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四話目

 目覚めは、脳まで痺れてしまうほど甘いバニラの香りとともに訪れた。

 葛城蓮は重いまぶたを無理やり押し上げる。視界に広がったのは、いつもの無機質なグレーの天井ではなく、古びた、しかし小さなところまで手入れの行き届いた木目の天井だった。

 小鳥のさえずりのような、高いハミングが聞こえる。

 蓮は身を起こそうとするが、突如激しいめまいに襲われた。昨夜飲んだ紫色のリキュール、『パルフェ・タムール』の残滓(ざんさい)が、まだ脳の奥で揺蕩(たゆた)っている。

 ここはどこだ。

 記憶をたぐる。チャリティーパーティー。逃走。雨の路地裏。そして、白石楓の腕の中。


「……ああ」


 蓮は両手で顔を覆った。

 やってしまった。

 やはり夢などではなかった。彼は本当に、あの厳格な父と、完璧な婚約者と、そして自身のキャリアの全てを放り出して、この場所へ逃げ込んだのだ。

 自分が犯してしまった、あまりの恐怖で胃が縮むかと思った。

 だが、不思議なことに、蓮の胸を満たしていたのは、休日の朝に二度寝を許された子供のような、背徳的な安らぎだった。


「あら、おはよう。蓮さん」


 レースのカーテン越しに柔らかな朝陽が差し込む部屋の入り口に、楓が立っていた。

 昨夜のエプロン姿ではない。大きめの白いニットに、ショートパンツというラフな格好だ。その無防備な姿が、ここが彼女のプライベートな聖域であることを、否応なく強烈に意識させる。

 彼女の手には、薄透明の湯気を立てるマグカップがあった。


「……おはよう。今は、何時だ」


「十時を少し回ったところ」


「十時……ッ!?」


 蓮は弾かれたようにベッドから飛び起きようとしたが、酔いが回って、ふらついてまたシーツに沈んだ。

 十時。始業時間を一時間も過ぎている。

 蓮の人生において、遅刻などという失態は一度たりとも許されなかった。無断欠勤など言語道断だ。

 慌てて枕元を探る。昨夜、電源を切ったはずのスマートフォンが見当たらない。


「スマホなら、あっちのテーブルよ」


 楓が顎で指した先、アンティークのライティングデスクの上に、黒い端末が置かれていた。

 蓮は這うようにして近づき、電源を入れた。

 起動した瞬間、端末が発作を起こしたかのように振動し始めた。


 ――不在着信、五十八件。

 

