を見る度に、胃の中から苦いものが込み上げてくる。
するとエイオスが呆れたようにため息をついて、鋭い瞳でじろりとレオンハルトを睨みつける。
『お前ねえ。未練があるなら自分から声を掛ければいいだろう?』
『み、未練なんかない!』
レオンハルトはジョッキを抱えて叫んだ。
そうだ。この俺が、未練なんて抱いているわけがない。レオンハルトはそう自分に言い聞かせる。
あくまで、ほんのちょっとだけ、彼女の気持ちを受け入れてやってもいいかな、なんてことを考えていただけなのだ。だから別に、未練がある、とかじゃない。違う。違うはずだ。
エイオスの瞳の温度が見る見るうちに下がっていく。レオンハルトはその冷気を纏った視線に肩を震わせ、『……ちょっとしかない……』と訂正した。
エイオスは額を押さえ、子供に言い聞かせるような口ぶりで言った。
『いいか? お前はな、拒絶されるのを怖がってるんだ。だから自分から行動を起こそうとしない。自分が傷つくことを恐れているからだよ』
『お、俺は、』
『でも昔は散々お前が彼女を拒否してきただろう?』
『……』
『なのに自分は傷つきたくないだなんて、それは自分勝手だよ』
レオンハルトは何も言えなくなった。彼の言葉が胸に突き刺さったからだ。
顔を青くして俯くレオンハルトを見て、エイオスはこめかみを指で掻いた。
彼とて別に、弟分の心を正論でへし折りたいわけではなかった。彼は、レオンハルトが不器用で、なおかつ性根は悪くないことを知っていた。
だから彼を元気づけたくて、そのしょぼくれた広い背中を勢いよく叩いた。
『ま、とにかくさ。今のお前に必要なのは、もう一度関係を築き直そうとする前向きな姿勢だよ。受け取ってもらえるかどうかは置いておいて、後悔してるなら謝罪から始めたらどうだ?』
彼のアドバイスが正しいことは、レオンハルトだって分かっていた。
でも、どうしても勇気が出せなかった。レオンハルトは、他人から言い寄られることには慣れていたが、他人に歩み寄るという行為には全く縁がなかったのだ。
エイオスの言う通り、レオンハルトは自分が傷つくことを恐れていた。臆病な自尊心がレオンハルトの足をしつこく引っ張っていたのだ。
そんなふうに頭を悩ませていたある日、レオンハルトは街で偶然フィアの姿を見かけた。
けれど彼女に声を掛けることはできなかった。それは、レオンハルトが怖気づいたから、というだけではない。
彼女が見知らぬ男と腕を組んでいたからだ。
彼女はその淡い黄緑色の瞳を潤ませ、頬を鮮やかな薔薇色に染めていた。
それはまさに恋する乙女の眼差しであり、かつては自分が向けられていたものに違いなかった。
『……あっ……』
レオンハルトは掠れた呻き声を漏らした。
頭の中でぐちゃっ、と何かが潰れる音がした。
自分が本当に、彼女にとっては仕事相手の一人でしかなかったのだと、完全に理解してしまったからだ。あの恋に満ちた輝かしい瞳は、レオンハルト一人のものなどではなかったのだ。甘い熱の籠った眼差しは、彼女にとっては売り物でしかなかった。
一体、何を。
何を勘違いしていたのだろう。
彼女の気持ちを受け入れてやってもいい? 思い上がりも甚だしい。はなから彼女はそんなこと望んでいなかったというのに。
本当に、彼女にとっては仕事でしかなかったのだ。それを自分は「迷惑だ」なんて言ってわざとらしく拒絶していた。
自分が彼女の立場であれば、きっと後で苦笑いを浮かべることだろう。自分が本気で好かれていると疑わず、仕事上必要だっただけの好意をいい気になって見下している姿は、どれほど滑稽に映っていただろうか。
致死量の羞恥心が、レオンハルトの全身を襲った。
それからというもの、レオンハルトは夜目を閉じる度に、旅の中での自分の言動を嫌でも思い返すようになった。彼女に吐いた冷たい言葉を思い出す度に、今すぐ窓を突き破って暗い穴の底へと落ちて行きたい衝動に駆られた。
それと同時に、旅の中で彼女にしてもらったことの数々を、何度も何度も脳裏に思い描いた。
彼女にとってはただの仕事だったかもしれないけれど、それは確かに温かい記憶だったのだ。
一人きりで広い家に居ると、ますます彼女の温もりや、柔らかい声や、小さな思いやりを噛みしめずにはいられなかった。
優しい思い出と黒歴史との間で板挟みになったレオンハルトは、頭の中を真っ白にするために、狂ったように仕事に打ち込むようになった。剣を振るっている間は、少しだけ苦しみから逃れることができたのだ。だからギルドに通い詰めては高難易度の依頼を受け、身体が傷だらけになることも厭わずに戦い続けた。
元々生活能力が乏しいこともあって、あっという間にレオンハルトの私生活はボロボロになった。剣を振り続け、寝るためだけに家に帰る日々は、レオンハルトから輝きを失わせた。
唯一の楽しみと言えば、在りし日の彼女の笑顔を思い出して、それを紙に描き起こすくらいである。この歳になるまで知らなかったことではあるが、レオンハルトにはかなり芸術の才能があった。まあ「流石に気持ち悪すぎるだろ俺……」という自覚があったので、永遠に日の目を見ることのない才能ではあったが。
そんなレオンハルトを、エイオスは『こいつこのまま放っておくと死ぬ……!』と見かねたのであった。
『おい! しばらく見ない間に何病んでるんだお前!』
『いいんだ……もう放っておいてくれ……俺みたいな勘違い浮かれカス野郎はいさぎよく朽ちて滅びるべきなんだ……』
『何訳の分からないことを言って……お前絵うまっ!』
『はぁぁ……そうだよな……顔だけしか取り柄のない俺が本当に愛されるはずなんてなかったんだ……』
『いやお前、取り柄あるだろうこれ! 個展開け!』
レオンハルトは膝とフィアさん人形(※デフォルメバージョン)を抱え、しくしくと湿っぽく泣いた。勿論自作である。
『お前……ロクに料理もできないんだから、せめて使用人を雇うくらいしたらどうだ? 金なら持ってるだろう?』
『嫌だ……知らない人に会いたくない……』
エイオスは眉間に皺を浮かべ、深くため息をついた。そして腕を組み、じっと考え込む。
『……よし分かった。俺がチャンスを作ってやるから、いつまでもウジウジしてないでアタックするなり玉砕するなり、とにかく区切りを付けてこい。金はお前の懐から抜いておくぞ? それでいいな?』
『……もうなんでもいい……』
エイオスが何かを提案していたが、レオンハルトの耳には入らなかった。何もかもがどうでも良かったのだ。
だからレオンハルトは気が付かなかった。彼を見かねたエイオスが何とか伝手を探し、彼の金を使ってフィアへと依頼を出していたことに。
知らなかった。毎夜夢に見るほど未練がましく想っていた彼女が、ある日何の前触れもなく目の前に現れることを……。
× × ×
「ふう。何とか粗方片付きましたね!」
「もう俺を殺してくれ……」
フィアは満足げに額の汗を拭い、その後ろでレオンハルトは顔を覆って蹲った。
かなり時間はかかってしまったが、どの部屋も大方整理できた。「な、何かやることはないのか」「お、俺は何をしたらいい」とレオンハルトが後ろをついて回ってきたのは正直言って邪魔以外の何物でもなかったが、「じっと座って何もしないでください」と言えば叱られた犬みたいに言うことを聞いてくれて助かった。
その過程で彼は部屋中をくまなく見られてしまったことに強い精神的ダメージを負ってしまったようだが、目を閉じていては何もできないので致し方あるまい。
「み、見られた……何もかもを……よりにもよって本人に……!」
「大丈夫ですよ、私は何も気にしてませんから!」
この世にはもっと見るに堪えないものがいくらでも転がっているのだ。それに比べれば、彼の恥など可愛いものである。
「レオン様。良ければキッチンをお使いしても構いませんか?」
「あ、ああ……。な、何でも。好きに使ってくれて、構わない……」
彼は途切れがちにそう答えた。
ここに来るまでの間に市場で買ってきた食材を並べる。彼は明らかにロクな食事をしていなさそうだったので、消化に良い、温かいものをいくつか作った。
自分の家だというのに居場所なさげに辺りを見回しているレオンハルトの前に、出来た料理を持って行く。
彼は湯気の立つ料理とフィアの顔を交互に見つめ、それからごきゅ、と喉を鳴らした。そして震えた指先でスプーンを掴み、野菜のスープを一匙すくう。それをまるで数年ぶりに身体を動かしたのかと思うほどゆっくりと口へ運ぶ。
すると彼はスープをごくり、と嚥下した瞬間、黒い真珠のような瞳からボロッ! と大粒の涙を零したのだった。
フィアはトレイで口元を隠し、目を丸くしてレオンハルトを見つめる。突然彼が涙を流し始めた理由が分からなかったからだ。
困惑するフィアの前で、レオンハルトは瞬きの度にぼろぼろと涙の粒を落とし、しゃっくりをするように身体を震わせた。
「お、おいしい゙……」
「そう、ですか。それは良かったですが……」
「こ、こんなに。温かいものを食べたのは、一体いつぶりだろうか」
彼は顔を覆い、俯いて呟いた。
どうやら気分が悪くなって泣いていたわけではないらしい。どういう対応をすればいいのかは分からないままだが、とりあえず喜んでいるらしいと知って胸を撫で下ろす。
レオンハルトは一口、また一口とスープを飲んで、あっという間に皿を綺麗にした。彼は静かに涙を流しながら、フィアの作った料理を胃の中に納めていった。黙々と食べ進める彼を見て、フィアは「余程お腹が空いていたのだろうか」と思う。
全ての料理を食べ終えたレオンハルトは、手を合わせて感謝の言葉を述べた。
そうして彼は、机に額がつきそうになるほど深く頭を下げた。
「──す、すまな、かった」
彼は過呼吸を起こしたように何度も言葉を途切れさせながら、フィアに向けて両手をついて謝罪する。
フィアは眉を下げ、首を傾げることしかできなかった。何故彼に謝られているのか、その理由を全く理解することができなかったからだ。
「れ、レオン様……?」
「俺はっ。旅の中で、お前に、酷い態度を取ったっ」
「はあ……」
「何度もお前に冷たくしたし、あれだけ……あれだけ世話になっておきながら、感謝の言葉の一つも、言わなかった。本当に、本当に、酷いことをした」
彼が長く厚みのある睫毛を震わせながら言う。
「俺は、安堵、していたんだ。どれだけ突き放しても、お前が俺の傍から離れていかないことに……」
「……レオン様」
「本当に、後悔している。旅が終わってから、ずっとお前に謝りたかったんだ。すまなかった。本当に、すまなかった……」
陶器のような彼の肌を、透明な雫が滑り落ちていく。
そんな彼を見つめながら、フィアは「顔を上げてください、レオン様」と言った。
「そんなこと気にしてたんですか?」
「……えっ?」
フィアが苦笑しながら言うと、レオンハルトは顔を上げ、目を見開いた。フィアは口元に手を当て、くすくすと微笑んだ。
「生真面目な方ですね、レオン様は」
「……あ。いや、俺、は」
「あなたが謝る必要なんてどこにもないんですよ。だって私は、そんなの少しも気にしていませんから」
どうやら彼は、旅の道中で取った態度をずっと悔やんでいたらしい。
その懺悔を聞いてフィアが思ったのは、「なんだ、そんなことか」ということだった。随分と暗い顔をしているからもっと深刻な悩みに襲われているのかと思っていたが、どうやら実際は随分と些細なことに囚われていたらしい。
「確かに、あなたを愛していた時には、多少なりとも思う所があったかもしれません。ですが、今の私にとっては最早過ぎた話です」
暗示をかけている最中は、ほとんど人格が変わっているようなものなのだ。
だから「そういう感情を抱いていた」という記憶はあるものの、実感を伴うことはない。他人の書いた日記を読んでいるような感覚に近いかもしれない。
なのでこれは強がりなどではなく、本当にフィアは彼の言動を何とも思っていないのだ。
否、むしろ──。
「むしろ、私は──」
けれど、途中でフィアは言葉を切り上げた。
レオンハルトの顔色が、先程よりもずっと悪くなっていたからだ。彼は冷たい冬の空の下でずっと放っておかれたような顔をしていて、少しでも押せば何の抵抗もなく倒れ込んでしまいそうだった。
フィアは眉を寄せて、「レオン様?」と声をかけた。彼の表情をもっとよく見ようと、彼の長い前髪を払うために手を伸ばす。
すると彼は突然身を乗り出し、フィアの手を握りしめた。
「──す、好きだ……!」
「えっ?」
……聞き間違いだろうか?
