消えたか分からない音
これは20年以上前に私が実際に体験したことだ。当時出向いた場所はかなり有名な場所であるため周辺情報や場所の名前は変えているが、体験したことそのものは可能な限り当時の記憶を辿ってそのまま書き記すことにする。
「うおっ、寒っ…」
学習塾でのアルバイトを終え、屋外に出た私は思わず首をすくめた。時刻は間もなく23時。雑居ビルの並ぶ通りを吹き抜ける2月の風は身を切るように冷たい。だが、幸いなことに私には迎えが来ていた。通りの端に幅寄せして停まっている見慣れたシルバーのノア。近くに住む友人の大西…正確には彼の家の車だ。
「お前おっそいねん!」
「授業時間分かっとるやろうがお前らも昔この塾行っとってんから」
「んなもん切り上げて来いや」
「いやアホか先生が授業脱走とかオモロすぎるやろ」
「えーからはよ乗れや寒いねんドア閉めんぞコラ」
「っせーな…おい小田お前奥詰めろやデカいんやから!」
「いや…お前も大概やろ」
「あーお前ら乗せたら車パンクするわ」
「…あ?」
わざわざバイト先まで迎えに来た割には荒っぽい会話だと思われるかも知れないが、車内にいたのはいずれも小学校からの友人たちだ。互いに気心が知れている、これが私たちの平常運転なのだ。尤も、傍から見れば私たちの組み合わせは異様かもしれない。何せ、ついさっきまで講師として教壇に立っていた私はスーツ姿なのに対し、車内にいる連中は皆ダルダルのスウェットに品のない龍かなにかの刺繍が入ったジャケットなどを羽織っており、頭髪はギラつく金色に染められている。周囲からはこれが恐喝現場か何かに見えたかもしれない。
「つーか小田が来るって珍しいやん…で、ヒデは?」
「あいつが来るわけないやろ、電話してみたけど絶対行かんって全力で拒否られたわ」
「相変わらずビビリやなあ…まあ、ええか、行こーや」
生徒には見られたくない姿ではあるが、私も本業は大学生である。バイトが終わり、翌日も午前の講義がないとあれば、地元の友人の誘いを断る理由など何もない。そして、夜行性の彼らと今日はとある心霊スポットに出向く約束をしていたのだ。
「つかさ、俺その地蔵井戸?知らんねんけど、どんなとこなん?」
「俺もよー知らんけど、ネットには夜中に子供が泣くんが聞こえたとか書いとったで」
「なに?井戸ん中からってこと?」
「せやろな。まー何でそんな噂が立ったかとかは全然分からんけど」
「それで『地蔵井戸』ねえ…」
「あん?」
「いや、ええねん。どんくらいで着けそうなん?」
「ナビは近くのコンビニまで40分言うてるな。入口はその先らしいけど設定出来ん」
「そうか、なあ大西、パン食って良い?」
「クズ落とすなよ」
「おけおけ」
私の地元は山と海に挟まれた地域で、車で北上すればすぐに市街から外れてしまう。出発から10分そこそこで市街の灯りは遠のき、今は県道を延々と北上していた。周囲に住宅は点々としているが、大きな商業ビルはなく、代わりに農地や工場が増えてきている。
「あ、あれちゃう?」
「ほんまや、川あってコンビニあって…あの交差点やろ」
「え、これどっち入れば良いん?」
「右右!右折!」
県道にかかる橋とその下を流れる川が交わる特徴的な交差点を右折し、車は川沿いの脇道へと入った。ここで助手席に座っている大西の親友、松下が後部座席の私と小田に話しかけてくる。
「田中、右見とって。俺等の行き先、3本目と4本目の橋の間らしいねん」
「なるほど、わかった」
「小田は左見とってくれ。広い路肩とフェンスが出てくるはずやから」
「うん、俺も来る前に見てきたから分かる」
もうお目当ての心霊スポットまで数分というところまで来ているはずだが、脇道沿いには依然として住宅が立ち並んでおり、特段不気味な雰囲気は漂っていない。時折現れる雑木林は多少の暗闇を湛えているが、道路沿いには街灯が点々と灯っているため視界が悪いわけでもなく、周辺は本当にごくありきたりな生活道路にしか見えなかった。
「お、多分この橋が3本目や」
「絶対やな?見落としとったら意味ない場所探すことになるで」
「そんなん言われても…でも橋には白いガードレールあって見やすかったし、毎回止まれの標識もあったし、まあ見落としてはないわ、小田は?」
「ずっと外見てるけど、さっきから家のブロック塀スレスレやから、こっちも広い路肩あれば分かると思う」
「おし…ほなちょいスピード落とすわ」
「おっけ、後ろ車来てへんし、大丈夫や」
脇道に入った交差点、ゆるやかにカーブを描く川と向こう岸に伸びる橋。全てが事前に調べた情報と一致している。各々の中で期待と緊張が高まってきたのが分かる。運転している大西以外の3人は皆、入口を見落とすまいと左側を凝視しており、車内は無言であった。だが、意外にもこの無言の時間は大西によって破られる。
「…おい、田中…」
「なに?どした?」
「橋…」
「えっ…」
そう言われて視線を右前方に戻すと、なるほど車はまた橋に近づいている。私のカウントが間違っていなければこれが4本目の橋であり、それはつまり私たちは目標地点を通り過ぎてしまったことになる。
「おいー!」
「お前どこ見とってん!」
「え、いや、マジで?…ごめんて」
橋の数が目的地特定の起点である以上、現状では私に非難が集中するのはやむを得ない。だが、私は釈然としなかった。橋のような大きな目印を見落とすとは思えなかったのだ。ちなみに、今の時代ならばスマホでマップアプリを開けば済む話ではある。だが、この当時の携帯電話は通話とメール、そして簡単なWeb検索機能しか備えていなかった。つまり、私たちの頼りは事前に調べたネット情報の記憶だけだったのだ。
「どうする?引き返す?」
「いや切り返せんし」
「大丈夫や、この道ずっと進んだらまた県道に出る」
「ほなドンツキまで走って県道戻って、最初の交差点から入り直しやな」
この脇道は右手の橋を渡る以外には分かれ道はないため、こうしたルートでスタート地点に戻るのはやむを得ないことだった。
「田中お前マジでちゃんと見とけよ」
「分かった…けどよ、俺多分見落としてない思うねん…松下、助手席からでも橋見えるやろ、お前も見といてくれん?」
「あー…さっきは俺も左ばっか見とったし。ほな次は俺も橋見とくわ」
この脇道はそう長いものではなく、10分も走れば県道に出ることが出来た。そして、走りやすい直線道路である県道から元の交差点までは更に早く、私たちは15分ほどで元の交差点まで戻ってきた。
「ほな行くで」
「おし…なあ、もう橋見えとるけど、あれも数えるんやんな」
「おう、脇道入ってからの橋は全部や」
「左もずっと見とく…けど、確かに路肩もフェンスも出てこんかったな…」
こうして私たちはより注意深く、2周目の探索を開始した。私と松下が二人で橋を数え、その間も小田がずっと左を見張る。運転者の大西を除く3人全員が目印と目的地そのものをずっと探している状態だ。だが…
「あっ…」
私と松下の共通認識の元、また4本目の橋が見えてきた。
「はあ?!なんでなん!」
「な、やっぱおかしいやろ?」
「小田、そっちは?」
「いや車を寄せれそうな場所とかなかったで」
「ネットの情報が間違ってるとか?」
「いやー、写真とか載ってたけど、どう見てもここやで」
この不可解な状況を前に、私たちは一瞬言葉を詰まらせてしまった。
「あかん…とりあえず小便」
「もっかい交差点まで戻ってコンビニ入ろ」
車は再度県道を南下し、元の交差点にあるコンビニに入った。田舎のコンビニあるあるだが、ここも駐車場がやたらと広い。しかも、こんな時間では客もほとんどいないようで、都市部のコンビニでは考えられないほどにがらんとしていた。
「いらっしゃせー」
私の友人たちに負けず劣らずな、いかにもやんちゃそうな茶髪のお兄さんがレジカウンター内で機械的な挨拶を発する。大西は店員に断りも入れずにそそくさとトイレへ消えていき、松下と小田も店内を当てもなくうろつき始めた。一方の私はレジで気だるそうに立っている店員に声をかけてみた。