 ――メッセージアプリの通知、未読百件以上。


 『父』『西園寺明日香』『部長』『早見』――。

 画面を埋め尽くす名前の羅列が、蓮を責め立てる裁判官の列のように見えた。

 蓮の指が震える。呼吸が浅く、ままならなくなる。

 かけ直さなければ。謝罪しなければ。すぐにタクシーを呼んで、土下座をして――。


「見ちゃダメ」


 背後から、楓の白く細い手が伸びてきて、蓮の目元をふわりと覆った。

 視界が遮断され、バニラの香りが鼻腔を満たす。


「そんなもの見たら、せっかくの美味しい朝ごはんが不味くなっちゃう」


「で、でも……会社に、父さんに連絡しないと……俺はもう終わりだ、こんな……」


「終わってないわ。始まるのよ」


 楓は蓮の手からスマートフォンを取り上げると、無造作にベッドへ放り投げた。

 そして、幼児に言い聞かせるように優しく、しかし有無を言わせぬ響きで言った。


「電話して。『体調が悪いから休みます』って。それだけでいいの」


「それだけで済むはずがない! 昨日の今日だぞ、何の説明もなしに――」


「蓮さん」


 楓が蓮の肩を掴み、正面から見据えた。

 その瞳は、吸い込まれそうなほど澄んだ、あまりにも綺麗な飴色をしていた。


「あなたは今、『病気』なの。『正しさ』という病に侵されて、心が死にかけているの。だから休む権利がある。……嘘なんかじゃないわ。本当のことよ」


 正しさという病。

 その言葉が、蓮の胸にストンと落ちた。

 そうだ。俺は病気だ。味も分からない、息もできない、こんな状態が健康なはずがない。

 蓮は、魔法にかけられたように頷いた。

 再びスマートフォンを手に取る。指の震えは止まらないが、今度は違う種類の震えだった。

 初めて、自分の意思で「社会」を拒絶する震え。

 会社への直通番号をタップする。


『はい、開発部です』


 部下の女性の声だ。背後で電話のコール音や話し声が聞こえる。いつもの、あの殺伐とした戦場の音。


「……あー、葛城だ」


『あ! 葛城リーダー!? 大変です、部長が朝からカンカンで……今どちらですか? すぐに出社できますか?』


 蓮は唾を飲み込んだ。

 異常なほど喉が渇く。楓が横から、マグカップを蓮の口元にゆっくりと運んでくれた。

 温かいハニーミルク。

 甘さが喉を潤し、勇気という名の『毒』を与える。


「……いや、行けない」


『え?』


「体調が悪い。夜から熱が下がらないんだ。……悪いが今日は、休ませてもらう」


『え、あ、でも、昨日のパーティーの件で、会長への謝罪が……それに、今日の会議は……』


「頼む」


 蓮は一方的に通話を切った。

 プツン、という音とともに、世界との繋がりが一つ断ち切られた。

 心臓が破裂しそうだった。

 嘘をついた。仕事を放り投げた。

 だが、その直後に押し寄せたのは、得も言われぬ解放感だった。

 重たい鎧を全て脱ぎ捨て、裸で草原に寝転がったような清々しさ。

 蓮はその場に崩れ落ちるように座り込み、天井を仰いで力なく笑った。


「……はは。言えた……言えたぞ」


「よくできました」


 楓が蓮の頭を撫でる。

 まるで、初めてお使いに成功した子供を褒める母親のように。


「さあ、ご褒美の朝食にしましょう。フレンチトーストを焼いたの。たっぷりのメープルシロップと、ホイップクリームを添えて」


 楓の部屋にある小さなダイニングテーブルには、まるで絵本から飛び出してきたような、豪勢な朝食が並べられていた。

 黄金色に焦げ目のついたフレンチトースト。彩り鮮やかなフルーツ。淹れたてのコーヒー。

 蓮はそっとナイフを入れる。パンは驚くほど柔らかく、カスタード液を限界まで吸い込んでぷるぷると震えている。

 口に運ぶ。

 

 ――甘美。


 バターの塩気と、メープルの濃厚な甘みが口の中で爆発する。

 味がする。やはり、彼女が作るものだけが、鮮明な色彩を持って蓮の舌を刺激するのだ。

 蓮は無我夢中で食べた。

 高級ホテルの朝食ですら砂の味だったのに、このジャンクで糖分過多な食事が、今の蓮には生命の水のように感じられた。


「美味しい?」


「ああ……すごく、美味しい……」


「よかった。いっぱい食べて、トロンと(とろ)けちゃえばいいわ」


 楓は自分ではあまり食べず、蓮が食べる様子をうっとりと眺めていた。

 その視線に、蓮は微かな背徳感を覚える。

 俺は今、家畜だ。

 彼女に餌付けされ、太らされ、社会から切り離されていく家畜だ。

 だが、その認識すらも、メープルシロップの甘さに絡め取られて消えていき、ただただ心地よかった。


 その時だった。

 玄関のチャイムが、唐突に鳴り響いた。

 ビクッとして蓮が顔を上げる。

 誰だ。父か? 明日香か? それとも会社の人か?

 隠れ家が突き止められたのか。


「……出なくていい」


 蓮が小声で言うと、楓は不思議そうに首を傾げた。


「妹よ」


「え?」


「食材を買ってきてもらったの。大丈夫、彼女は私の『協力者』だから」


 楓は軽い足取りで玄関へ向かう。

 ドアが開く音。低い話し声。

 やがて、楓の後ろから、おずおずと一人の少女が入ってきた。

 瑞希はダイニングに座る蓮を見て、明らかに動揺したように目を見開いた。


「……お姉ちゃん。この人……」


「ご挨拶しなさい、瑞希。新しいお友達の、蓮さんよ」


 白石瑞希(しらいしみずき)

 楓と似た面影はあるが、姉のような浮世離れした美貌ではなく、どこにでもいそうな素朴な女子大生といった風情だ。両手にはスーパーの袋を抱えている。


「葛城……です」


 蓮はバツが悪そうに会釈した。

 昼間からパジャマ同然の格好で、女の部屋に上がり込んでいる男。誰がどう見てもまともではない。

 瑞希は怯えたように視線を泳がせ、そして楓を見た。その目には、恐怖と、非難の色が混じっていた。


「……また、なの?」


 瑞希の声は震えていた。


「この人も、真悟さんみたいにするの?」


 真悟。

 昨夜の廃人の名前に、蓮のナイフが止まる。


「人聞きの悪いこと言わないで」


 楓の声は変わらず穏やかだったが、室内の温度が一度下がったような冷気を含んでいた。

 彼女は瑞希の頬に手を添え、優しく、しかし逃げられない力で固定した。


「私はただ、傷ついた小鳥を休ませてあげているだけ。……ね? 瑞希もそう思うでしょう?」


「……っ、はい」


 瑞希は青ざめた顔で頷いた。

 絶対的な支配関係。この姉妹の間には、蓮の知らない、暗く、重い歴史があるようだった。

 楓は満足そうに微笑み、買ってきた袋を受け取ってキッチンへと消えた。

 取り残された蓮と瑞希。

 重苦しい沈黙が流れる。

 瑞希は逃げ出すように出口へ向かおうとしたが、ふと足を止め、蓮の方を振り返った。

 その瞳が、必死の形相で蓮に訴えかけていた。


「……逃げて」


 蚊の鳴くような声だった。


「え?」


「今のうちです。まだ、間に合うから……このままここにいたら、あなた、骨まで溶かされちゃう……」


 骨まで溶かされる。

 それは比喩にしてはあまりにも的確で、そして今の蓮には魅力的すぎた。

 警告をしてくれているのは分かる。彼女はまともな倫理観を持っているのだろう。

 だが、蓮は首を横に振った。


「……帰れないんだ」


「どうして!?」


「外の世界は、味がしないんだ。……ここでしか、俺は息ができない」


 瑞希は絶句した。

 彼女は見たのだ。蓮の瞳の奥に宿る、あの高木真悟と同じ色の光を。

 自分から進んで毒を飲み干そうとする、破滅願望の光を。


「……バカな人」


 瑞希は涙ぐみ、吐き捨てるように言って部屋を飛び出していった。

 バタン、とドアが閉まる音が響く。

 キッチンから楓が顔を出した。


「あら、もう帰っちゃったの? お茶でも出そうと思ったのに」


「……ああ。忙しいみたいだった」


「そう。残念ね」


 落ち込むようなそぶりを見せたが、蓮の目には、楓は全く残念そうには見えなかった。

 彼女は淹れ直したコーヒーを蓮の前に置き、背後から彼の首に腕を回した。

 甘い匂いが、先ほどの瑞希の警告を、優しく塗り潰していく。


「邪魔者は消えたわ。……ねえ、蓮さん」


「ん?」


「今日は一日、何もしない贅沢を教えてあげる。時計も、スマホも、もちろん服も、全部いらないの。ただ二人で、溶け合うまで堕落しましょう」


 蓮は彼女の手を握り返した。

 その手は初めて触れた時よりも熱く、脈打っている。

 窓の外では、世界が忙しなく動いているのだろう。人々は働き、悩み、戦っている。

 かつてはその先頭を走っていた蓮だが、今はその光景が、ガラスケースの中の蟻の行列のように遠く、無意味なものに見えた。


 堕ちていく。

 真っ逆さまに、底のない、一度入ってしまったら、もう後戻りはでいない沼へ。

 だが、その落下感こそが、今の蓮にとって唯一の「生」の実感だった。


「……ああ。そうしよう」


 蓮は残りのフレンチトーストを口に運んだ。

 甘さは、さらに増していた。

 それは理性を腐らせる毒の味であり、同時に、孤独な魂を癒やす最後の救いでもあった。

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