と、フィアは思った。そう思うほどに、彼の口から飛び出てきた言葉が予想外のものだったからだ。
けれど彼は、それが空耳である可能性を入念に踏み躙るみたいに、同じ言葉を同じように繰り返した。
「好き、なんだ。お前のことが、好きだ。突然、こんなことを言うなんて、おかしいことは分かってる。でも俺は、お前が居なくなってから、やっと自分の気持ちに気が付いたんだ……!」
「──」
「俺は。俺は、お前が居ないと、ダメなんだ……」
縋るように手を握られる。じわりと、体温が染み込んでくる。
フィアはしばらく黙り込んで、それからニコ、と笑顔を浮かべた。
「レオン様」
名前を呼ぶと、彼が顔を上げる。その黒い瞳には、何かを期待するような光が浮かんでいる。
その顔を見たフィアは、味のない砂を舐めているような気分になった。ざらざらとして、気持ち悪い。らしくもなく、感情が抑えられない。心の中がチクチクして、その棘を彼に向けてしまう。
「──居なくなったら惜しくなって手のひらを返すだなんて、それはちょっと虫が良いんじゃないですか?」
そう告げると、彼の喉から風のような音が鳴る。
思わず笑顔が崩れそうになるが、フィアはそれを何とか気合で食い止めた。仕事中に素の表情を見せるなど、ありえないことなので。
× × ×
「おかえりなさい、レオン様」
「──」
フィアが玄関前で頭を下げると、レオンハルトは石化する呪いを受けたみたいに固まって動かなくなった。
強力なモンスターの退治を終えてきたのだろう。彼の顔や鎧は血や土などの汚れで覆われている。
フィアは彼の挙動不審な様子を特に気に留めることもなく、ただ家政婦のように「夕食の準備ができていますよ」と告げる。「それとも先に身体を清めますか」とも。
レオンハルトは両手で顔を押さえ、身体の底から声を絞り出した。
「……なんでまだここに居る……?」
「一度受けたお仕事を放りだすようなことはしませんよ」
フィアは微笑みながら言った。
仕事を途中放棄することなど許されない。フィアの個人的な感情などどうでもいいものなのだ。投げ出して帰れば上司からどれほどの叱責を受けるか分かったものではない。
すると彼は、指の隙間から長いため息を吐き出し、フィアを黒い眼でじっと見つめた。
「……そうか」
「はい」
「……もう会えないと思った」
「少なくとも、ご依頼いただいた期間中は顔を合わせることになりますよ」
「……それは延ばせるのか」
「それ相応の料金を頂ければ」
無論、下手をすれば城が買えるような額になるが。
レオンハルトは端正な顔を歪め、捨てられた犬のような雰囲気を漂わせながらその場でウロウロと歩き回った。彼は腕を組み、低い唸り声を上げ、それから顔と手を上げる。
「……少し、待っていてくれ」
「はい?」
フィアは首を傾げた。一体彼は何をするつもりなのだろうか。
レオンハルトは踵を返し、どうしてか家を飛び出した。フィアは言われたままに彼の帰りを待つ。
すると数分後、彼は何故か両手で巨大な花束を抱えて戻ってきた。
赤い花束は瑞々しく、甘い香りを漂わせていた。
レオンハルトは腰を直角に折り、フィアに向けてその花束を差し出した。
「俺は、お前を愛している」
次いで向けられたのは、喉を掻き毟りたくなるほど典型的な愛の告白。
世の中の乙女が夢に見るようなその光景を──フィアは絶望的なほど死んだ目で見つめていた。
「あの、レオン様。これは一体何ですか?」
「俺の気持ちだ。もう一度、ちゃんと伝えさせてくれ」
「はあ」
「フィア。頼む。俺と結婚してくれ……!」
「嫌です」
「……。金ならある! 絶対に貧しい暮らしはさせないと誓う!」
「嫌です」
フィアは機械のように首を横に振った。
レオンハルトの瞼がヒクリと痙攣する。
「……なら、付き合ってくれ」
「嫌です」
「と、友達から……! 友達から始めてくれ!」
「嫌です」
何故仕事に私情を持ち込まねばならないのか。
彼のしつこい申し出を一刀両断し続けていると、彼は膝をついてジメジメとした空気を漂わせ始め、「友達からも駄目なのか……」と魂が抜けたような声で呟いた。そんなにカビた空気を垂れ流していたら、折角綺麗な花束まで変色してしまいそうだ。
フィアはため息をつき、それからその場でしゃがみ、項垂れる彼と目の高さを合わせた。そして頬を両手で押さえながら、眉を寄せて彼に問いかける。
「……そもそも。レオン様は、一体私のどこを愛していると言うんですか?」
レオンハルトの目が見開かれる。
彼は顔を上げ、「そ、それは!」と上擦った声で言った。
「りょ、料理上手で」
「……」
「世話焼きで。気が利いて」
「……」
「傍に居るだけで、気分を明るくしてくれる所が……」
指を折って数えながら言う彼を、フィアは薄い黄緑色の瞳でじっと見下ろした。
別に期待をしていたわけでもないが、それは。
「……それって、“あなたを好きな私”が好きなだけですよね?」
フィアは笑顔を崩さないまま、その事実を突きつけた。
レオンハルトの顔が凍り付く。
だってそうだろう。
料理が上手いのは「その方が客に喜ばれる」という理由で覚えさせられたから。
世話を焼いていたのも、過剰に気を配っていたのも、彼のことを愛しているという自己暗示があったからに過ぎない。
彼が好きなのは、「レオンハルトを一途に愛しているフィア」なのだ。そして、その女はもうどこにも存在しない。
仮にレオンハルトの愛とやらが本物なのだとして、虚像を愛する彼を見て苦い気持ちになることの何がおかしいのだろう?
「……別に、責めているわけじゃないですよ」
そうしてフィアは、決まりの悪さを感じながら言った。彼があまりにも酷い顔色をして、青くなった唇を噛みしめていたからだ。自分が彼をこっぴどく苛めているような気分になったのだ。だからフィアは彼から目を逸らし、自分の左腕を摩る。
そして床を見つめながら、「私はただ、早く目を覚ました方がいいと言っているだけです」と呟いた。
見ていられなかったのだ。
とてもじゃないが直視できなかった。自分が義務的に生み出した空っぽの人格に、盲目的に愛を囁く彼の姿を。
そんな非生産的なことに、彼はどうして貴重な自分の時間とお金を浪費しているのだろうか。
「レオン様は……ええと、その。十分な稼ぎがありますし、邪竜を討伐した有名な英雄様ですし。あと、顔もお綺麗ですから」
一般的に見て、彼のスペックは非常に魅力的なもののはずだ。美的感覚など備えていては「誰でも」愛することなどできないので、フィアには人間の美醜が分からないが、恐らく客観的に見ると彼の容姿は整っている方なのだと思う。
であるならば、だ。
「あなたを本当に愛してくれる人は、他にいくらでも居るでしょう?」
魅力的な彼を愛する人間など星の数ほど居るだろう。その中にはきっと、「彼を愛していたフィア」の代替になる者だって存在するはずだ。彼は今すぐに、その誰かに愛を向けるべきなのだ。こんな所で芽の出ない種に水をかけている場合ではなく。
フィアはそうやって彼を諭した。
しかしレオンハルトは、黒い太眉を大袈裟なほどに上げ、呆気に取られた様子で言う。
「……き、綺麗?」
「はっ?」
「そ、それはつまり、俺のことを“カッコいい”と、そう褒めてくれているということか……!?」
「……まあ、そういうことにはなるのかもしれませんね?」
フィアは瞬きを繰り返しながら言った。
すると彼は「ッしゃあ!!」と子供のように叫び、何もない場所を掴んで固く握りしめた。
彼の後ろに大はしゃぎで揺れる犬の尻尾の幻想が見える。
どうやら彼は、自分に都合のいい部分だけを切り取って頭の中に収めたらしい。それで大層舞い上がって、顔を赤くして喜んでいるようだ。
「そ、そうか……!カッコいいか……!俺は今生まれて初めて、この顔で産んでくれた親に感謝をしている……!」
「はあ……」
「もっと近くで見てくれてもいい!」
「いえ、遠慮します」
表情筋をデレデレと溶かす彼を見て、フィアは「よくもまあ言葉一つでこんなにも喜べるものだな」と思った。
些細な言葉で舞い上がり、何度拒絶されても懲りずに愛を囁き、献身的に纏わりつく。
その姿は、誰かを愛している時の自分によく似ていた。
「……」
見ていられない、と思うのは、もしかすると、そのせいなのかもしれなかった。
× × ×
手が頬に伸びる。
肌の上をナメクジのように温かいものが伝う。
フィアはその感触に頬を染め、うっとりと唇を開く。
『私は、──さまのことを愛しています』
そう囁けば、愛する“その人”は満足そうに笑った。
『そうか。俺を愛しているか』
『はい』
『なら……俺のために、何だってできるな?』
湿った手のひらが下へ下へと這っていく。
フィアは目を細めて、“その人”に向けて両腕を伸ばした。
『はい。どうかあなたさまの、御心のままに』
受け入れたい。
望まれたことなら何だってしてあげたい。
例えそれがどうしようもなく苦痛で、屈辱的で、悍ましくて、汚らわしくて、自分の皮膚を頭から爪先まで丸ごと剥いで新しいものと取り換えたくなるほど生理的に受け付けないことだったとしても、求められるなら差し出したい。
だって、きっとそれが愛なのだ。
どんなに気持ちの悪いことだって受容してみせる。愛する人の全てを受け入れなければ、愛したことにはならない。
だからフィアが誰かを愛する限り、フィアに自分の意志などない。
愛する人の全てを受け入れ、その人の望むままに振る舞い、その人の欲しいものを与え、その人のことだけを考えて、受け止めて、従って、這い蹲って、自分を捧げることが使命なのだ。
それができないのなら、「愛」なんかじゃない。
『愛しています。愛しています……』
自分に言い聞かせ続ける。
愛しているなら、何だってできるはずだ。
何だってできるから、私はこの人を愛しているのだと。
× × ×
服が肌に張り付いて離れなくなる感覚で目が覚めた。
身体中の血が氷水にすり替わったみたいで気持ちが悪かった。
フィアは上半身をゆっくりと起こし、自分の手のひらをじっと見つめた。
昔の夢を見るのはよくあることだった。
フィアは誰だって愛することができる。愛している間は何だってできる。それが自分にとっての最大限の幸福なのだと信じられるからだ。
けれど自己暗示を解いてしまえば、心にかけていた麻酔は当然切れる。そうして致死量の生理的な嫌悪感に襲われる。
それでもフィアは、この耐え難い衝動を鎮める方法を熟知していた。この仕事を始めたのはもう随分と昔のことなので、正気の地獄をやり過ごすことには慣れている。
息を吸って、吐いて、吸って、吐く。
心を透明にして、自分を人形にする。そうすれば何が怖いかなんてちっとも分からなくなる。
フィアは寝汗で濡れた服を脱ぎ、身体を清潔にして、見苦しくないように姿を整えた。
それから、動かない扉をじっと凝視する。
ここはフィアの自宅ではない。レオンハルトの広い家の中にある一室だ。
彼の私生活を整えるという仕事をこなすに当たり、自分の家と彼の家を毎日行き来し続けるのにはかなりの手間がかかる。そこで彼は「それなら余っている部屋を使ってくれたら良い」と申し出たのだ。
住み込みで働く、というのは何らおかしなことではないし、彼の提案を断る理由もない。
たとえ、もしも彼が夜中に自分の元へと訪れることがあったとしても、だ。
仕事柄、彼一人の好意に応えることなど出来るわけがない。だが夜這いを受け入れるくらいなら、まあ、業務の範囲内だろう。
そんな覚悟を決めていたにも関わらず、レオンハルトが部屋の扉を勝手に開くことは終ぞなかった。
拍子抜けした。一体彼は何がしたいのだろうか。あれだけの大金を払っているのだから、強引に触れてくるものだと思っていたのに。
階段を降り、リビングへ向かうと、テーブルの上に『討伐に行ってくる』という彼からの書き置きが残されていた。
どうして彼は、フィアに愛することを求めないのだろう。フィアは心の底から不思議に思った。
フィアが愛した者は強くなる。
二年も旅をしていたのだから、彼はそのことを身に染みてよく分かっているはずだ。
身体が軽くなり、無尽蔵の力が湧いてきて、傷の治りは驚くほどに早くなる。フィアの愛がなければ、いくらレオンハルトが元々強い剣士であったとは言え、邪竜との戦いで腕や足を失っていただろうほどに。
これは自惚れなどではなく、本当にフィアの愛には奇跡に等しい効果があるのだ。
フィアが愛したことで、不治の病を克服できた者が居た。
驚くべき力を手に入れ、華々しい名声を手に入れた者が居た。
運気が上がり、命よりも大事な商売を成功させた者が居た。
一度でもフィアに愛された者は、「まるで神様が祝福してくれたようだ」と言う。フィアに愛されている間、その人の人生には明るい光しか当たらない。
フィアを育てた男──フィアの上司である彼は、フィアのこの体質を「資本」だと言った。
『お前のその才能は、使い方さえ誤らなければ、尽きることのない富を生み出すだろう』
『……はい』
『誰もがお前を求め、お前の愛を手に入れるために莫大な金を払う。それがどれほど素晴らしいことか、分かるだろう? フィア』
『はい』
『お前の愛は金になる』
愛は、金になるのだ。
彼の教えが間違っているとは思わない。
何せ事実、自分からこの才能を抜き取ってしまえば、後には何も残らないのだ。
好きな時に好きな相手を愛せない自分に、一体何の価値があると言うのだろう?
