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三話目

 その日、葛城蓮が感じていたのは、窒息してしまうほどの息苦しさだった。

 オフィスの空調は常に適温に保たれているはずなのに、肌にまとわりつく空気がひどく重く、淀んで感じられる。

 デスクに積み上げられた書類の山。モニターに並ぶ数字の羅列。それらすべてが、蓮の脳内で意味をなさず、ただの黒いシミとなって視界を汚していた。

 昨夜、白石楓の店で飲んだホットミルクの甘さが、未だに舌の根にへばりついているように残っている。いや、それは物理的な味覚というよりも、脳髄に焼き付いた快楽の記憶に等しいものだった。

 あれをもう一度味わいたい。

 あの薄暗い空間で、世界から切り離されたい。

 そんな渇望が、蓮の集中力を容赦なく削ぎ落としていく。


「――おい、葛城」


 不躾な声に、蓮は顔を上げた。

 早見哲が、蓮のデスクの端に尻を乗せ、見下ろすようにニヤついていた。手には一枚の稟議書が握られている。


「この決裁書、数字が間違ってるぞ。一桁違う」


 蓮は、瞬時に血の気が引くのを感じた。

 ひったくるように書類を受け取り、確認する。

 確かに、予算の桁が一つ足りない。小学生でもしないような、初歩的なミスだ。かつての「完璧な」葛城蓮ならば、決して犯し得ない過ちだった。


「……っ、すぐに訂正する」


「いやあ、珍しいねえ。あの葛城リーダーがこんなポカをするなんて。昨日は定時退社、今日はボンクラミス。……もしかして、どこか悪いんじゃないの? 頭とか」


 あえてか、早見の声は大きく、周囲の部下たちの耳にも届いている。フロアに走る、微かな動揺の空気。

 蓮は唇を噛んだ。唇からは血が流れ、口に鉄の味が広がる。いや、今の蓮にはその鉄の味すらも、砂利のような不快な感触でしかない。

 謝罪しなければならない。だが、喉が引きつって声が出ない。

 早見は蓮のその様子を見て、嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みを深めた。


「まあ、誰にでも間違いはあるさ。先に俺が気づいてよかったな。これが部長の目に触れてたら、お前の『完璧なキャリア』に傷がつくとこだったぞ」


 恩着せがましい言葉の裏にある、「お前の落ちていく様が見たい」という本音。

 蓮は震える指でキーボードを叩き、訂正印を押した。

 屈辱。

 だが、その屈辱の底で、微かに奇妙な感覚が蠢いていた。

 失敗した。俺は、確かに間違えた。

 それは恐怖であるはずなのに、心のどこかで、重荷が一つ地面に落ちたような、暗い安堵感が広がっていたのだ。


 その夜は、葛城家と西園寺家が懇意(こんい)にしている議員の主催する、チャリティーパーティーへの出席が義務付けられていた。

 都内の一等地に建つホテルの大宴会場。

 眩しいくらいに煌めくシャンデリア。正装した紳士淑女たち。行き交う高級な酒と、愛想笑い。

 蓮はタキシードに身を包み、婚約者の明日香をエスコートしていた。

 明日香は淡いブルーのイブニングドレスを纏い、誰もが意図せずとも振り返るような美しさを放っている。彼女の腕が、蓮の腕にしっかりと絡みついている。


「蓮さん、あちらに父のお知り合いの建設会社会長がいらっしゃるわ。ご挨拶に行きましょう」


 明日香が蓮を先導する。

 彼女にとって、この場は社交という名の戦場であり、蓮はその戦場における最強の「武器」だった。

 蓮は操り人形のように頷き、明日香に従う。

 会長の前で腰を折り、当たり障りのない会話を交わす。

 乾杯のグラスを掲げる。

 シャンパンを口に含む。

 

 ――酸っぱい。


 腐った酢のような味が、口いっぱいに広がる。

 周囲の人間が「素晴らしいヴィンテージだ」と称賛する中、蓮だけが吐き気を必死に堪えていた。


「あら、蓮さん。顔色が優れませんわ」


 心配そうに覗き込んでくる明日香。

 その瞳は澄んでいて、一点の曇りもない。彼女はこの世界の「正しさ」を微塵も疑っていないのだ。

 息が詰まる。

 この完璧な世界。誰もがルールを守り、誰もが建前を述べ、誰もが「幸福」を演じている黄金の檻。


「……少し、酔ったみたいだ」


「まあ。珍しいわね、あなたがお酒に負けるなんて。……でも、もう少し頑張って。あと三十分で、あなたのお父様のスピーチがあるの。その横には、私たちが並んでいないと」


 父のスピーチ。

 法と秩序。日本の未来。葛城家の責務。

 その言葉の羅列を想像しただけで、蓮の胃袋が痙攣を起こした。


(逃げたい)