「あのー、ちょい聞いても良いスか?」
「あ、はい」
見た目とは裏腹に、私に応じた店員は意外にもちゃんとこちらに向き直った。
「実はボクら、地蔵井戸探しに来てて」
「あー、その川沿いの道っすよ」
このコンビニはネットでも目印として紹介されている。恐らく私たちのように場所を尋ねる客は珍しくないのだろう。こんな夜中に何やってるんだなどと訝しがられるかと思ったが、店員の反応は慣れた様子だった。私はそもそも右左折を間違えている可能性を疑っていたが、彼が指さした方向的にそれもなさそうである。
「いやそれがね、今2周したんすけど見つけられんくて、とりあえず戻ってきたんすよ」
「…ええ?」
「やっぱそうですよね、いや僕らも事前に調べて来てて、橋3本数えて…」
「あー、そうっすそうっす、で、左手に砂利の空き地が出てくるんで」
「ですよね!で、あれでしょ、フェンスあるんスよね」
「そうっすよ。なんか反射板みたいなんもあるんで、車で通ったらまー分かりますわ」
「いやその写真も見てきてるんスけど、4人全員で見つけられんくて」
「えー?いや、そんなん言う人初めてっすわ…あんなん見落としようがないっすよ」
「暗いからっすかね…」
「つーか僕チャリで来てるんすけど、さっきもそのフェンスの前通って来ましたし」
「マジすか…って、ちょ、おい」
親身に話を聞いてくれていた店員をよそに、大西がコンビニから出ていくのが視界の端に見えた。松下と小田も続いている。
「ちょ、お前ら…すんません、トイレ借りるだけ借りて何も買わんと」
「全然良いっすよ、気ぃつけて行ってきてください」
私は店員に軽く会釈だけを返し、急いで友人たちを追った。
「…どうする?」
「お前店員に聞いとったんやろ?なんて?」
「やっぱ場所は合ってるっぽい。見落とすわけないって言われたわ」
「ほなもう、橋は無視して全員で左だけ見張らん?全体でも10分かそこらの道やし」
「せやな」
そうして私たちは再度脇道に入り、大西以外の全員で左側を凝視し続けた。だが、3度目の挑戦も虚しく、とうとう私たちはその砂利の路肩も、そしてフェンスも見つけることが出来なかった。
「なー、もう帰ろーや」
松下が完全に飽きた声を上げる。
「せやな、もう良くね?」
「暗い中ずっと外見つめてんのも疲れてきたわ」
「あーもーやめやめ!戻るで」
大西も面倒になっていたのだろう。不意に車を増速させ、例の交差点を直進して地元へ向かうルートを辿り始めた。地蔵井戸までの往復に加え、現地探索に1時間近く費やしており、私たちが地元に着いた頃には時刻は深夜1時を回っていた。
「とりあえずなんか飲みもん」
「お前コンビニで買えよ無賃便所」
「いやあの時はすぐ車降りるつもりやったやん」
「…あーね」
私たちは地元の個人商店前にある自販機で各々缶コーヒーを買い、私の自宅である市営団地の一角にある「定位置」に車を停車させた。普段はここでダラダラと話し込んだり、トランプなどを持ってきて修学旅行よろしく騒いだりしているのだが、今日は心霊スポットの空振りで皆のテンションも低く、もう帰ろうかというムードが漂っていた。だがその空気は、松下の携帯にかかってきた一本の電話で一変した。
「あー…おーさち?どないしてん?え、またかい!あー、ええで、今大西と小田とおる…あ、あとなんか豚」
「おい」
「今ちょうどお前ん家の下おるわ…は?ちゃうわ!まーええから帰ってこいって、おー、ほなな」
さらっと暴言が聞こえた気もするが、まあこれもいつものことである。
「誰?さち?西山か?」
「また彼氏と喧嘩したんやと。話聞いてほしいから混ぜろってよ」
西山は私と同じ棟に住む同級生だ。彼女の目的がただ愚痴りたいだけだったとしても、男ばかりで白けきっていた今の私達の顔は、女友達の合流への期待で一気に緩んだ。そして他愛のない雑談をすること約15分。外から車の窓を叩く音が聞こえた。
「来たみたいやな」
「田中、開けたって」
「…いや、俺?」
もうお分かりかと思うが、私はいわゆる「いじられ枠」である。今回も大西が私にドアボーイをやれと怠い絡み方をしてきたのだと思い、少々不満げに返答したのだ。なにせ、右後部に座っている私に、助手席側のドアを叩く西山を迎え入れろと言うのだから。だがここで意外にも松下が大西に加勢する。
「いやだって後ろやろ?」
松下は先程の「豚」のように普通の会話の中で唐突に強めのパンチを浴びせてくることはあっても、大西の面倒くさい絡みに乗ってくるような印象はない。口は悪いが、私の彼に対する認識は「意外と硬派なやつ」である。第一、今の松下の声色は真剣なもので、ドアを開けることを拒む私へのストレートな批判が乗っていた。
「ええ、まっつんのほうやろ?」
「は?いや後ろやろって!でも俺は左から聞こえたけど」
後部左側に座っているのは私ではなく小田だ。だがここで小田も反論する。
「えっ?いや…俺も前から聞こえたけど…でも、右ちゃう?」
「何言うとんねんお前ら意味わからんて」
右前、つまり運転席ではないかと言われ、大西が辟易したような反応を示す。どうやら誰もふざけてなどいないらしい。だが、これは明らかに妙である。全員がノックの音を聞いてはいるのに、聞こえた位置が4人ともバラバラなのである。
「…とりあえず、西山寒いやろから、とにかく開けたろうや」
誰が言ったでもなくそうまとまり、結局私たちは4人全員で車を降りた。西山を入れてやるため、そして猫かなにかが車の下で暖でも取っていないか確かめるためだ。だが、西山も猫も、車の周囲や下には結局誰も、何もいなかった。
「…確かに聞こえたよな」
「うん、音は絶対した」
「何やったんやろな」
「さあ…」
通常なら気味悪がるべきところなのだろうが、先程の地蔵井戸の件ですっかり白けていた私たちは、これを怪奇現象と位置づけることなく、特段気に留めることもなかった。そして、ここで再度松下の携帯が鳴り、数秒間画面を見つめた彼は私たちに言った。
「さち、彼氏と話し合うことになったからやっぱり行かんて」
それを聞いてまた意気消沈する一行。普段あまり行動を共にすることはないとはいえ、昔なじみの気兼ねない西山の参加に沸き立っていたところからの急落となれば当然である。とにかく車外に居ても寒いだけなので、私たちはそそくさと車内に逃げ込んで暖を取った。
そこからはまた男4人で他愛もない雑談である。この日私は小田と久々に会ったのだが、高校を出て以来ずっと同じ介護現場で働く彼との話題はとっくに尽きてしまっていた。前の二人は何やらゲームの話で盛り上がっているが、私も小田もそのゲームを知らず、車内の温度は2つに割れていた。その時である。
「カン!」
とても硬く、そして大きな金属音が響いた。まるで空き缶を地面にでも叩きつけたような鋭い音であったが、奇妙なのはそれが明らかに車内で発生した音にしか聞こえなかったことだ。
「…おい、誰やいまの」
一瞬の沈黙の後、かなり強い怒りの色を滲ませて低い声でそう発したのは無論、車の持ち主である大西である。「だ」には重みがあり「れ」の部分など舌を巻いていた。
「俺ちゃうぞ」
「俺でもないで」
音を発生させたことを否定する私、小田、そして松下。だが大西は隣の松下ではなく、後部の私または小田を疑っているようだった。
「嘘つけや、カンカンぶつけたやろ!」
「いや待てって、確かに俺はもう飲み終えてるけど、ずっと握ってたからほら、缶あったかいで」
「俺まだ中身入ってるからぶつけるとか無理やし…」
「へっ、俺まだ開けてすらないわ」
「大体さ、いまの、どっから聞こえた?」
「どこって、明らかに中やったやろ!」
「うん、でも、中の…どこ?」
「知るかよ」
「…俺さ、この辺から聞こえた気がする」
そう言って私が指し示したのは、運転席と助手席の間の隙間からやや後部方向にずれたあたりの空間である。
「基本車の中って柔らかいやん。仮にいまお前が『許すから何したか再現しろ』って言ったとしても、俺にはあんな音の出し方が思いつかん」
「…それはそうかも知れんな」
松下が私に同調してくれる。4人の中で一番典型的な「ヤンキー」なのに、やはり彼は比較的冷静で、真剣な場面では中立的に状況を俯瞰してくれる。
「カツン」
「おい、やっぱり何か」
「いや、ちゃうって、これ」
そう言いながら私は自分が持っている空き缶を掲げ、これに「デコピン」を見舞う。さっきの音に近い、硬い金属音を車内で、大きな動作なしで鳴らせそうな最善の方法がこれだったのだ。
「でも全然さっきより音の大きさも硬さも足りへんな…つか爪痛なってきた」
「…わかった、もうええわ」
大西は依然として納得していない様子ではあったが、この場の全員にとって原因も再現方法も分からない音について根拠もなく友人を責め立て続けることは踏みとどまってくれたようだ。そこからまたしばし、密度の薄い雑談が続いたが、地蔵井戸の未発見に端を発する、繰り返しの「水差し」を受けて、この日の私たちは変な疲れ方をしていた。
「…そろそろ寝る?」
「せやな」
何だかんだで時刻は午前4時近くになっていた。延々とアイドリングを続けている車は徐々にガソリンを消耗しているし、特段何かで盛り上がっているわけでもない私たちはもう睡魔との戦いを始めていた。これ以上こうしているよりも早く床についたほうが余程快適というものだ。
「ほな、降りるわ」
「おう、おやすみー」
車は私の住む棟の側に停まっているので、私はその場で下車し皆と別れた。この後大西が、小田、松下の家を回って自宅へ戻るというのが定番の流れだ。私を下ろした車はそのままあっさりと走り去り、途端に周囲は静寂に包まれる。午前4時の団地と言えば、ほぼ全ての部屋から灯りは消えており、規則的に並ぶ窓はまるで四角く切り取られた穴かなにかのように見える。そして、階段部分に照明が灯っているとはいえ、巨大な四角い塊である建物は、暗がりの中では異様なまでの威圧感を放ってくる。しかも団地敷地内、そしていままで大西の車が停まっていた外周の生活道路にも、まだ人っ子ひとり居ない。もちろん各戸の中では大勢の人が眠っているわけだが、目に映る景色だけで言えば、まるで廃墟が放つのと同じような質感の寂しさや不気味さが漂っていた。その上暖房の効いた車内から降り立ったばかりの身体を夜風に刺し貫かれて、必要以上に意識がハッキリしてしまうものだから堪らない。
私はそそくさと、自宅へと上がる階段を目指して歩き出す。この団地は、各フロアと踊り場で何度も折れ曲がりながら上階へと階段が伸びるタイプのもので、階段内はその大半が外からは死角になる上に、各階段は事実上の袋小路である。昨今はフロアごとに外廊下が各戸の前を横切っている作りのものが多いが、そうでないこの古い団地の構造は、今思うと保安上の問題があるように思える。事実、そうした閉鎖的な構造のせいだろう。私はこの自宅団地の階段が昔から苦手で仕方なかった。子供の頃はもとより、大学生となった今でも夜間にこの階段を登るのは憂鬱だったのだ。しかも、この時ばかりは「何となく気味が悪い」では済まなかった。
「ザッザッ」
全面コンクリートの階段内では、他者の足音やドアの開閉音が2フロア以上も上下まで響く。階段を数段上がり、1階の住戸を通り過ぎて2階へ続く階段の踊り場あたりまで私が上がった頃、階下から誰かが階段を登り始める音が聞こえてきた。
(よりによって…俺かよ)
その音を聞いた時の、それが私の率直な感想であった。だが、この時点で私はまだ平静を装っていた。あからさまに階段を駆け上がれば、こちらが「気づいている」ことを「それ」に伝えることになる。それに、私の自宅は5階建ての団地の5階にある。今下にいるのはただの住人かも知れない。第一、私たちは地蔵井戸に行っていないどころか、その入口を見つけることすら出来なかったのだ。付近の道を通っただけで今何かが起きているのなら、地蔵井戸の近隣住民はどうなるのだ。私は自分にそう言い聞かせつつ、明らかに早鐘を打ち始めた心臓を無視し、敢えてペースを変えずに階段を登り続けた。
下の足音は1階の住戸を過ぎて2階へと向かってくる。今2階の住戸を過ぎた私には3階へ向かう踊り場が正面の階段上部に見えている。多分この状況はしばらく変わらない。なにせ、2階と3階に住んでいるのは、私の知る限り高齢者ばかりだ。こんな早朝はもとより、日が暮れてから彼らを見かけることなどまずなかった。各階に住戸は2戸ずつ、2階と3階で合計4回のチャンスがあったが、私の予想通りこれらは全てハズレに終わった。私が3階に来る頃には、下の足音は2階を通り過ぎる。同様に私が4階を過ぎる頃には足音は3階を回ってくる。だが、私は4階に大きな期待があった。高齢化が進むこの団地にあって、4階には私より10ほど年上の、つまり30代と思しき住人が住んでいるのを知っていたのだ。こんな時間に帰ってくる人がいるとすれば、それは4階の住人である可能性が最も高い。しかも、足音が4階に差し掛かる頃には、私はもう自宅の扉前にたどり着いているはずだ。そしてもう一つ、今私は確実に恐怖を感じている。その感情が、単にコンクリート壁に反響している私自身の足音を、階段を上がってくる別人の足音に錯覚させている可能性もあった。すなわち、私が5階にたどり着いた時点で、階下の足音は扉の開閉音に変わるか、そもそも単純に消えてなくなる可能性すらあるのだ。
…だが、分かっていた。それらは全て私の希望的観測でしかないことを。そして、階下には間違いなく「それ」がいるという現実を。私は5階に到達し、今や足を止めて鞄のサイドポケットに手を突っ込んで自宅の鍵を取り出そうとしている。だが、階下の足音は消えない。つまり、それが私自身の足音の反響などではないことが今ここに証明されたのである。そして、その足音は今、確実に4階の住戸を通り過ぎ、5階へ至る踊り場を目指して上がってきている。全ての可能性を打ち砕かれ、正に袋の鼠と化した私は戦慄した。手指が激しく震えて鍵がうまく取り出せない。スーツに合わせたビジネスバッグのサイドポケットは、鍵一つ放り込むには深すぎるのだ。足音がさらに近づいてくる。それは間もなく踊り場に到達するだろう。そうなれば、階段の最上部に立っている私は「それ」に直接見られることになってしまう。それだけはなんとしても回避せねば。5階にも住戸は2つある。つまりまだ、足音の主がお向かいさんである可能性は残されている。だが、お向かいさんは数年前に旦那さんが亡くなった、それこそ超高齢女性の独居世帯だ。こんな時間に出歩くはずはないし、出歩いていたとしてもそれは深夜徘徊だ。それはそれで全く救いになどならない。とにかく、早く、自宅に入らなければ。私はほとんど言うことを聞いてくれない手で何とか自宅扉の鍵を解錠し、勢いよくドアを開けて宅内へと転がり込んだ。
部屋の中は玄関部分でも外より随分と暖かかった。そして、実家である自宅内では家族が眠っている。団地のドアというのは鉄製で無駄に重く、開閉音が本当にやかましい。自宅に無事入れたという安心感を得た私は、それでもドアが完全に閉まる直前まで勢いよく引き込み、閉まる瞬間だけその速度を落としてなるべく音を立てぬようにこれを閉じ、即座にサムターンを回して施錠した。その後、どこかしらで住戸の開閉音がするか、あるいは自宅前まで足音が上がって来やしないかと、しばらく外に聞き耳を立てていたが、足音も、そして住戸の開閉音も聞こえてくることはなかった。
その後のことは、あまり覚えていない。恐らくは下手に家族を起こせば夜遊びを咎められると思い、さっさと寝床に入ったのだろう。あの足音の感触は今でもはっきりと覚えているのに、その数分後の記憶はかすれたフィルムのようになってしまっている。それでも確実に言えることがある。どこの住戸を開くこともしなかったあの足音は、かといって階段を下っていったわけでもないということ。
あれは何のために階段を5階まで上がってきたのか。
そしてその後どこへ行ってしまったのか。
あるいは行っていないのか。
私はそれを知らないままだ。