この才能がなければ、何の力も後ろ盾もない自分を、守ってくれる人も、雇ってくれる場所もない。一人で放り出されてしまえば、きっと自分はすぐにどこかで野垂れ死ぬ。
けれど、持って生まれた才の生かし方と、上手く器用に生きる方法を、上司はフィアに教えてくれた。そのお陰で、フィアは安定した生活を送ることができている。
フィアは椅子に腰かけ、それからふと旅をしていた頃のことを思い出した。
実の所、レオンハルトの傍で過ごすのは楽だったのだ。
何せ彼は、フィアに何も要求してこなかったからだ。彼はいつだってフィアの好意を拒絶して、フィアとの間に厚い壁を作っていた。
彼はそのことを深く後悔しているようだったが、フィアはその冷酷な態度をむしろ好ましく思っていたのだ。
「自分を愛している相手には何をしてもいい」と思う客を相手にするより、余程居心地が良かった。
それなのに、彼は変わってしまった。
ああ、そうか。何故こんなにも心がざわつくのか分かった。
自分は彼に、穏やかに落胆しているのだ。
彼がフィアに向ける視線には、いつも淡い侮蔑の色が滲んでいた。恋のために生き、愛によって突き動かされているフィアを、「馬鹿な女だ」と見下していた。
フィアはそれに共感していたのだ。仲間意識を抱いていた、と言い換えてもいい。自分と彼は、きっと心の底で同じ気持ちを味わっているのだと。
その一方的に感じていた繋がりを断ち切られた。
愛とやらのために彼は豹変し、頭にお花畑が咲いてしまった。あれだけ他人に関心を持たず、誰にも依存せず孤高に生きていた彼が、今やフィアの一挙手一投足に顔色を変え、尻尾を振る始末だ。
これが仕事でなく、彼から金を受け取っていないのならば、今すぐにでも目を逸らして逃げ出していた所だ。それほどまでに見るに堪えない光景だった。
日が暮れた頃に、レオンハルトは討伐から戻ってきた。
彼の両手には、また花束が握りしめられていた。
「ただいまフィア! 愛している!」
彼の頭のどこの部品が壊れたのかは分からないが、彼はフィアへの愛の告白を一切躊躇わなくなった。
それどころか、毎日のように新鮮な花束をささげてくる始末だ。
フィアは笑顔を浮かべたまま、「レオン様」と単調な声で言った。
レオンハルトはそわそわと身体を左右に揺らし、「な、なんだ?」と上擦った声で言う。
「毎日花束を買って帰ってこられても困ります。というか、はっきり言って邪魔です」
「うぐぅッ!!」
レオンハルトは胸を押さえて倒れた。
フィアは冷めた目で彼を見下ろした。
「飾るのも手入れをするのも私なんですから、手間が増えるだけなんですよ。このお屋敷を花で埋め尽くしたいのなら従いますけども」
「そ、そうか……そうだな……。す、すまなかった。渡すことで頭がいっぱいで、その後のことを考えられていなかった……」
彼は叱られた子供のように項垂れた。
もしかしてこの男は、ものすごくアプローチが下手なのだろうか。これまで言い寄られてきた経験しかなかったからだろう。
しかしとにかく、やっと直に注意ができたので、これで彼の花責めにも区切りがつくだろう。
心の中でそう安堵していると、レオンハルトが上目遣いで見上げてきた。
「それなら、フィアは何が好きなんだ?」
「え?」
フィアは目を瞬かせた。
レオンハルトは指同士を突き合わせて、申し訳なさそうに前髪の隙間からフィアを見つめる。
「……そうだ。俺はお前と二年も旅をしていたのに、お前が何を好きなのかも知らないんだ」
彼は「もっと早くに聞くべきだったのに」と、自分を恥じているような声で呟いた。
フィアは自分の手の甲を見下ろした。
好きなもの。そんなもの、考えたこともなかった。大体、何かを好きになることは、フィアにとっては命取りなのだ。それがたとえ物相手であったとしても、仕事じゃない場所で何かに執着することは、いつか取り返しのつかない過ちを生みかねない。
だから適当に答えるしかなくて、フィアはふと明日の朝食に作ろうと考えていたもののことを思い浮かべた。
「……サンドイッチ、とか?」
その口調は酷く曖昧なものだった。
しかしレオンハルトはそれを疑問に思うこともなく、素直に顔を明るくして、「サンドイッチ!」と子供のようにフィアの言葉を繰り返した。
「そうか。お前の好物はサンドイッチなのか」
「……ええ、はい」
「そうか。そうか……!」
自分の人生にとても嬉しいことが訪れたような顔をして、彼は何度も首を縦に振った。
その場しのぎでついた嘘を鵜呑みにして喜ぶ彼を前にして、やっぱりフィアは居たたまれない気持ちに襲われた。
× × ×
「……あら?」
「?」
夕食用の買い出しのために街を歩いていると、誰かに声を掛けられた。
フィアは声の聞こえた方へと振り返った。するとそこには、うっすらと見覚えのある、紫髪の女性の姿があった。
「久しぶりね。三年ぶりくらい?」
「……。リゼル様?」
彼女の言葉を手掛かりに、フィアは何とか思い出すことができた。
リゼル・エーデルワイス。
かつて邪竜討伐のため、共に旅をしていた仲間の内の一人である。非常に腕のいい弓兵であり、背が高く、美しい女性であった。
彼女はフィアを見て、懐かしそうに目を細めた。
「アンタ……全然見た目変わんないわね。羨ましい」
「そうですかね? リゼル様も、相変わらずお綺麗です」
「……そう言えば、エイオスから聞いたわよ」
「?」
「今アンタ、あのデカブツの面倒見てるんですってね」
「デカ……レオン様のことでしょうか?」
「そいつ以外に居ないわよ」
彼女は呆れたように鼻を鳴らした。
その反応に、フィアは僅かに首を傾げる。
何せかつて旅の中で、リゼルはレオンハルトに想いを寄せていたのだ。つまりフィアと彼女はパーティ内で彼を取り合う関係性だった。だからフィアは彼女と親密ではなかった。彼女だってフィアのことを良く思ってはいなかったはずだろう。
けれど彼女は、まるで久しぶりに旧友と会ったみたいな気安さで、「あなた、この後時間ある?」と言った。
「はい。この後は特に予定もありません」
「そう。それなら、私とお茶でもしない?」
その予想外の申し出に、フィアは目を見開いた。
しかし、別に断る理由もない。だからフィアはいつも通りに微笑み、「はい。いいですよ」と彼女の誘いに頷いた。
フィアは彼女の後ろをついて歩き、街にある洒落たカフェに入った。雰囲気のある店で、フィアが普段足を踏み入れることのないような空間だった。
「ここ、ケーキがすごく美味しいのよ」
「そうなんですね」
彼女はコーヒーを注文して、フィアは紅茶を頼んだ。それから運ばれてきたケーキは確かに見た目も美しく、味も素晴らしいものだった。
フィアはしばらく彼女と他愛のない雑談をした。それから自然と会話の流れは、かつて共にしていた旅のことについて向かっていった。
「そりゃ確かに、私も昔はあの勇者のことを狙ってたわよ」
彼女は少し気まずそうな顔をして、眉間に皺を浮かべて言った。彼女は長く白い足を組み替えながら、ため息をついて、頬杖をつく。
「私はね、自分よりも強い男がタイプなの。だって私を置いて死ぬような軟弱な男なんて、全然カッコよくないじゃない?」
「はい……」
「だから、まあ……その点で言えば、あの男は条件に合ってたでしょ。強さは申し分ないし、顔も悪くないし」
「そうですね」
「でもアイツ、全ッ然この私に靡かないじゃない!? ていうか冷たすぎて途中でこっちが冷めたわ! よく考えたら私のこと全然好きじゃない男のことを何で好きになんなきゃいけないわけ!? ……って」
マシンガンのように放たれる彼女の本音に、フィアは苦笑いを浮かべることしかできなかった。
同じ男に想いを寄せていたことで、自分は彼女にずっと敵視されていると思っていたのだが、どうやら旅の途中からは彼女の心は冷え切っていたらしい。旅中、レオンハルトのことしか目に入っていなかったので気付かなかった。
リゼルは長い髪をかき上げて、フィアのことを覗き込むように見つめた。
「……途中からは、“よくやるわね”って、アンタに感心すらしてたわ。あんなに拒絶されて、よくめげずに立ち向かえるもんだなって」
「えへへ……」
「……でも、それってアンタの素の顔ではなかったのよね」
窓の外を眺めながら、彼女が呟く。
フィアの体質と、それを使った仕事のことを、エイオスやレオンハルトから聞いたのだろう。フィアは「ええ、まあ」と、頷きながら言った。
「お仕事のこと、秘密にしていてすみませんでした」
「それは別にいいわよ。ただ、なんというか……」
「?」
「……二年も一緒に旅してたのに、私たちって、アンタのこと何も知らなかったんだなって」
そう思っただけ、と、彼女は目を伏せて言った。
フィアは目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。
「きっと、そういうものですよ」
「……」
「他人のことなんて分からないのが普通です。人間なんて、自分のことですら簡単に騙せるんですから……」
するとリゼルは、興味深そうに身を乗り出した。
「そっちがアンタの素なんだ」
彼女に言われ、フィアは口を閉じる。少々気を抜きすぎただろうか、と思ったからだ。
しかしリゼルはにっこりと笑って、指に髪を巻きつけながら言った。
「いいじゃない。馬鹿みたいにあのデカブツの後ろを追っかけ回してる時より好きよ」
「そう、ですか」
それ以上、何と続ければいいのか分からなかった。フィアは何とも言えない気分になって、自分の飾り気のない爪を見下ろした。
リゼルが立ち上がり、「誘ったのは私だし、楽しかったから奢るわ」と笑みを浮かべて言う。フィアは机の木目を見つめて、それから顔を上げ、彼女の背中に向けて声をかける。
「……あの」
「何?」
彼女は振り返り、美しい赤い目をフィアに向けた。
フィアは親指でもう片方の手の甲を揉みながら、彼女に恐る恐る尋ねた。
「昔は、確かにレオン様のことを好いていたんですよね?」
「……まあ、そうね」
「それなら、リゼル様が彼の傍に居た方がいいのでは?」
今の彼女がどう思っているにしても、かつて彼女が抱いていた気持ちは本物なのだ。それならば彼と過ごすことで再び冷めていた感情に熱が宿るかもしれないし、その方がレオンハルトにとってもずっと良いだろう。
そう考えて提案したのだが、しかしリゼルは形のいい眉を激しく吊り上げて、自分の肩を強く抱いた。
「嫌よあんな他の女にベタ惚れしてる男!!」
彼女は心の底からの拒絶を身体全部を使って表し、「大体ね!」と叫んだ。
「よくよく見てみればあの男、不器用だし、言葉足らずだし、ヘタレだし、いくら強くて顔が良くても限度があるわよ!!」
「は、はい……」
「しかも口を開けばアンタの話しかしないし! アンタそんなの私に押し付けようとしてんじゃないわよ!」
……どうやら説得は失敗に終わったらしい。
自分の居ない場で容赦なくこき下ろされるレオンハルトを、フィアは少々哀れに思った。
それから、「あの人はリゼル様に一体何を言ったのだろうか」とも。
× × ×
キッチンに立つレオンハルトの背中を、フィアは落ち着かない気持ちを噛み殺しながら見守ることしかできなかった。
「フィアはそこに座っていてくれ」と、満面の笑顔でそう言われてしまったのが数十分前のこと。
(愛の告白でもない限り)顧客の命令を無下にするわけにもいかず、フィアは何故か彼の調理を見つめることになった。
心配だ。心配でしかない。
別に、彼の身を案じているわけではない。彼が包丁で指を切ろうが、熱した鍋の縁に触れて火傷しようが、フィアには関係ない。
だがキッチンを散らかされては面倒だ。余計な仕事を増やされるのは御免である。
「フィア!」
するとしばらく経って、レオンハルトが皿を持ってやってきた。彼は満天の星空より輝かしい笑みを浮かべていた。
フィアは皿の上をじっと凝視した。
「何でしょうかこれは」
「サンドイッチだ!」
それは、まあ、見れば分かる。
少々形は歪であるが、白いパンの間に薄切りのハムと野菜が挟まれたその姿は、どこからどう見てもサンドイッチそのものだ。
つまりフィアの質問の意図は、「何故サンドイッチを私の前に?」ということだったのだが、レオンハルトには上手く伝わらなかったようだった。
フィアは少し考えて、それから思い出した。
少し前に、自分は彼に「好物はサンドイッチだ」と伝えたのだ。彼が突然サンドイッチを作り始めたのは、きっとそれが理由だろう。
フィアは目線を上げた。
レオンハルトは、期待に満ちた表情でこちらを見つめている。「さあ、召し上がれ!」とでも言いたげな、自信に溢れた顔つきで。
彼が実は自分の告白を断り続けるフィアを憎んでいて、その恨みを晴らすために毒を盛っているのでないのなら、彼は単純にフィアに好物を食べてもらいたいだけなのだろう。それならどこかの店で買ってくればいいのに、わざわざ手作りしたのには何の意味があるのだろうか。
まあ、そんなことを考えたって仕方がない。
「……いただきます」
フィアは両手を合わせ、彼の手作りサンドイッチを手に取った。
「美味しいです」という言葉を口の中に準備してから、そのサンドイッチを一口齧る。
不器用な彼がこしらえたのだから、飛び抜けて美味いなんてことはないだろう。口に広がるのはありふれた味のはずだ。
けれど一応礼儀として、美味しいの一言くらいは渡さなければ。
と、そんなことを考えていたのだが。
「──美味しい」
思っていたよりも簡単に、その言葉は転がり出ていった。
サンドイッチは想像していた通りの味がした。つまり子供が懸命に母親の真似をして作ったような、たどたどしい努力の味が。
しかしフィアには、それがやたらと美味しく感じられたのだ。上司に食べさせてもらったことのある、目玉が飛び出るほど高級な料理よりも。
……もしかして自分は本当に、サンドイッチが好物だったのだろうか?
噓から出た実、という言葉がフィアの頭を横切った。
「おいしい? おいしいか! そうかっ!」
目の前で今にも踊り出しそうなほど、レオンハルトが喜ぶ。彼は顔を真っ赤にして、フィアの言葉を噛みしめていた。
「リゼルに教えを請うた甲斐があった!」
「リゼル様に?」
「ああ。この間、彼女に少し料理を教わったんだ。どうしてもフィアに手料理を食べてもらいたくてな!」
フィアはリゼルの顔を思い浮かべる。
先日彼女とお茶をした際に、彼女があれほど毒づいていた理由が何となく分かった。レオンハルトに料理を教えるのは……宇宙の成り立ちを理解するよりも骨が折れそうだ。「火を使わない料理の名前を挙げていてよかった」と、フィアは彼女の苦労に想いを馳せる。
「……このままじゃ、ダメだと思ったんだ」
するとレオンハルトが、こちらを真剣に見つめながら言う。
「俺は剣以外のことはからっきしだ。旅の中でもお前に世話になりっぱなしだったし、今だってそうだ」
「はあ……」
フィアは眉を下げることしかできなかった。
そう言われても、フィアは彼の世話を焼くためにここに来ているのだ。つまりは彼に自立されると、フィアは仕事を奪われることになる。仕事がなくなると、フィアは何をすればいいのか分からない。
そんなフィアの困惑を他所に、彼は話を続ける。
「お前に言われて、改めて考えた。お前の言う通り、俺は“俺のことを愛してくれるフィア”が好きなだけなのか? と」
「……」
「きっかけは、確かにそうだったのかもしれない。でも、今は違う。何かしてくれるから好きなんじゃないんだ。そうじゃないんだって、はっきり言えるよ」
彼は少々照れた様子で、自分の前髪をつまんだ。
「で、でも。それを言うのに、俺が一方的に世話になりっぱなしなんじゃ、説得力がなさすぎるだろう? だからまずは、自分のことくらい自分でできるようになろうと思ったんだ。お前に迷惑をかけないようになって初めて、俺はちゃんと自分の気持ちを伝えられるんだ、きっと」
なんとまあ、立派な心がけである。成長するのに遅すぎるということはない。これで彼が自分の弟だったり、親戚の子供だったりすれば、フィアは手を叩いて喜んだだろう。
しかし彼は顧客で、今のフィアは彼の家政婦のようなものだ。よって、フィアは彼に尋ねた。
「それは……私はお役御免ということでしょうか?」
「えッ!? い、いや、そうじゃない!」
レオンハルトが首をぶんぶんと横に振る。
それなら、何だと言うのだ。フィアは金を受け取って──まあ正確に言えば、受け取っているのはフィアの上司だが──ここに来ている。彼にはフィアの献身を受ける義務がある。彼とフィアとの間にあるのは、それだけなのだ。
ここ最近ずっと、フィアは彼に振り回されっぱなしだ。いっそのこと、もっと直接的に求めてくれればいい。「愛せ」と命じられれば、彼の望むままに振る舞えるだろう。
なのに、何も求められないから気味が悪い。
「私はあなたの世話をするためにここに来ているんですよ」
「そ、それはそうなんだが……。勿論、すごく感謝してる。毎日美味しいご飯を作ってくれて、俺は本当に幸せ者だ」
馬鹿みたいに金を払っておいて、何を言っているのだか。フィア以外を雇えば、もっとずっと安価に済ませられただろうに。
「それだけのお金を受け取っているのだから、当然のことです。迷惑をかけている、という表現は間違っています」
「……でも俺だって、フィアのために何かしたかった」
彼が拗ねたように呟く。
馬鹿なのか、この男は。
馬鹿だ。大馬鹿。毎日必死に働いて、いつ大怪我を負うかも分からないような過酷な討伐に出向いて、それで稼いだお金をつぎ込んでやることがそれ?
フィアは俯き、机の下で自分の手の甲をつねった。痛みで感情を誤魔化していないと、彼を罵ってしまいそうだったからだ。
そんなフィアの苦労も知らず、彼は幸せそうに笑って言った。
「良ければ、また俺の作ったものを食べてくれないか? 今度はもっと腕を上げるから!」
フィアは呆れて物も言えなかった。
そうしてフィアは空になった皿を見て、売り物ではない誰かの作った食事を食べたのは、一体いつぶりだろうかと考えた。
× × ×
フィア・アルハインという女の話をしよう。
彼女は小さな町で無名の冒険者の両親の間に生まれた子供だった。
フィアは彼らのことを愛していた。──彼らはきっと、そうではなかっただろうが。
何せフィアは、物心つく頃には既に、両親に危険な討伐区域へ連れられていたのだ。
彼らが正確にフィアの能力を理解していたわけではない。だがフィアが傍に居る時には不自然なほど力が漲ってくるということは察していて、だからモンスターと戦う時にはいつもフィアを傍に置いていた。
しかしそれでも我が子への愛があったならば、ろくに言葉も話せないような幼児を危険に晒すような真似はしないだろう。
だから、彼らがフィアを金で売ったのだって、何も不自然なことじゃない。
ある日見知らぬ男が家にやってきた。彼はフィアの手を握り、『さあ、行こうか』とそれが当然のことであるかのように言った。
フィアは幼いながらに、その男が自分をどこか遠い場所に連れて行こうとしているのだと理解した。だから泣き喚いて、必死で両親に助けを求めた。
けれど彼らはフィアに手を伸ばそうともしなかった。決まりが悪そうに目を逸らして、甲高い泣き声をないものとして扱っていた。
その男は高い金を払ってフィアを買い取り、フィアを名目上の養子としたのだ。
彼にとってそれは投資だった。彼はフィアの才能が莫大な富を生み出すことを理解していた。
『さて、今日からここがお前の暮らす場所だ』
彼の屋敷には、フィアの他にも多くの子供たちが居た。
才能のある子供を引き取り、優秀な“道具”になるよう育て、そして値札をつけて必要な者に貸し与える。それが彼のビジネスだった。
『フィア。お前の力は素晴らしい。だが使い方を覚えなければ、それはただのゴミに成り下がる』
上司はフィアに“訓練”を課した。
フィアは自分の感情をコントロールする方法を覚えさせられた。覚えるしかなかった。それができなければ、地獄のような躾が待っていたからだ。
彼女にとって、愛することは生きることだった。愛は生存戦略だった。そのための道具でしかなかった。
訓練は過酷なものだったが、それを課した上司をフィアは別に憎んでいなかった。
任意の相手を愛する自己暗示を身につけたあと、仕事をこなす度に彼はフィアに良い暮らしを与えてくれたからだ。
大きくなってからは、実の両親が自分に親としての愛情など微塵も抱いていなかったことを明確に理解したし、あのまま親元で育っていたとしても不幸な結末しか待っていなかったことを悟ったのだ。
上司は非道で冷酷な男だったが、働いた分の評価は正当に下してくれた。仕事中にフィアの身に危険が及びそうになれば、フィアの価値が損なわれないように対処もしてくれた。
だからフィアは自分の待遇に不満を抱いたことなどなかったのだ。
フィアにとって愛は、ただの売り物だった。
思い込みでどうにかなるものだ。自分の頭を騙して作り上げるものだった。
それなのに、たかが“愛”なんかに振り回されるなんて、馬鹿馬鹿しい。
彼女はレオンハルトという男に失望していた。
そうだ。失望だ。落胆だ。
そうでなければ、何だというのだ。
愛を売って生きている私に、よくもまあ「愛してる」なんて軽々しく口にできたものだ。
本当に、くだらない。
くだらない。
くだらない……。
× × ×
昼間の市場は活気に溢れている。
フィアは八百屋の前で、果たしてどのリンゴが最も甘く美味しいものかと真剣に吟味していた。
今日はおやつにリンゴのパイを作るつもりなのだ。レオンハルトの舌が子供じみていて、甘いものに目がないことは旅をしている時から知っていたことだ。討伐から帰ってきた時に家が甘い香りで包まれていたら、きっと彼はさぞかし喜ぶことだろう。
……勿論、これも仕事の一環だ。
フィアは自分の仕事から手を抜かない。故に、求められている以上の結果を出すのは当然のこと。決して、彼の喜ぶ姿が見たいからなどではない。
レオンハルトから渡されている食費の一部を八百屋の店主に払い、フィアは色のいいリンゴをいくつか買った。
そうして他にも市場を見て回ろうと、身体を後ろに向けたその時。
「──」
背中にトン、と硬い何かが当たった。
フィアはその場で立ち止まった。顔を動かさずに、視線だけを背後に向ける。
そこには黒いフードを被った、細身の男が立っていた。
彼の手に握られているのはナイフだ。彼はフィアの背にその刃物を突き立てていた。──分厚い革鞘に覆われた、至極安全な状態で。
「……シタ?」
フィアは思い当たる名前を口にした。
するとフードの男は喉の奥からクツクツと音を鳴らし、そしてフィアの真正面へと躍り出た。
「正ッ解!」
シタ──それはフィアの同僚にあたる男の名だ。
乾いた血のように暗い赤毛と、悪戯好きの子供を思わせる八重歯が特徴的なその男は、フィアと同じ組織に務めている、いわば“商品”の一人である。
ただしフィアとは異なり、彼の専門は「殺し」だ。
組織に取り揃えられている商品たちの専門は多種多様で、要するに法外な料金さえ払えばどんな後ろ暗いことでも請け負える仕組みになっているのだ。シタはその黒い部分を担う一人である。
フィアは彼の服をこっそりと掴み、薄暗い路地の隙間へと引っ張っていった。人目のある所で彼と話すのはよろしくないからだ。彼も上司に「あまり表に顔を見せないように」と言われているはずなのだが……まあ、彼の傍若無人な振る舞いはいつものことだ。
「随分楽しそうじゃんか」
革鞘に収まったままのナイフを手の中で遊ばせながら、シタは面白い玩具を見つけたような顔をして言った。
フィアは顔色を変えず、抑揚のない声で答える。
「私は与えられた仕事をこなしているだけです」
「果物の目利きをすることが? かーっ、楽でいいねえ!」
「喧嘩を売っているんですか?」
真顔で見上げると、シタは両手を挙げて肩を竦めた。
「そんなに冷たい目ぇすんなよ。俺が今までどんだけお前に狂わされた男共……女も何人か居たっけか? とにかくお前を独り占めしたくておかしくなった奴らをお片付けしてやったと思ってんの?」
「私のため、みたいな口振りはやめてください。あの人の命令がなければ、私が隣で首を絞められていようが平気で居眠りするくせに」
依頼人が客の領分を超えてフィアを所有しようとする、というのは珍しくもない話だった。期限が来てもフィアを手放そうとせず、対価なしの愛と献身を求めてくることがある。そういう時に、契約を違えた客を処分するのもシタの役目だった。
シタは口笛を吹きながら壁にもたれかかった。そしてフィアの顔を覗き込み、狐のように目を細くする。
「そうそう。その俺らの“お父様”から、お前に伝言」
その口振りに、フィアは眉を寄せる。
「……その呼び方はやめて。あの人は父親でも何でもないでしょう」
「そうか? でも俺たちを育てたのはあの人なわけだしぃ。ボロボロのガキだった俺がここまで立派に育ったのはあの人のお陰じゃん? それってつまり、“家族”ってことじゃね?」
「私たちはただの商品です。あの人は親ではなく上司よ」
「……ハイハーイ。分かってますよーだ」
シタは唇を尖らせ、叱られた子供のような拗ねた表情を浮かべた。フィアは彼の冗談めかした態度を視線で咎め、話の続きを催促する。
「それで? 伝言とは?」
「そろそろ本部に戻ってこいってさ」
「──」
シタは頭の後ろで腕を組みながら言った。
「ナントカ商会のお得意様……ほら、あのデブのオッサンだよ。金持ちで、いかにも~って感じの悪趣味な!」
「ああ……」
「お前がイケメン勇者様に独占されてるせいで、随分とまあオカンムリだそうだぜ。いやあ、モテる女は大変だねえ」
他人事のように笑う彼の前で、表情を崩さないように静かに深呼吸をする。
買ったばかりのリンゴの入った網のかごが、フィアの指先で緩やかに揺れた。
「……お前も分かってんだろ。このままじゃ破滅するぜ、あの勇者様」
シタに耳元で囁かれる。
彼の顔からは笑顔が消えていた。珍しく真剣な声色だった。
「どれだけお前の貸出を延長してると思ってんだ。お前を一日借りるだけでどんだけ金が消えるか分かってんの? お前はアイツを借金地獄に落としたいわけ?」
「……分かっています」
そんなことは分かっている。
呼び戻されたなら、留まる理由もない。遅かれ早かれ、仕事が終わる日はいつかやってくるのだ。
そもそも、彼が無理をしていたことだって知っていた。毎日毎日ギルドへ行って、危険度の高い依頼ばかりをいくつも受けて、そうして傷だらけになって帰ってくるのは、そうでもしないとこの生活を維持するための費用が賄えないからだ。
「わかってます……」
この日々を終わらせない理由なんてない。
レオンハルトにとっても、その方が良いだろう。もしも彼のためを思うなら、もっと早くに強引にでも手を切るべきだった。
そうしなかったのは、フィアが彼の人生に無関心だったからに違いない。
× × ×
「それでは、長らくの間お疲れ様でした」
別れの言葉は、三年前の旅の終わりとほとんど同じだった。
フィアの胸に、仕事を終わらせた時の達成感は微塵も沸いてこなかった。むしろ、やけに身体が重い。その不気味な閉塞感に蓋をする。
できる限り、レオンハルトと目を合わせないようにした。どうせまたあの、捨てられた子犬のような目をしているのだ。フィアはあの眼差しが苦手だった。
必要なことは全て伝えた。これ以上、フィアがこの家に残る理由はなかった。
元々、彼との契約はそういうものだったのだ。彼よりも高い金を出せる客が現れたら、そちらを優先する。切ろうと思えばいつでも切れる細い糸。
「……なんですか」
それなのに、手首を掴まれる。掴むと言うにはあまりにも頼りない力で。
フィアは彼に背を向けたまま、「離してください」と言った。
「……私、暇じゃないんです。さっき言いましたよね。私には次の仕事があるんです」
「──」
「これは営業妨害です。邪魔をしないでください」
フィアはきっぱりと言った。
それなのに、いつまで経っても手が離されることはない。苛々する。こちらに侵食してくる体温も、手汗も、何もかもが不愉快極まりない。
「……か、金なら、いくらでも出す」
挙句の果てに、彼はそんなことを口走る始末だ。
フィアは彼の手を払い、振り返って彼の顔を見た。
「簡単に言わないでください。一文無しになるつもりですか」
「も、もっと頑張って稼ぐから!」
「っ、馬鹿なこと言わないで!」
ああ、本当に、どうしてこうも愚かなのだろう。
愛だの恋だの、そんなくだらないもののために身を滅ぼしかねない彼の空回りを見ていると吐き気が込み上げてくる。
フィアが他人を愛するのは、安定した生活と、安眠と、安心のためだ。
けれど彼は? 彼は何の見返りを求めて「愛してる」だなんて言葉を吐くのだろう?
「今まで仕事だから我慢して言いませんでしたけど! あなたのそういう所が、ずっと理解できなくて気持ち悪かった!」
「き、気持ち、」
「欲を満たしたいならそう命じればいいじゃないですか!? 見返りを求めないフリなんてやめてくださいよ!」
ずっと身体の底に溜めていた不満が破裂する。
気味が悪かったのだ。彼の「愛してる」が、あまりにも理解できなかったから。
彼のそれが愛だなんて認めない。認められない。だって認めてしまえば、フィアが他人に抱く「愛」は。
「俺は、そんなことを、してほしいわけじゃ……」
「じゃあ何ですか? あなたは私を留めて何がしたいんです!?」
髪を掻き毟りながら叫ぶ。
レオンハルトは息を詰め、それから弱弱しい声で言った。
「……お前に、好きでもない人を、好きになってほしくない」
「──は」
何それ、と、フィアは思った。
「……何様のつもりですか」
「ご、めん」
「あなたに何の権利があって制限されなくちゃならないんですか。これが私の人生なのに。私が生きていく方法なのに!」
「ふぃ、あ、俺は、」
「ふざけないで! 馬鹿馬鹿しい!」
フィアは彼の胸倉を掴んだ。
込み上げてくる怒りを抑えられなかった。
「結局あなたが言いたいのは、“自分を見てほしい”だとか“自分を愛してほしい”だとか、そういうことでしょう!?」
「──」
「それを、まるで私のためみたいな綺麗ごとで隠して! 自分を好きになってもらいたいだけのくせに! 支配して手元に置いておきたいだけのくせに!」
フィアは彼の胸を何度も強く叩いた。
そして彼を見上げて、顔を酷く歪める。
「……なんですか、その目」
フィアには他人の美醜が分からない。分からなくなるように教育された。
痩せてるだとか、太っているだとか、良い匂いがするとか、悪臭がするとか、そういう他人を評価する物差しをゴミ箱に捨てるよう指示されて育った。
容姿の良し悪しや清潔感の有無で顧客に差をつけていては、誰にでも愛を振り撒けないからだ。
けれど、彼の顔立ちが恵まれたものであるということは分かる。
分かるからこそ腹が立つ。
「っ、その被害者面! 本ッ当に大嫌い!!」
容姿に恵まれて、剣の才能があって、不器用でいることを許されるような環境で育ってきて、それなのに「自分は一方的に傷つけられました」という札を首からぶら下げている。
もう、何もかもが癪に障る。
「……一人で生きていけるくらい強い人が、傷ついた顔なんてしないでよ……」
× × ×
その後、レオンハルトがどんな顔をしていたのかは知らない。
振り返ることもなく、彼の元から立ち去ったからだ。
言葉の刃で滅多刺しにしたからか、彼がフィアの後を追ってくることはなかった。
「おかえり、フィア」
指示通りに戻ってきたフィアの頭を、上司は親が子を褒める時のように撫でた。
けれど、そこに温もりはない。彼にとってはこれもただの事務作業なのだろう。
それでいい。久しぶりに浴びる、何の情もない会話と触れ合いに、ささくれだっていた心が落ち着いていく。
「シタから話は聞いているな? 次の客がお前を求めている」
「はい」
「一人の客だけを贔屓するわけにはいかないからな」
「はい」
「お前の仕事は分かっているな?」
「はい」
「それならいい。いつも通り、求められるままに尽くしてきなさい」
「……はい」
ありふれた日常が帰ってきたのだ。
フィアにとってはこちらの方が「普通」で、レオンハルトの傍で過ごしていた時間こそが「異常」だった。
だからフィアは何も感じない。感じないようにできている。フィアの心が動くのは、誰かを愛さねばならない時だけなのだ。
次の客はフィアのお得意様で、巨大な商会を牛耳っている男だった。
身体は熊のように大きく、その腹や顎は贅沢を象徴するかのような脂肪で覆われている。年はフィアよりも二回りほど上で、フィアと同じ年頃の娘が四人いるはずだ。
──ああ、なんて素敵なんだろう!
その逞しい身体付きも! 肌の上を這い回るような熱烈な眼差しも! 野心に満ちた笑顔も! 耳に張り付くほど魅力的な声も!
何もかもが完璧。震えるほどにチャーミング。鳥肌が立つほど愛おしい。私はきっと、この人に出会うために生まれてきた。心の底からそう言える。
豪奢な天蓋つきのベッドの上で、フィアはうっとりとその男を見つめた。
「全く。お前を手配させるのにこれほど時間がかかるとは」
「申し訳ありません。私も、早くあなたさまにお会いしたかったのです……」
彼を煩わせるとは、なんて罪深い。どうして私は早く彼の元へと馳せ参じられなかったのだろう。愛する人の傍に居るのは当然のことなのに。
「まあいい。その分はお前の愛で償ってもらうとしよう」
「はい。あなたさまのお気に召すままに」
彼は大仕事の前になると、いつもフィアを呼びつける。フィアが愛する者は幸運にも恵まれるのだ。この力が彼のお役に立てるなら、それ以上に喜ばしいことなどない。
しかし彼はただフィアの力を求めるだけでなく、フィア自身のことも大層気にかけてくれている。どんな命令にも逆らわず、健気に尽くすその従順さを気に入ってくれたようだ。
「ほれ、こっちへ来い」
「はい。失礼いたします」
「存分に可愛がってやろう。愛しいフィア……」
頬を撫でられる感覚に、フィアは恍惚として目を閉じた。
『──お前に、好きでもない人を、好きになってほしくない』
ふと、耳障りな声が聞こえた。
お節介でありがた迷惑、頼んでもいない心配の声が。
フィアはより硬く目を瞑り、その声を頭の中から追い払おうとする。
……ああ、でも。
普通の人は、好きな人を、好きになるのか。
それって、どんな感じなんだろう。
自分で好きになる人を選べるって、どういう気持ち?
その権利って、どこで手に入れられるんだろう。皆は、生まれた時から持っていたの?
私のそれは、どこに消えちゃったんだろう。
「……私も、」
私だって。
私だって……。
「私も、あなたさまを愛しています」
……私だって、何?
フィアは血が滲むほど強く、自分の唇を噛みしめた。
× × ×
「酷い顔だな」
「……すみません」
フィアはただ頭を下げることしかできなかった。
その右頬は青紫色に腫れている。誰かに強く殴られたような、という言葉が相応しい有様であり、実際その通りだ。
上司は頭を下げるフィアを見て、ため息の一つもつかなかった。
それがまだフィアに失望していないことの証なのか、それともため息をつく労力すら惜しいと思うほど落胆しているからなのか、フィアには判別がつかなかった。
何せ、フィアが仕事に失敗したのは、これが初めてのことだったからだ。
フィアは客の期待に応えることができなかった。
大金を積んでフィアを買ったにも関わらず、商会の主である男は望んだ結果を得られなかったのだ。彼に訪れた幸運は些細なもので、彼の求める成功を引き寄せるほど劇的ではなかった。以前と比べ、フィアの能力が酷く衰えているのは一目瞭然だった。
その期待外れの成果に彼は激怒し、フィアを罵倒と共に殴りつけた。
フィアはひたすらに謝罪することしかできなかった。
「……フィア」
「はい」
「お前の力は、とても繊細だ。お前が愛する者はたった一人でなければならない。その感情が少しでも揺らげば、お前の力は途端に脆弱になる」
フィアは床と目を合わせながら、自分の額から一筋の汗が落ちて行くのを感じた。
「──気を取られている相手がいるな?」
違う、と首を横に振りたい。
けれど自分がしでかした失敗が、彼の言葉が真実であると裏付けていた。
心臓が変な音を立てて、唇が真っ白になるのが分かる。
「……情でも湧いたか?」
「す、みま、せん」
「お前は利口な子だと思っていたんだがな」
足元が揺らぐ。一体何と返せばいいのだろう。どうすればいい。
フィアは、レオンハルトを愛してなどいない。けれど、確かに彼の存在はいつの間にか心の隙間に入り込んでいたのだ。
それは、フィアの強固な自己暗示を、たった一人にのみ捧げられるべき盲目的な愛を揺るがすに足るものだった。
フィアは自身の価値が損なわれたことを理解し、自分の首が刎ねられる覚悟をした。
しかし一転、突然上司の声色が優しいものになる。
「……まあいい」
「……え?」
「お前のそれは、まだ取り返しのつくものだ。そうだな?」
穏やかな声でそう言われ、フィアは頷くことしかできない。
「邪魔な芽は早いうちに摘んでしまえばいい。そうすればお前は元に戻るだろう」
「……ぁ」
「シタ」
彼が名を呼ぶと、どこからともなく暗い赤毛の男が現れる。
彼がフィアに向ける眼差しには、淡い哀れみが含まれていた。
「あの子についた悪い虫を取り除いてやりなさい」
「──」
それはつまり、要するに。
「殺してこいってことですよね?」
「──、」
「相手はあの勇者様ですか? いーですよ。いつもと同じようにサクッとやってきまーす」
シタが笑って言う。
レオンハルトさえ居なくなれば、フィアは元に戻る。故障した原因を取り除けば、前と同じように使うことができる。
それが冗談などではないことを、フィアははっきりと理解していた。フィアは大切にされている。勿論、優秀な“道具”としてだ。そんな大事な道具の手入れのためなら、彼らは迷わず人を殺せる。
レオンハルトは名の知れた英雄だ。
けれど、こちらにはいくらでも後ろ暗い繋がりがある。たとえば彼の死を、「強力なモンスターとの戦闘中に惜しくも命を落とした」だなどと捏造することだって簡単にできるだろう。
だから、これは脅しなどではない。
彼らは本気だ。本気でレオンハルトを殺すつもりだ。金を生む機械であるフィアを直すためならば、彼の命などどうなってもいいと考えているのだ。
フィアは自分の足元を見た。
それから、自分の意志に反して唇が開いた。自分が何を言い出すのか、自分事なのに分かっていなかった。
「──待ってください」
項に汗が伝う。その感触が気持ち悪い。
上司の視線がこちらへ向く。それは針のように鋭い眼差しだった。恐らく彼は、制止の言葉を口にしたフィアを咎めようとしていた。
しかし、その必要はない。
「それなら、私がやります」
続けて口にしたのが、「手を汚すなら自分であるべきだ」という提案だったからだ。
言い切ったあとで、フィアはいつもの微笑ではない、歪んだ嘲りの笑顔を浮かべた。
「彼を殺さないでください」だとか、「そんなのは間違っています」だとか、そういう言葉を吐くべきだったのだろう。けれどフィアの口をついて出たのは、呆気なく彼を切り捨てる覚悟だった。
二年の旅と、それから少しの同居生活。
恐らくフィアの人生においてもっとも穏やかであっただろうその日々の中で、フィアは彼の人となりを知った。
レオンハルトは、紛うことなき善人だ。
確かに彼は不器用で、ぶっきらぼうで、心を許していない相手には冷淡だ。しかし彼が剣を振るのはいつだって困っている人を助けるためで、いつ命を落としてもおかしくない戦いの場に躊躇うことなく駆け付ける勇気を持っていた。
決して、その命を粗末に扱われていいような人間ではない。
それが──。
それが、なんだというのだ?
だって、仕方がないじゃないか。
そうしなければ、これからのフィアの人生は狂ってしまうのだ。言われた通りに誰かを愛せない自分に価値なんてない。この才能を失くしてしまえば、自分はただのガラクタだ。使い物にならなくなった道具の末路など、分かり切っている。
ならば、躊躇う必要などない。フィアは自分の人生のために、レオンハルトを容易く切り捨てる。
たとえ彼がお人好しで、何の罪もない善人で、何度も「愛してる」と告白してくれたからといって、それが何だ。
自分の人生を一番に考えて何が悪いのだ。誰だって結局一番かわいいのは自分自身だろう。
皆誰かを利用して生きている。それが賢い生き方なのだと教わってきた。
それ以外の生き方なんて、知らない。
フィアは薄く微笑みながら、「第一に、」と言った。
「シタでは多分、あの人を殺せません。いくらシタが殺しの天才とは言え、レオン様相手では分が悪すぎます」
「……んでも、お前ならヤれるって?」
「あの人が私を疑うはずないので」
フィアがそう言うと、シタは鼻を鳴らした。
しかしこれは真面目な提言なのだ。フィアはレオンハルトの実力をよく知っている。だからたとえ不意をついて襲い掛かったとしても、シタの勝ち目は薄いだろうと断言できる。
けれど、フィアから見れば彼は隙だらけだ。
彼がフィアに心を許し切っていることは明らかだ。フィアが与えるものであれば、たとえ毒の杯だろうと疑うことなく飲み干すだろう。
「第二に。情の芽を摘むと言うのなら、それこそ私の手でやるべきでしょう」
彼が殺される所を指を咥えて見ているだけでは、きっと真の意味で彼への情を断ち切ったことにはならない。
己の手で区切りをつけない限り、意味がないのだ。
これまで直接自分の手を汚したことこそないけれど、人が目の前で死ぬ瞬間なら何度も見てきた。
それ以上に汚いことだってやってきたのだから、今更殺しを躊躇する理由なんてない。
「できるのか?」
上司にそう問われ、フィアは完璧な微笑みを返した。
フィアは彼を殺せる。その自信があった。
それは自惚れなどではない。何故ならフィアは、愛がどれほど人を愚かにするかということを知っていたからだ。
仮にレオンハルトが世界で一番強い人間だったとしても、彼が愛などというくだらないものに振り回されている限り、フィアは彼に致命傷を与えられるだろう。
愛した女に殺されるのだと理解した時、彼はどんな顔をするだろうか。
やっと憎んでくれるだろうか。
愛想を尽かしてくれるだろうか。
そうだ。きっと自分は、彼の愛とやらを踏み躙ってやりたかったのだ。
だって、そんなものが自分に向けられていいはずがない。自分にそんな価値があるはずがない。それを認めてしまえば、きっと自分は二度とまともに立てなくなる。
だから恨まれたかった。彼に憎まれるためなら、彼を殺すことだって厭わない。彼の愛が冷めてくれれば、やっとフィアは心から安堵できるはずなのだ。
× × ×
彼の家までの道程は、すっかりフィアの頭に住み着いてしまっていた。
今から自分は、後戻りのできない一線を踏み越える。だと言うのに、フィアの心臓は穏やかな休日の朝のように落ち着いている。きっと自分の心には血が通っていないのだろう。
「こんにちは、レオン様」
扉を開けてにっこり笑うと、レオンハルトは驚きのあまりその場で飛び上がった。
彼の顔には動揺と、困惑と、それから飼い主が旅行から帰ってきた時の犬のような喜色が浮かんでいる。
あれだけ酷い別れ方をしたというのに、フィアに怒っている様子も、拒絶する素振りも見当たらない。それがまた一層、フィアの心を荒立たせる。
けれどそんな感情の揺らぎを完璧に皮膚の下へと押し込んで、フィアはしずしずと頭を下げた。
「先日は、失礼なことを言って大変申し訳ありませんでした」
「い、いいんだ……! そんなの気にしないでくれ!」
レオンハルトは激しく首を横に振った。そしていとも容易くフィアを家の中へ招き、嬉しそうにフィアの方へと顔を向ける。
「本当に、今度こそ二度と会えないかもしれないと思ったんだ」
フィアは返事をしなかった。
その代わりに指に吊り下げていた網かごを抱き上げて、彼の前で目を細める。
かごの中にはワインのボトルが入っていて、その上に薄い布がかけられている。
「お詫びがしたくて買ってきたんです」
「そ、そんな……! 俺のために……!?」
レオンハルトは感激した様子で目を潤ませた。
全く、嫌になるほど都合がいい。こんなに騙されやすくて、よくもまあこれまで五体満足で生きてこられたものだ。
フィアが「一緒に飲みませんか」と言えば、彼は一も二もなく首を縦に振った。
勿論、このワインには毒が入っている。
それも一口飲めばたちまち全身が麻痺し、たとえどんなに巨大な猛獣であったとしても死に至るような猛毒だ。裏のルートを使って組織の人間に用意させたものなので、その効果は折り紙付きである。
どこの棚に食器が仕舞っているのかが、手に取るように分かる。だからフィアは、迷いなくワイングラスを取り出した。
どうやらフィアが片付けた時から、一切位置を動かしていないようだ。全く、ちゃんと一人でも生活できていたのだろうか。また自分を蔑ろにして、ろくに栄養のないものばかり食べていたのではないだろうな。
そんなことを考えながら、グラスに並々と毒入りのワインを注ぐ。血のように赤い液体が器を満たしていく。彼の前にそのグラスを置く。
フィアは彼の黒い瞳をじっと見つめた。その目に警戒の色はない。
早く口をつけて、と思うと同時に、無意味に祈っている自分が居た。彼が手を滑らせて、そのグラスを床に落としてしまうことを。
その光景を脳裏に描くことを、フィアは「そうなったらどうしよう」という不安の一つだと解釈する。
けれど、そんな不安と期待を裏切って、レオンハルトは疑うことなくそのグラスに口をつけた。
真っ赤な液体が、彼の内側へと入り込んでいく。
「──、」
フィアは彼から目を離さなかった。
彼の身体が傾いていく瞬間を目に焼き付けた。酷い音を立てて椅子が転がり、レオンハルトが床に倒れ込む。
彼は何かを言おうとして、けれど開いた唇の隙間からは、声ではなく血が溢れ出した。唇が青紫色になって、酷く瞼が痙攣している。
それでも尚、濁っていく彼の瞳に、フィアを責めるような色は見当たらない。
フィアは静かに立ち上がり、血を吐いて倒れた彼の前でしゃがみ込んだ。
「状況。ちゃんと、分かってますか」
「──」
「あなたは私に毒を盛られたんです。レオン様は、私に殺されるんですよ」
彼の顔を両手で包み、自分の方へと向ける。
高説を垂れるのは、彼には憎悪を抱く義務があるのだと分かってほしかったからだ。恨み言の一つも聞けないまま死なれてしまっては、わざわざ自分で手にかけた意味がない。
「なんでそんなことを? って思ってますか」
「──ぅ、ぁ」
「端的に言うと、邪魔だったからです。あなたが居ると、私の人生設計が狂ってしまうんですよ」
彼の顔を見つめながら、身勝手な殺人の動機をつらつらと述べる。
「私の存在価値って、誰でもすぐに愛せることだけなんです。なのにあなたのせいで、上手く愛せなくなっちゃったじゃないですか。あなたが変なことばっかり言うから。あなたが私の心に勝手に入り込んでくるから!」
「……ふぃ、ぁ、」
「だから、こうするしかなかったんです! だってあなたを殺さないと、私、これからどうやって生きていけばいいのか分からない!!」
……違う。
こんなことを言いたいわけじゃない。こんな悲鳴みたいな声を上げたいわけじゃない。
もっと憎たらしいことを言って、彼の罵声で呪われたいのに。
「ほら、ほら! 私が憎いでしょう!? あなたが愛していたのは、こんな身勝手な理由であなたの命を奪える女なんですよ!?」
フィアは、彼のことなんて愛していない。
その証拠に、フィアは彼を手にかけられる。一体この世界のどこに、愛した人を迷わず殺せる者が居るというのだろうか。
殺せるんだから、愛していない。
殺せなくなる前に、終わらせられたのだ。
「……本当っ。ほんとうにっ、馬鹿な人、」
だから、この涙は何かの間違いだ。
自分に泣く権利なんてない。意味も理由もない。自分で殺しておいて、悲しむだなんて筋が通らない。
レオンハルトの意識はもうない。彼の目はもうこの世のどこも捉えていない。結局、最期の最後まで、彼はフィアを呪わなかった。
それがあまりにも腹立たしくて、苛々して、癪に障る。
「馬鹿、バカ! ばかじゃないですか!? なんで私なんか信じるんですか! なんで疑わないんですか!!」
何度も何度も床を叩く。爪が手の肉に食い込んで、血が滲む。
「恋だの、愛だの、そんなくだらないものに振り回されて! そんなもののために、わたしは、わたしはっ、」
殺してしまった。
何の罪もない人を。
花束をくれた人を。懸命に料理を作ってくれた人を。「美味しい」の一言だけで涙が出るほど喜んでくれた人を。
今更彼の顔ばかりが頭に浮かぶ。
一度心を許した相手には、案外コロコロと変わる彼の表情が、多分そんなに嫌いじゃなかった。
「……レオンさま」
目を硬く閉じたまま呼びかける。
返事など、あるはずがない。
それを永遠に奪ったのは自分だ。
もう彼は、目を開くことも、喋ることも、笑うこともない。
ない、のに。
────?
なら、今感じている、この温もりは何?
「──え?」
フィアは目を開いた。
そうして気が付いたのだ。
自分が抱きしめられていることに。
倒れていたはずのレオンハルトに、いつの間にか抱きすくめられて、背中を摩られていた。
「な、んで、」
「──愛してる」
聞こえるはずのない声が、言われるはずのない言葉となって、フィアの耳元に落ちてくる。
「好きだ。フィア」
「な、なに、言って、」
「かわいい。好きだ。愛してる」
「は、はぁっ? い、意味が、分からな、」
「お前に殺されたって、俺はお前のことが好きだ」
気がおかしくなりそうだった。
何もかもが意味不明で、少しも理解できない。殺したはずの男に抱きしめられていることも、恨まれるべきはずの男に愛の言葉を囁かれていることも。
これは悪趣味な幻覚なのだろうか?
彼の身体には確かに毒が回っていたはずだ。たとえレオンハルトがどれほど優れた剣士だろうと、どれほど身体を鍛えていようと、あれだけの猛毒を飲んで無事でいられるわけがない。
「分からないのか?」
レオンハルトが言う。
フィアは顔を上げた。彼を見つめた。
分からない。分かるわけがないだろう。
彼が生きている理由なんて、そんなもの。
「お前が、俺を愛しているからだ」
────はっ?
「…………違います」
「違わない!」
「違います。絶対違う!」
「ち、ちがわない! 絶対そうだ!」
「そんなわけありません! これはそのー、あのー、なんか実は凄い毒耐性とか持ってたんでしょう! あなたが!」
「そんなん持ってないわ! 普通にアホほどキツくて死ぬかと思ったぞ!」
口から垂れた血を拭いながら、レオンハルトはフィアを指さした。
「お前は! お前が愛した者に色んな力を与えるんだろう!? その力のお陰で、俺は毒に耐えられて助かったんだ!」
「ちっ、違います! そんなはずないですから!」
「なんでそう頑なに否定するんだ! そ、そんなに俺を愛するのは嫌か…………?」
「嫌っ? イヤ、というか、そういう、ことじゃ……」
「じゃあ何だ!」
「……こ、これが、愛なわけないじゃないですか!」
フィアは髪を振り乱して訴えた。
彼を愛しているわけがない。だって彼に抱いている感情は、フィアの知っている“愛”の定義とあまりにかけ離れているからだ。
「だ、だって、私、全然、あなたにキスしたいなんて思わない……!」
「ゔッ……そ、そうか」
「別に一緒に居てもドキドキしませんし、全然ときめきませんし」
「なあ、これ俺が凄くフラれる回か?」
「それに、嫌なことされたら、ちゃんと嫌って言えます」
「──」
「でも、何でも受け入れられなきゃ“愛してる”ってことにはならないでしょう?」
愛とはそういうものなのだと、フィアは信じている。
実際、これまではずっとそれで機能してきたのだ。それでフィアの能力は成立していたのだから、その定義が間違っているはずはない。
だから、これは愛なんかじゃない。
「私があなたに思っていることなんて……毎日あったかいごはんを食べてほしいとか。怪我せず、無事に帰ってきてほしいとか。ちゃんと、自分のこと大事にしてほしいとか。それくらいのことなんです。それだけなんです」
「──、」
「なんですか。その間抜け面は」
「……フィア」
「……はい」
「それはな」
「はい?」
「それは、“すごく愛してる”ってことだ」
「…………は?」
耳まで顔を赤くした彼が、両手で顔を覆って言う。
フィアは呆気に取られた。
「……はぁっ? こ、これのどこが!?」
「なあ、フィア。俺だって、そんなに詳しいわけじゃないけどな。愛にも、沢山種類があるんじゃないか?」
「──は、」
「俺は、その……お前のことが、恋愛的な意味で好きだ。できれば結婚したいし、き、キスもしてみたい」
「は、はあ」
「でも、そうじゃない愛だってあるに決まってる」
レオンハルトは、フィアの肩に優しく手を置いた。そこには何の加害性も、下心もない。それはただフィアを安心させるためだけの触れ合いだった。
「友愛とか、親愛とか、家族愛とか……お前が俺に向けてくれてるのは、多分そういう愛なんだろう」
「──」
「そりゃ、両想いになれると嬉しい。でも、無理して受け入れてほしいなんて思わない。同じ気持ちじゃなくていいから傍に居たい」
「……私、あなたのこと、愛してるんですか」
「そうだと嬉しいから、そうだと思う」
馬鹿馬鹿しいほど潔い答えだった。フィアは「は、」と息を吐いて、彼をじっと見上げた。
「……そもそも、何で幻滅してないんですか」
「幻滅?」
「私、あなたを殺そうとしたんですよ? 普通、自分を殺そうとしてきた女のことを愛せます?」
「だって、その分助けてもらったし」
「はぁ?」
フィアは顔を顰めた。全く意味が分からない。
「助けた? いつ?」
「俺が死ななかったのはフィアのお陰だ」
「……私が殺そうとしたのに?」
「それでも、助けてもらったことには変わりない」
「マッチポンプが過ぎますよ」
「かもな。でも嬉しかった」
当たり前のように言われて、急に毒気が抜けた。
レオンハルトは本気で言っている。むしろ感謝の念すら抱いていそうなその顔を見て、フィアは長いため息をついた。
「……そんなにチョロくて大丈夫ですか? そのうち悪い女に付け込まれますよ。騙されて毒を盛られたらどうするんですか」
「それは絶対にない。だって俺は一途だからな」
「──」
胸を張って言い切られる。
あまりに自信満々に言われたもので、フィアは何も言葉を返すことができなかった。
レオンハルトは腕を伸ばし、割れたグラスの破片でフィアが肌を切ってしまわないように、フィアの手を取って離れた場所まで連れて行った。
フィアは彼の背中を見つめて、それから「レオン様」と呟く。
彼が立ち止まり、振り返る。
「私、もう、好きじゃない人を好きになりたくないです」
「……そうか」
ずっと言いたかったことが、喉の奥からころりと転がり出て行った。その途端に、身体についていたおもりが消えたような感覚がする。
「ずっと、ずっと、本当は嫌でした」
「……うん」
「触られたくなかった。気持ち悪かった。皆が私を物みたいに扱うのが嫌いだった。私は、私だって、人間なのに」
「うん。うん、」
「でも、そんなこと言ったら捨てられるから。要らない子だって、思われたくなかったから。だから、ずっと我慢してたんです」
「……」
「でも……でも。誰を愛するかくらい、自分で決めたいの」
フィアは困ったように笑い、彼の服の端を引っ張って言った。
「レオン様」
「ああ」
「私を、助けてくれませんか?」
生まれて初めて、誰かを頼った。
何の見返りも差し出せないけれど、自分一人の力では何もできないから、手を伸ばしてみた。
利用するでも騙すでもなく、ただ「助けて」と呟いてみる。清々しい気分だ。
そうしてフィアが見上げれば、レオンハルトの頬に朱が差した。彼は長い睫毛を伏せ、自分の胸を強く叩く。
「ああ、勿論だ。たとえ敵が世界だろうが何だろうが、俺はお前を助けてみせる!」
「それはちょっと自信過剰では?」
フィアは眉を寄せながら言った。しかし彼は首を横に振る。そして上機嫌にピースをした。
「俺は今、好きな子に愛されて最強なんだぞ?」
と言って、子供みたいに歯を見せて笑いながら。
× × ×
自分が育った場所に執着心などない。楽しい記憶などなかったのだから当然だ。この屋敷には、厳しい教育と、感情を削り落とす折檻の思い出ばかりが詰まっている。
しかし、やはり、憎いわけではないのだから不思議だ。自分がされたことを思い返せば恨んでいてもおかしくないのに、全てを壊してやりたい衝動など湧き上がってこない。多分、憎むだけの気力が残っていないのだろう。
それでもこの場所に戻ってきたのは、これまでの人生のほとんど全てだった職場にすっきりと退職届を叩きつけるためだった。
「わあ。壮観ですねえ」
無礼な侵入者を排除しようと斬りかかってくる警備兵たちを、じゃれてくる親戚の子供と遊ぶような気軽さで投げ飛ばすレオンハルトを眺めながら、フィアは観客席に座っているような顔をして呟いた。
組織の本部は厳重な警備によって守られている。恨みばかり買うような仕事をしているので、それも当然のことだ。
無関係な人間は辿り着くことすらできないような仕掛けが施されているし、たとえ侵入できたとしても苛烈な教育によって作り上げられた“道具”たちが絶え間なく襲い掛かってくる。
しかしそんな手厚い守りも、レオンハルトの手にかかれば紙切れ同然だ。その剣捌きは、三年前に邪竜と戦っていた時よりも遥かに冴え渡っている。
「さあ。行くか」
難なく危険を排除して、彼はフィアへと手を伸ばした。フィアはそんな彼をまじまじと見て、ちょっとだけ腹立たしい気分になる。ムカつくくらいに彼が格好良かったからだ。
「くっ……この人は勝手に私の絵を部屋に飾ってあるような人なのに……!」
「な、なんで今それを掘り返した!?」
レオンハルトは味方に後ろから刺されたような顔をして叫んだ。そんな彼の動揺には目もくれず、フィアは彼の普段の行いを思い出して精神のバランスを取る。
長い廊下を並んで歩き、一際厳重に守られた扉の前に立つ。この部屋に入る権利を与えられているのは、組織の中でも一握りだけだ。フィアもかつてはその一人だった。裏切りに気付かれているだろう今となっては、その資格も失われているだろうが。
だがまあ、隣に立つ規格外の権化のような男の存在があれば、どんなに強固な鍵も意味を成さないだろうが。
執務室の椅子に座っている上司は、扉を開いたフィアを見ても顔色一つ変えなかった。
彼の眉はいつも通り地面と平行線を描いていて、彼が他人と一生心を交えることなどないことを示している。
常に目の下に真っ黒な隈を貼り付け、光のない瞳で執念深く辺りを見回している彼。
どれだけの富を掻き集め、意匠を凝らした調度品に囲まれていても、ただの一度も幸福の匂いを漂わせたことのない男。
彼がこれまでどんな人生を歩んできて、どうやって彼という人間が構成されるに至ったのか、フィアは知らない。それ相応の不幸があったのかもしれないし、彼という人間は生まれた時からそうなのかもしれない。その答えを知ろうとするつもりもない。
フィアにとって彼は、ただの上司でしかないのだから。
「……やはり、殺せなかったか」
彼の目には何の感情も浮かんでいなかった。
予想していた通りの結末を迎えた小説を、退屈そうに閉じるみたいに、彼はフィアを眺めていた。
それから彼は、「育て方を間違えたな」と抑揚のない声で呟いた。
隣に立つレオンハルトから殺気が迸るのを、フィアは感じ取った。そんな彼が怒り狂った犬のごとく飛び出してしまわないよう、片手を伸ばして制止する。
「……それで、何をしに来た?」
瞬きの一つもせずに、上司が尋ねてくる。わざわざレオンハルトを引き連れて、この屋敷に乗り込んできたフィアの意図を探っているのだろう。
その問いかけに、フィアはいつも通りの遊びのない笑みを浮かべて答える。
「それは勿論、退職の挨拶です」
「──」
「何しろ、二十年以上勤めてきた場所ですから。ご挨拶もなしに辞めるなんて、ちょっとマナーが悪いでしょう?」
「……それで、本命の用事は?」
「脅しに来ました」
フィアは平然と言った。
そこまで言ってもやはり、上司の顔に動揺は見られなかった。
「この先私を無理に連れ戻そうとしたり、私たちに危害を加えようとすることがあれば、容赦なく叩きのめします。この人が」
フィアはレオンハルトの背中を押した。押された彼は自慢げに腕を組み、鼻を鳴らした。
「ご存じでしょうけど、この人は滅茶苦茶強いです。それに、不本意ではありますが……私は、この人のことを愛してしまっているようなので」
きっと世界中の誰にも彼を止めることはできないだろう。まさに最強という言葉が相応しい。
ただでさえ強い彼をフィアが愛すれば、それはもう鬼に金棒も同然だ。
フィアは忠告をしにやってきたのだ。これから先、自分たちに手出しをしようものなら徹底的に叩き潰すと。自分たちを追い詰めようとしても無駄だということを伝えに来た。
すると上司は、一拍の間を置いてから、微かなため息と共に呟いた。
「……馬鹿な娘だ」
彼はフィアを見つめながら言う。
「結局、お前は誰かに守ってもらうことでしか生きられない。それはお前が、そういう性質だからだ。弱いお前は、愛を対価に庇護してもらうことしか生きる術を持たない」
その淡々とした侮辱に、レオンハルトの眦が鋭く吊り上がる。今にも斬りかかりそうな彼の隣で、しかしフィアは凪いだ心でそれを聞いていた。
上司の言葉は正論だ。
フィアが愛する者はどこまでも強くなるけれど、フィア自身は悲しくなるほどに無力だ。少し力を込めれば握り潰せるくらいに弱く、野に放り出されればすぐに死んでしまう。
だから、愛を対価に救いを求めるしかない。他人に寄生することでしか生きられない。フィアの人生は、そういうふうにできている。
「お前は自由を得たと錯覚しているのだろう。だが今もお前の性質は変わらん。ただ依存先が一つになっただけに過ぎない」
彼は諭すようにそう言って、額に青筋を走らせたレオンハルトを温度のない瞳で見る。
「その男が心変わりしないという保証が、一体どこにある? お前がその男一人に寄り掛かったとして、その男の心が冷めてしまえば、お前は本当の意味で破滅するんだぞ」
「俺は……!」
「お前はこの先ずっと、そんな不確かなものに縋りながら生きていくつもりなのか?」
レオンハルトが焦った様子でこちらを見る。きっと、「自分は心変わりなどしない」と訴えかけているのだろう。フィアは少しため息をついて、そして微笑んだ。
「……まあ、実際、その通りだと思いますよ」
そう呟くと、レオンハルトは大層なショックを受けた顔をして固まった。まさかフィアが上司の言葉を肯定すると思わなかったのだろう。
けれど、これに関しては上司と同意見だった。
愛は不変だ、なんてお花畑なことを言うつもりは全くない。今は確かにレオンハルトに愛されているかもしれないが、その愛が冷めることだって十分に考えられる。フィアに興味を失くすかもしれないし、他の人へ目移りするかもしれない。そういう日がやってこないとは限らない。
そんな日が来るくらいならば、金という対価を目的に、本当の意味では誰にも心を許さないまま生きる方がずっと利口なのだろう。
しかし、フィアは。
「それでもいいか、って思っちゃったんですよ」
たとえ彼の愛が失われる日が来たとしても、それでも今この瞬間に愛を返してみたいと思ってしまったのだ。
「一生に一度くらい、私の人生を賭けてみてもいいかと思ってしまったんです。たとえその先で何もかもを失うとしても、この人を信じてみたいなあって」
隣に立つ彼の気がふっと緩むのを感じた。視線を上げなくても、彼がどんな顔をしているのか容易く想像できた。
フィアは上司から目を逸らさなかった。
彼はいつもと同じ暗い瞳をフィアに向けて、それから。
「──馬鹿な子だ」
と、先程呟いたのと同じような言葉を繰り返した。
そこに、哀れみのような、いくばくかの親愛のような、そんな人間じみた色が含まれているように見えたのは、きっと見間違いだろうと結論付ける。
たとえ今更そんなものの欠片を見せられた所で、取るべき手はもう決まっているのだから。
フィアは彼に背を向けた。
それから二度と、彼の方へと振り返ることはなかった。
「寿退社ってやつ?」
長い廊下を歩いていると、突然声を掛けられた。
すると目の前に、八重歯の目立つチャーミングな笑顔が特徴的な青年が現れる。レオンハルトは反射で剣の柄に手をかけ、フィアはただ無防備に眉を寄せた。
「違います。私とこの人はそういう関係じゃありません」
「ふーん。じゃあ何?」
「……今はよく分かりません」
「変なの」
シタは頭の後ろで腕を組んで、不思議そうに首を傾げた。
そうして彼と話していると、服の端をレオンハルトに引っ張られる。彼は不安そうにフィアと笑顔の男を見比べて、「誰だ?」と言った。
シタは自分の胸の前に手を持っていって、ハートマークを作ってみせた。
「元カレ♡」
フィアは彼の脛を蹴り飛ばした。
「同僚です。元、ですけど」
悶絶する彼には目もくれず、フィアはレオンハルトに「不愉快な勘違いはしないでくださいね?」と念入りに詰め寄って言った。レオンハルトは両手を挙げて、コクコクと頷いた。
シタは呻きながら立ち上がり、そんなフィアの様子を感情の読み取れない目で眺めた。
フィアは彼の方へと少しだけ視線を向けて、「……それで、何の用です」と問いかけた。その敵意と疑念の籠った眼差しの前で、シタは肩を竦めて首を横に振る。
「別に、引き留めにきたわけじゃねえよ。つか俺じゃ止めらんねーって。そもそも、ただでさえ強そうなそのオニイサンが、お前の力でバフてんこ盛りになってんだろ? そんなん無理ゲーだよ」
「……じゃあ何ですか」
「そりゃあ、長~い付き合いの俺たちを置いて出て行く薄情なフィアお姉ちゃんの面を見に来たんだわ」
シタは両手で口を覆い隠し、笑いながらそう言った。
すると、彼の顔からすっと一瞬で笑顔が消える。彼は「いや、ぶっちゃけさ」と、真顔で言った。
「なんで逃げる気になったの? 今更ツラくなった? でもそんなん感じねーように育てられたじゃん、俺ら」
「……」
「そいつとなら外の世界でもやってけると思ったの? そいつのどこがそんなに良かったの? 顔?」
「どこが良かったのかは、私の中でも模索中です」
「エ゙ッ」
レオンハルトは濁った声を上げてフィアを見た。
しかしそんな顔をされても、上手く言語化できないのだからしょうがない。彼のどこが好きかだなんて、自分が一番知りたいくらいだ。
それでもどうしようもなく死んでほしくないと思ってしまったので、やっぱり自分は彼のことが好きなのだろう。
「……好きに生きてみたくなったの」
それから、フィアは目を細めて言った。
その言葉に、シタは生まれて初めて言葉を理解した幼児のように目を丸くする。
フィアはシタの顔を見つめた。
彼が元々どういう環境で育っていたのかは知らない。聞こうと思ったこともなかった。けれど上司に拾われてきた頃の彼が、全身に地獄のような痣を浮かべていて、その目が大人への恐怖で揺れていたことは覚えている。
そんな彼が、上司に対してどんな思いを抱いているのかは……まあ、何となく知っていた。
ここは、やりたくないことを強要される場所だ。自分の意志など何一つない場所だ。人間ではなく道具として扱われる場所だ。それでも、道具以下のゴミとして生きてきた子供たちにとっては、それは正しくなくとも救いだったのだ。
だから彼が、無条件に上司に従うのも仕方のないことだ。この場所から逃げ出すフィアを、信じられない光景を目の当たりにしたように見るのも当然のことだろう。
だってフィアは、彼の姉のようなものだったのだ。誰かに情を抱くことなど許されていなかったから、認めるわけにはいかなかったけれど。ずっと気付かないふりをしていたけれど。
でもの彼とはもう十年以上の付き合いで、フィアだって彼のことを気にかけていたのだ。
だから、彼に告げた。
「私は自由に生きる。だから、あなたもそうしなさい」
「────自由に?」
そんな言葉は初めて聞いたのだとでも言うように、シタは何度も瞬きを繰り返していた。
彼の“自由”が何なのかは分からない。けれどきっと、フィアの求めるそれとは違う形をしているのだろうことは分かる。もしかすると、一般的な幸福の定義から大きく外れているのかもしれない。
それでも、好きなように生きてほしかった。
その選択があるということに気付いてほしかった。それが、フィアなりの、彼への餞別だった。
「……じゃあね」
フィアはレオンハルトの腕を引いた。
そうしてフィアたちは、その屋敷を後にした。もうここに戻ってくることは、永遠にない。未練も執着も、何一つなかった。あるのは妙な爽快感と、それから「お腹が空いたから何か食べたいな」という思いだけだ。
「レオン様。お腹が空きました。何か食べてから帰りましょう」
「何が食べたい?」
フィアは笑って答えた。
「サンドイッチ!」
──さて、ここから先にあるのは、彼女が知ることのない話。
フィアの人生には何の関係もない、蛇足ですらない幕間の結末を語る。
「……んで、これからどうするんですか?」
こめかみ辺りを指で引っ掻きながら、シタは上司に尋ねた。
立ち去っていったフィアたちの後ろ姿を眺めたあと、シタは上司の部屋へと戻り、彼の様子を伺ったのだ。
いつも通りに、シタは彼に指示を仰いだ。シタの人生の歯車は常にそうして回っているのだ。彼に言われたことを、言われたままにこなす。その繰り返しで毎日が成り立っている。
だからシタには、彼の思考が手に取るように分かる。これまで何千回と彼に与えられた命令をこなしてきたのだから、それも当然のことだ。
「……アレを手放すのは惜しい」
よって彼が口にした言葉も、例によってシタの想像通りのものだった。
フィアの才能は唯一無二だ。彼女は金の卵を産むガチョウなのだ。そんな彼女を、彼がそう簡単に手放そうとするわけがない。
こうなることは分かっていた。だから彼を殺さず、脅すだけで去っていったフィアを見て、シタはあまりの甘さに唖然としたのだった。
「じゃあ、フィアを連れ戻すんですか? でもあの勇者はどうするんです? さっき直接見てきましたけど、あれは流石に俺でも殺せないですよ。何せフィアがついちゃってますし」
シタは肩を竦めて言った。
彼女の能力は全て把握している。その上で断言するが、彼女はある意味“女神”のようなものなのだ。
彼女に愛された者は、死すらも不条理に跳ね退ける。たとえ心臓を突き刺しても、猛毒を浴びせても、身体を切り刻んでも、何事もなかったかのように起き上がってくるだろう。
元々化け物じみた強さを持っていた男に、愛の女神までもが微笑んでいるのだ。しかも自分を騙して作り上げた偽物の愛ではない、真性の愛が与えられている。
そんな男の息の根を止められるわけがない。
だが、まあ──。
「やりようはあるだろう」
「まあ、はい」
シタは頭を掻きながら頷いた。
「フィアの能力は傍に居ないと効果がない。しかしあの男も、四六時中フィアに付き纏っているわけではないだろう」
「まあ、割とストーカー気質な所はありそうでしたけど……流石にずっとベッタリってわけにはいかないでしょうね」
「あの子から離れている間ならば、いくらでも殺しようはある」
「……あの勇者を殺して、その後は?」
「あの子を連れ戻して、また一から教育のやり直しだ。骨は折れるだろうが、あの子にはそれだけの価値がある」
彼は本気だ。その目には薄暗い執念が宿っている。フィアは彼にとって最高傑作だった。手放すことのできない宝だった。
それが、ただ彼女の生み出す富に執着しているだけなのか、それともそこに何らかの愛着が入り混じっているのか、それだけはシタにも判別がつかなかった。
彼が立ち上がり、部屋の扉を開く。
フィアを連れ戻すための計画を頭の中で練っているのだろう。その背中を見つめながら、シタは彼の後ろを歩く。
そして、彼が、屋敷の中に居るはずの“道具”たちの姿が見当たらないことに気が付いた時。
「──ぁ」
シタは、彼の背中をナイフで刺した。
どこを刺せば人は死ぬのか、何度もやってきたことだから完璧に理解していた。だからシタは、できるだけ死ぬまでに時間がかかるような、でも確実に命を奪えるような位置に、正確に、隠し持っていた刃を刺し込んだ。
彼は短い息を何度も吐き、背中を丸めた。
下半身が麻痺したのだろう。糸の切れた人形のように、彼がその場に崩れ落ちる。
シタはその光景を、食い入るように見下ろした。
「……他の子たちは、俺が外に逃がしておきました」