 強烈な衝動が突き上げる。

 先日内ポケットに忍ばせた、あの百円程度のボールペンが、高熱を発して胸を焦がしている気がした。

 あれは俺の汚点だ。俺の罪だ。

 だが、それだけが、この嘘に塗り固められた世界で唯一の「真実」でもあった。


「……すまない、明日香。手洗いに」


「え? でも、もうすぐ――」


 明日香の制止を振り切るように、蓮は歩き出した。

 最初は早足で。会場を出て廊下に出ると、小走りで。

 エレベーターホールを通り過ぎ、非常階段の扉を押し開ける。

 重たい鉄の扉が閉まると同時に、喧騒が遮断された。

 コンクリートの冷たい空気。

 蓮はネクタイを乱暴に引き緩め、膝に手をついて荒い息を吐いた。


「はっ、はっ、はっ……」


 逃げた。

 父のスピーチをすっぽかした。明日香を一人残して逃げてしまった。

 これは、単なるミスではない。明確な「敵前逃亡」だ。

 明日になれば、父からの怒りが雷のごとく落ちるだろう。明日香は失望し、両家の間に亀裂が入るかもしれない。

 取り返しのつかないことをした。

 なのに。

 蓮の口元は、三日月のように吊り上がっていた。

 笑っていた。

 破滅への一歩を踏み出した自分が、滑稽で、惨めで、それでいてどうしようもなく愛おしかった。


 会場には戻らなかった。

 携帯電話の電源を切り、蓮はタクシーを拾った。

 向かう先は一つしかない。

 雨が上がったばかりの湿った路地裏。

『カフェ・ルリエ』のある、あの吹き溜まりへ。


 店の近くまで来た時、街灯の下に人影が見えた。

 よれよれのトレンチコートを着た、中年男。

 タバコの火が、暗闇の中で赤く明滅している。

 蓮が通り過ぎようとすると、男が低い声で声を掛けてきた。


「……いい服着てんじゃねえか。兄ちゃん」


 蓮は足を止めた。男の顔を見る。

 無精髭に、鋭い眼光。刑事ドラマに出てくるような風体だが、その瞳には獲物を狙う狩人のような粘着質な光が宿っていた。


「……何か用ですか」


 蓮は警戒心を露わにする。

 桐谷はタバコの煙をゆっくりと吐き出し、蓮のタキシードを値踏みするように見た。


「引き留めて悪いな、俺は桐谷颯介(きりやそうすけ)所轄(しょかつ)の刑事やってるもんだ。いやなに、最近この辺りで、行方不明者が多くてな。……いや、行方不明ってわけじゃねえが。家には帰らねえ、会社にも行かねえ、ただ『ある場所』に入り浸って、人間辞めちまう奴らがよ」


 桐谷の視線が、路地の奥にある『ルリエ』の看板に向けられる。


「兄ちゃん、悪いことは言わねえ。あの店だけはやめとけ」


「……どういう意味だ」


「あそこの女は、魔女だぞ」


 桐谷は地面にタバコを投げ捨て、革靴の爪先でグリグリと踏み消した。


「高木真悟って男を知ってるか? 元エリート銀行員だ。今の兄ちゃんみたいに、パリッとしたスーツ着て、自信満々な顔をしてた。……それが今じゃ、廃人寸前のホームレスだ。あそこで飼い殺しにされてな」


 蓮の脳裏に、昨夜見た男、高木真悟の姿が浮かぶ。

 あの虚ろな目。楓に縋り付く惨めな姿。


「警察は動かないのか」


「まあ法には触れてねえからな。あいつらは自分の意思で人生を捨てた。女はただ、それを『肯定』しただけだ。……だがな、人が人を壊すのに、暴力はいらねえんだよ。甘い言葉と、笑顔があれば十分だ」


 桐谷は一歩、蓮に近づいた。タバコのヤニと、古い革の臭いが鼻をつく。


「兄ちゃん、まだ引き返せる。その立派な服が泥だらけになる前に、お家に帰りな」


 正論だ。

 桐谷の言うことは、何一つ間違っていない。彼は正義の側にいて、蓮を救おうとしている。

 だが、今の蓮にとって、その「正しさ」こそが猛毒そのものだった。

 引き返せ? 家に帰れ?

 あの窒息しそうな「黄金の檻」に、また戻れというのか。砂の味しかしない食事を続け、完璧な人形を演じ続けろというのか。


「……忠告、どうも」


 蓮は短く言い捨て、桐谷の横をすり抜けた。

 背後で刑事が舌打ちをする音が聞こえたが、蓮は振り返らなかった。

 心臓が早鐘を打っている。恐怖ではない。

 禁忌を犯しているという興奮が、蓮の足を加速させた。


 カランコロン。

 扉を開けると、いつもの甘い香りが蓮を包み込んだ。

 客は誰もいない。

 カウンターの中で、楓がグラスを磨いていた。

 蓮の姿を認めると、彼女はゆっくりと目を細めた。


「いらっしゃい、蓮さん。……あら、今日は王子様みたいな格好ね」


 彼女の視線が、少し着崩れたタキシードに注がれる。

 蓮はふらりとカウンターに近づき、高い椅子に腰掛けた。

 全身の力が抜け、糸の切れた人形のように背中が丸まる。


「……逃げてきた」


 蓮は独白するように呟いた。


「パーティーがあった。父のスピーチがあった。婚約者が待っていた。……全部、捨てて逃げてきた」


 とんでもないことをした。

 社会人として失格だ。息子として、男として、最低のクズだ。

 さあ、罵ってくれ。お前はなんて弱い人間なんだと、軽蔑してくれ。

 そうすれば、まだ俺は「こちら側」で踏み止まれるかもしれない。


 しかし、楓の反応は蓮の予想を遥かに超えていた。

 彼女はカウンターから出てくると、蓮の背後からそっと抱きついたのだ。

 二つの柔らかい感触と、体温が背中に伝わる。


「すごいわ、蓮さん」


 耳元で、悪魔的な甘さを含んだ声が囁かれる。


「何百人も待たせて、お父様の顔に泥を塗って、婚約者を傷つけて……私のところに来てくれたのね」


「……俺は、最低だ」


「ううん、最高よ」


 楓の手が、蓮の胸元を這い、内ポケットの上で止まる。

 そこにあるボールペンの存在を確かめるように、指先を滑らせる。


「みんなが大切にしているルールを破って、期待を裏切るのって、すごくