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五話目

 時間は、蜂蜜のように粘性を帯びて、ゆっくりと流れていた。

 カーテンの隙間から差し込む陽光が、床に落ちる角度を変えていく。ただそれだけのことが、この部屋では一大イベントのように感じられる。

 葛城蓮は、白石楓の部屋にあるソファに身を沈めていた。

 身体が重い。まるで重力が二倍になったかのように、指一本動かすのも億劫だ。

 だが、それは不快な重さではなかった。泥の中深くに潜り込み、外界の雑音から守られているような、胎内回帰にも似た安心感。

 今の時刻は午後二時。

 本来ならば、商社の大会議室で、来期の予算編成に関する重要な戦略会議が行われているはずだ。蓮はその中心に座り、鋭い指摘で部下を震え上がらせ、上司を唸らせているはずだった。

 しかし今、蓮がしていることと言えば、楓の選んだ古いフランス映画を、訳もわからず、字幕も追わずにぼんやりと眺めることだけだった。


「……不思議だ」


 蓮は、自身の(てのひら)を天井にかざし、独り言のように呟いた。


「昨日の俺なら、一分でも無駄な時間を過ごせば、焦燥感で吐き気を催していたはずなのに」


 楓が、キッチンから戻ってくる。手には、剥いたばかりの梨と、銀色のフォーク。

 彼女は蓮の隣に音もなく座ると、フォークに刺した果実を彼の口元へ差し出した。


「それはあなたが、時間の本当の使い方を知らなかったからよ」


「本当の使い方?」


「そう。何もしない、何も生み出さない、ただ消費するだけの時間。……それが一番、人間を贅沢にしてしまうの」


 蓮は口元に運ばれた梨を口に含んだ。

 瑞々しい果汁が舌の上で弾ける。甘い。市販の梨が、これほどまでに甘かったことなど記憶にない。

 咀嚼(そしゃく)する音が、静かな部屋に小さく響く。

 食べて、寝て、ただ呼吸をする。

 家畜だ。あるいは、愛玩動物。

 かつて蓮が最も軽蔑していた「生産性のない存在」に、自分はなり果てようとしている。

 なのに、胸の奥底から湧き上がってくるのは、自己嫌悪ではなく、甘く、とろけるような幸福感だった。


「ねえ、蓮さん」


 楓が蓮の膝にそっと手を置き、覗き込むように言った。


「お髭、伸びてきたわね」


 言われて、蓮は顎に触れた。

 チクリとした感触。

 毎朝、高級シェーバーで深剃りし、ツルツルの状態を保つのが葛城蓮の流儀だった。無精髭(ぶしょうひげ)など、だらしない人間、敗北者の証とさえ思っていた。


「……剃らないと。みっともない」


「ううん、そのままでいいわ」


 楓は蓮の顎を撫でた。その指先が、ジョリジョリとした感触を楽しんでいる。


「その方が、人間らしくて素敵よ。『完璧』な仮面が剥がれて、中の弱い男の子が出てきたみたいで」


 弱い男の子。

 三十路手前の男にかける言葉ではない。だが、その響きは蓮の心の柔らかい部分を無防備に撫で回した。

 ずっと、強くなければならなかった。

 父のような威厳を持ち、リーダーとして振る舞い、婚約者を守る強い男。

 その虚勢を、彼女は「髭」という些細な(ほころ)び一つで、意図も容易く肯定したのだ。


「……俺は、弱くなんかない」


 最後の意地でそう口にしたが、口先だけで、声には何の力もこもっていなかった。

 楓はくすりと笑い、蓮の胸板に頭を預けた。


「いいのよ、強がっても。でもね、ここでは鎧を脱いで。重たいでしょう?」


 彼女の髪から漂うバニラの香りが、蓮の思考を白く塗り潰していく。

 蓮は抗うことを諦め、彼女の細い肩に腕を回した。

 こうしていると、自分が「葛城蓮」という固有名詞を持った人間ではなく、ただの肉の塊になったような気がして、ひどく楽だった。


 一方その頃、蓮が放棄した「外の世界」では、静かなる崩壊が始まっていた。


 大手町にある商社のオフィスビル。そのロビーに、西園寺明日香の姿があった。

 彼女は携帯電話を耳に当て、苛立ちを隠せない様子でフロアを行き来していた。ハイヒールの音が、大理石の床に鋭く響く。


『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』


「……ッ!」


 何度目か分からないアナウンス。明日香は乱暴に通話を切った。

 ありえない。

 蓮が連絡を絶つなど、天地がひっくり返ってもありえないことだ。

 昨夜のパーティーでの失態。父である葛城判事は般若の如く激怒し、「蓮を連れてこい」と怒鳴り散らしていた。明日香は蓮を庇い、(なだ)めるのに必死だった。

 そして今日。

 彼は会社を休んだという。

 体調不良? あの自己管理の鬼である蓮が?


「おや、西園寺さんじゃないですか」


 背後から声を掛けられ、明日香はハッと振り返った。

 派手なストライプシャツを着た男、早見哲が、自販機のコーヒー片手に立っていた。


「……早見さん。お疲れ様です」


 明日香は瞬時に「完璧な婚約者」の仮面を被り、優雅に微笑んだ。


「蓮さんに会いに? 残念でしたねえ、彼、今日は『お休み』ですから」


 早見は「お休み」という単語を、わざとらしく強調した。


「ええ、存じております。少し熱が出たようで……彼の様子を見に伺ったのですが、マンションにいらっしゃらないようなので」


「へえ、マンションにいない? 病人なのに?」


 早見の目が、獲物を見つけた爬虫類のように細められた。


「変ですねえ。昨日の会議でも、彼はありえないミスをしていましたよ。桁を間違えるなんて、新入社員でもやらないようなポカを。……それに昨日、定時で帰った後、彼がどこへ行ったかご存知です?」


「……いいえ」


「雨の中、傘も差さずに路地裏へ消えていくのを見たって奴がいるんですよ。まるで、何かに取り憑かれたみたいにね」


 明日香の心臓がドクリと跳ねた。

 路地裏。ありえないミス。そして無断欠勤に近しい病欠。

 彼女の知る「葛城蓮」の像が、音を立ててひび割れていく。


「西園寺さん、気をつけた方がいいですよ。人間、張り詰めた糸が切れる時ってのは、一瞬ですから」


 早見は意味深に笑うと、片手を挙げて去っていった。

 残された明日香は、スマートフォンを握りしめた。ギリギリと爪が画面に食い込む。

 心配? いや、違う。

 これは、恐怖だ。

 私の作り上げた「完璧な未来」が、「葛城蓮」という土台から崩れ去ろうとしていることへの恐怖。


「……どこにいるの、蓮さん」


 彼女の呟きは、オフィスの喧騒にかき消された。


 日が暮れ、楓の部屋は深い藍色に沈んでいた。

 電気もつけず、二人はただソファに座り、窓の外の夜景を眺めていた。

 遠くに見えるビルの明かりや、車のヘッドライト。それらはまるで深海魚の群れのように、美しく、それでいて無機質に光っている。

 あの中で、何万人もの人間が、何かにしがみつくように働いている。

 そして今朝までの自分も、その中の「一匹」だった。


「……夜になったな」


 蓮がポツリと言う。

 魔法が解ける時間だ。

 一日休んだ。体調は回復したことになっているだろう。明日からはまた、あのスーツを着て、偽りの仮面を被り、あの戦場へ戻らなければならない。

 そうしなければ、俺は人間としての枠組みを完全に失ってしまう。


「帰らなきゃ、いけない」


 蓮の言葉に、楓は反応しなかった。ただ静かに、彼の手の甲を指でなぞっている。

 帰らなければ。

 頭では分かっている。だが、腰が石のように重い。

 立ち上がりたくない。あのドアを開けたくない。その先に行きたくない。

 あの「味のしない世界」に戻るくらいなら、いっそこのまま、この部屋の酸素が尽きるまで座っていたい。


「……ねえ、蓮さん」


 楓が唐突に口を開いた。


「もし、明日も雨が降っていたら、お休みしましょうか」


「……え?」


「雨の日に働くなんて、憂鬱じゃない。そんな辛いこと、しなくていいわ」


 蓮は窓を見た。

 夜空には月が出ている。雨など降る気配は微塵もない。


「晴れているぞ」


「そう? 私には、土砂降りに見えるけれど」


 楓は蓮を見上げた。その瞳は、暗闇の中で妖しく光っている。


 ――ああ、そうか。


 彼女は「天気」の話をしているのではない。

 蓮の心の話をしているのだ。

 蓮の心には、いつだって冷たい雨が降っている。誰にも見えない、止むことのない雨が。


「……そうだな。大雨だ」

 蓮は認めた。

 認めてしまった。

 それは、社会人として、「葛城蓮」としての死刑宣告に等しい同意だった。明日も休む。理由などない。ただ「心が雨だから」という、あまりにも幼児のような理屈で。


「ふふ。じゃあ、決定ね」


 楓は嬉しそうに笑うと、蓮の首筋に顔を埋めた。


「明日も、明後日も、その次も。雨が止むまで、ずっとここにいればいいわ。私が守ってあげる。怖い上司からも、厳しいお父様からも、口うるさい婚約者からも」


 悪魔の契約。

 魂を売り渡す代わりに、永遠の安息を手に入れる取引。

 蓮はその取引に応じた。


 その時。

 ベッドの上に放り出されていたスマートフォンが、ブブブ、と低い音を立てて震えた。

 静寂を切り裂く、不吉な振動音。

 画面が光る。

 表示された名前は『父』。

 蓮の身体がビクリと跳ねた。パブロフの犬のように、父からの呼び出しには即座に反応するように調教されている身体が、恐怖で強張る。


「……で、出ないと」


 蓮は反射的に立ち上がろうとした。

 この電話を無視すれば、本当に勘当されるかもしれない。葛城家から放逐されるかもしれない。

 それは、蓮にとっての「死」を意味していた。


 だが、楓の手が蓮の腕を掴んだ。

 細く、今にも折れてしまいそうな指。しかし、万力のように強い力。


「行かないで」


 楓の声は、懇願ではなく、命令だった。


「その電話に出たら、あなたはまた『あっち側』に連れ戻される。……また、砂を噛むような毎日に戻りたいの?」


「だ、だけど……父さんが……」


「お父様は、あなたのことなんて愛していない。彼が愛しているのは『優秀な息子』というトロフィーだけよ」


 楓は蓮の腕を引き寄せ、彼を再びソファに座らせた。

 そして、スマートフォンへと手を伸ばす。

 着信音は鳴り止まない。ブブブ、ブブブ。まるで今の蓮の心臓の鼓動を表すかのように。

 楓はその画面を見下ろし、冷ややかな笑みを浮かべた。


「うるさいわね」


 彼女は蓮を見た。


「消していい?」


 問いかけ。

 だが、その裏には「私を選べ」という強烈な圧力が潜んでいる。

 父を取るか、楓を取るか。

 正しさを取るか、堕落を取るか。

 蓮は震える唇を開いた。


「……ああ」


 声が掠れる。


「消してくれ。……俺は、もう聞きたくない」


 それは、葛城蓮が「葛城蓮」であることを放棄した瞬間だった。

 楓は満足げに微笑むと、長押しで電源を切った。

 画面から光が消える。

 振動が止まる。

 部屋に、完全な静寂が戻ってきた。


「……いい子」


 楓は蓮に跨るようにして抱きついた。

 彼女の体温が、震える蓮の身体を包み込んでいく。


「これで、誰にも邪魔されないわ。……さあ、続きをしましょう」


 続き。

 それは、破滅への続き。

 蓮は彼女の背中に腕を回し、すがりつくように抱きしめた。

 もう戻れない。

 橋は焼かれた。

 自分自身のてで、退路を断ったのだ。


 暗闇の中で、蓮の口元に微かな笑みが浮かぶ。

 絶望的な状況のはずなのに、なぜだろう。

 こんなにも胸が軽いのは。

 こんなにも、自由を感じているのは。


 蓮は楓の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

 甘いバニラの香り。

 それが今の彼にとっての「酸素」であり、世界そのものだった。

 外の世界では、きっと大騒ぎになっているだろう。捜索願が出されるかもしれない。

 だが、今の蓮には、それすらも遠い国の出来事のように思えた。

 彼は目を閉じ、底なしの沼の底で、泥のような眠りへと落ちていった。

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