倒れ伏す彼の目の前にしゃがみ、シタは穏やかな声で呟いた。
「外で上手くやっていけるかどうかは、まあ、分かんないですけど。それでも、主人の居なくなった屋敷に取り残されるよりはマシでしょ?」
「……お、まえ、は、」
白い床の上に血が広がっていく。珍しくもなんともない、ありふれた光景だ。彼に命じられるまま、シタはこれまで何百もの血だまりを作ってきたのだから。
真っ白になった彼の顔が歪む。
呆れたような、どこか納得したような、そんな顔で彼は笑った。
「……復讐か」
彼は血を吹き零しながら言った。
「それとも……なんだ。お前も、あの子を憎からず、思っていたか?」
「──」
「つくづく、魔性の、娘、だな。そう、育てたのは、私だが」
どこか懐かしむように、彼が呟く。
それから彼はシタを見て、哀れむみたいに目を細めた。
「健気な、ものだ。報われる、ことなど、ない、のに」
「……そー、なんですけどねえ」
シタは八の字の形に眉を下げた。
報われることなどない。その言葉が胸に刺さる。全くもってその通りだ。シタの努力が実を結ぶことなどない。
「だけどまあ、なんか、俺も自由に生きてみたくなっちゃって」
実の所、彼の言うように、彼女を憎からず思っていた……なんてことは、別にない。しかし彼女の存在が、シタの心に大きな影響を及ぼしたことは事実だ。
自分も、彼女のように好きに生きてみようと思った。
シタは、広がっていく血だまりの上に寝転がった。
そうして彼と目を合わせ、額を寄せて言う。
「──お父さん」
彼の目が見開かれる。理解のできない化け物を目にした時のように。
分かっていた反応だった。けれど彼には、拒絶するだけの時間も残されていない。口から溢れるのは否定の言葉ではなく、これまで手にかけてきた者たちの怨念が形になったような血の塊だけ。
それを良いことに、シタは何度も何度もその言葉を口にする。
「お父さん、お父さん……」
復讐と言われれば、その通りなのだろう。
シタは彼が憎かった。親代わりのように振る舞っておいて、人間として扱ってくれないことが。劣悪な環境から救い出しておいて、殺しの道具としてしか見てくれないことが。
無条件に抱きしめられたかった。褒めてほしかった。家族になりたかった。
その全部が報われないから、ただこの一瞬のためだけに彼を殺そうと思った。
それがシタの望む自由だった。
「あ~あ……はは、ははは……」
「────」
「いいなあ、フィアは。愛されて」
温かな血の上に横たわって、シタはもう二度と会うことのない彼女を羨む。
彼女はきっと、シタが一番欲していたものを手に入れたのだろう。どれだけ手を伸ばしても届かなかったものを。
あるいはもしかすると、ここにある全てを捨てて、外の世界に飛び出してしまえば、シタも望んでいたものを手に入れられたのかもしれない。
けれど、それでは駄目だったのだ。シタが欲しかったのは、自分を地獄から救い出してくれた彼からの承認と愛情だった。他でもない彼に、家族になってほしかった。
それが叶わないから、ここで終わりにする。
「俺も、それになりたかったなあ!」
シタは顔を覆って、笑いながら言った。
振り返ることなく去って行ったフィアは、彼らの崩壊を知らない。彼女と無関係な所で、彼女を閉じ込めていた世界は崩れていったのだ。
ただ、それだけの話だ。
× × ×
朝が弱い所も、洗濯物の畳み方が雑な所も、どれだけ入念に掃除をしていても必ず埃の取り残しがある所も、絶対にスクランブルエッグに卵の殻が入っている所も、まあ許容できる範囲内ではあるが、目を離すとすぐに部屋に肖像画を増やす所だけはどうしても我慢ならなかった。
フィアは額に青筋を浮かべ、鋭い瞳でレオンハルトを睨みつける。
「レーオーンーさーまぁーッ!?」
「お、落ち着けフィア。これには深いわけがあってだな……」
「なぁにが深いわけですか! どうせまた何も考えずに楽しくお絵かきしてたんでしょうが!」
フィアが怒鳴ると、レオンハルトは大きな身体を縮こまらせて壁の隅に逃げた。
そんな叱られた子犬のような顔をしても無駄である。フィアはつぶらな瞳には絆されない。
「そりゃあ、多少ならいいですよ? でもどんどん部屋がそれで埋め尽くされていくのは我慢なりません! うちは画廊じゃないんですから!」
「ゔゔ……し、しかしだな……」
「あと全部私がモデルなのは何なんですか! 言っときますけどこれ私以外だったらドン引きされてフラれてますからね!?」
二年間の旅が終わり、そこから再会するまでの間に、彼は随分と変な拗れ方をしていたらしい。部屋の一室を埋め尽くしていた肖像画が全て彼の自作だったと知った時は、流石のフィアも「え゙っ」という声を上げたものだ。
剣を振る以外に趣味を見つけられたのは良いことだが、それはそうと微妙な気分である。折角の広い部屋たちが日毎に自分の肖像画及び自作フィギュアで埋められていくのは見ていられない。
「せめてたまには私以外も描いてくださいよ。そしたらそれを売って一発当てましょう。あなた才能あるんですから、絶対いい稼ぎになります」
「エ゙ッ……イヤだ……」
「チッ」
フィアは舌打ちをした。目の前に転がっている才能を金に換えられないというのは何とももどかしい気分だ。まあ本人が望まないなら致し方ないのだが。
とまあ、このような言い争いや些細な喧嘩は数多くあれど、レオンハルトとの同居生活は概ね順調である。
レオンハルトは有名な勇者で、様々な依頼がひっきりなしに舞い込んでくる。故に相当な稼ぎがあり、生活には困らなかった。
とはいえ時折、彼は騙されてほとんどタダ同然の依頼を請け負いそうになることがあるので、その度にフィアが「騙されとるやんけ!」と間に入って手綱を握っている。
生計の大半は彼が支えているので、フィアは家事を担っている。故に雇われていた時の暮らしと大差はない。
けれど、やりたくないことはやらないようになった。今日は面倒だなと思う日があれば、多少手を抜いた料理を作る。具合が悪い日にはダラダラしていたっていいらしい。
「……げ」
家に届いた郵便物の、一番表にあった手紙を見て、レオンハルトが顔を顰める。彼がそんな顔をするのは稀であったので、興味を引かれたフィアは彼に近寄った。
「なんですか?」
「……毒にも薬にもならない手紙だ」
「だったらそんな顔しないでしょう。見せてください」
「え゙ー……」
彼の肩を揺すると、渋々といった顔で彼が言う。
「……父親からだ」
フィアは何度か目をしばたたかせた。
「おとうさま」
「ああ。またどこから住所を聞きつけたんだか……」
「仲がよろしくないんですか?」
「良くない、わけではないが……。俺はあの人が苦手なんだ」
「へえ……。ちなみに手紙の内容は?」
「新しく弟が増えたんだそうだ。これで十四人目」
「ああ……」
成程。苦手に思っている理由が分かった。
聞けば、彼は十代の頃に家を飛び出して、それからはほとんど親に会っていないらしい。しかし時折父から手紙が届き、その度に苦い顔をする羽目になるのだそうだ。「たまには顔を見せに来い」と何度も言われているが、その度に首を横に振っているのだと。
フィアは彼の家族に会ってみたいと少し思ったが、レオンハルトはすこぶる嫌がりそうだ。まあそれは、いつか彼の心に整理がついた時に頼んでみることにしよう。
「……ん?」
それからレオンハルトは、その後ろにあったもう一枚の手紙を見て、眉間に寄せていた皺をぱっと消した。
フィアは彼の手元を覗き込んだ。そして彼と同じように目を丸くする。
その手紙に書かれていたのは、見覚えのある名前だった。
「……エイオス様と、リゼル様?」
この四人で集まるのは、本当に久しぶりのことだ。
かつてのパーティメンバーたちの前で、フィアは密かに緊張していた。
何せフィアは、二年間に及ぶ旅の間、ずっと自分を偽り続けていたのだ。
つまり本当の自分を完全に見せるのは、これが初めてのことになる。不安を感じるのも当然だ。
よって待ち合わせ場所である冒険者ギルドの隅で、フィアは先程からずっとレオンハルトの服の端っこを引っ張っていた。
あとは戯れに彼の頬をつねったり、背中に爪を立てたりしている。そうでもしていないと落ち着かないのだ。勿論二人の間には肉体のレベル差がありすぎるので、彼にとってこれは子猫に肉球を押し付けられているようなものだった。
そうしてフィアは、彼らに言うべき初めの挨拶を頭の中でこねくり回していた。
けれどフィアが口を開くより先に、まずやってきたエイオスが勢いよく頭を下げたのだ。
「すまなかった、フィアさん!」
フィアは目を瞬かせた。何故自分が彼に謝られているのか分からなかったからだ。
しかし話を聞いて、合点がいった。どうやら彼は、フィアが勤めていた組織が真っ当なものではなかったこと、それに気づかずフィアに依頼を出してしまったことに負い目を感じているらしい。
けれど、彼が気付かないのも無理はない。
あの組織は、表向きはクリーンだったのだ。黒い部分は徹底的に表に出ないよう統制されていて、国ですらも頼りにしていたほどだった。
今はもう、あの組織にはどこからも連絡がつかないらしい。
見えない所で瓦解したのか、それとも形を変えて今も活動しているのか。定かではないが、それを知ろうとも思わない。だからフィアが真相に辿り着くことはない。
しかしとにかく、フィアはむしろエイオスに感謝していた。彼の働きかけがなければ、今も自分はあの場所で死んだ目をして働き続けていただろうからだ。
「まあ、コイツのお節介もたまには役に立つのね……あ、私このコカトリスの薬膳鍋食べたーい」
「……私ワイバーンの串焼きがいいです」
彼の謝罪にどういう顔を向ければいいか分からず途方に暮れていたフィアだったが、目の前で動じることなくメニュー表を眺めるリゼルを見て気分がほぐれ、自分も食べたいものを指さすことができた。
冒険者ギルドは食堂も兼ねているのだ。冒険者たちが討伐して持ち帰ってきたモンスターを調理して提供しており、その味は絶品だと評判である。
「……それで、話とはなんだ?」
一通り注文した料理が運ばれてきてから、レオンハルトが彼らに尋ねた。
彼らから受け取った手紙には、フィアとレオンハルトに用事があること、その話をしたいのでどこか食事でもできる場所で会いたい、という旨が書かれていたのだ。
しかし肝心の具体的な内容は記載されておらず、だからフィアもレオンハルトも、まだ彼らが一体何の用件で自分たちを呼び出したのか知らなかった。
するとリゼルが、目を輝かせながら身を乗り出して。
「アンタたちを冒険に誘いに来たのよ」
と、言った。
フィアは串焼きを齧っていた口を開けて固まった。
そんな彼女の前で、エイオスが腕を組みながら言う。
「最近、リンゴーク王国の近くにスゴイカチアルダンジョンが見つかっただろう? その攻略に行かないか?」
「ダンジョン……」
「国からの指令じゃなくて、私的な冒険ね。今度はもっと自由に旅したいと思わない?」
その提案に、フィアの心臓が跳ねる。
けれどフィアは、頷くよりも先にレオンハルトの顔を見た。当然彼は冒険の役に立つだろう。強さも、経験も、申し分ない。フィアが彼らの立場だったとしても、真っ先に彼を誘うに決まっている。
しかし、自分は?
今の自分に、彼らの冒険を支えていけるような力などない。
「……誘っていただけるのは、とても嬉しいのですが。今の私がついていっても、きっと邪魔になるだけです」
フィアはもう、自分の心を縛ることをやめてしまった。
レオンハルトのことは大切に思っているが、それ以外にも大事なものを増やしてしまったのだ。いつも挨拶してくれる八百屋の店主、近所の子供たち、新しく関わるようになった人たち。それに、目の前のこの二人のことも。
誰か一人だけを愛すれば、フィアはその人を神様にできる。けれど愛するものが多ければ多いほど、神秘性は失われていく。フィアの能力は色褪せていく。
大切なものが増えていく度に、フィアは普通の人間になっていくのだ。
その普通を愛おしく思う自分も居るけれど、こういう時には寂しくも思う。特別じゃない自分には、彼らの旅に連れ添う資格がない。
だから断ろうと思った。
彼らの重荷になるわけにはいかない。足手まといにはなりたくなかった。
しかし、それを伝えると、二人は目を丸くして。
「え? でもフィアさんって古代語読めたよね?」
「確か前の旅の時にそんな話してたでしょ?」
と、驚いた様子で言った。
フィアは口をぽっかりと開けて、「あ……え、ええ、まあ」とぎこちなく頷いた。
確かに自分は古代語が読める。どんな客の要望にも応えられるように、幼少期にありとあらゆる教養を叩き込まれてきたからだ。幸い、フィアにとって勉強はさほど苦ではなく、古代語の習得は難しいことではなかったのだ。
すると彼らは胸を撫で下ろし、微笑みながら言った。
「そのダンジョン、古代語のギミックが多いらしくてさ」
「私あれすっごい苦手なのよ。ホント何書いてんのかさっぱり分かんない。落書きにしか見えないわ」
「俺もだよ。ちなみにレオンハルトは?」
レオンハルトは彫刻のような笑顔を浮かべ、顔の前でバツを作った。「全くもって読めません」というジェスチャーである。
フィアは膝の上に置いた手に力を込める。そうして大きくなっていく胸の鼓動を、何とか落ち着かせようとする。
「勿論、フィアさんの身に危険が及ばないよう俺たちが守る。その点は安心してほしい」
「当然だ」
自信満々にレオンハルトが自分の胸を叩く。
「だから……どう?」
リゼルが言う。
「もう一度、私たちと旅しない?」
愛以外を必要とされることがあるなんて、思ってもみなかった。嫌なことと苦しいことばかりの人生だったけれど、その過程で身につけたものは確かに無駄じゃなかったらしい。
何度も息を吸い込んでいると、背中を摩られた。隣を見ると、レオンハルトと目が合った。彼は人懐っこく笑って親指を立てた。
フィアはもう一度大きく息を吸い込んで、それから言った。
「──はい! 私も、一緒に行きたいです!」
きっとその旅は忘れられないものになる。
それが終わる頃には、一体いくつ大事なものが増えているだろうか。
愛するものが増えるほど、フィアは普通の人間になっていく。
けれど、それを恐れることはない。何ら特別でなくとも、自分は愛されるに足る存在だということを知っているからだ。
だからフィアは期待する。これから先の自分の人生と、そこにある愛すべきものの数々に。
そしてきっとその隣には、いつでもこの男の存在があるのだろう。
それを疑わないくらいには、フィアは彼を愛している。面倒で、不器用で、生真面目で、一途な、レオンハルトという男のことを。




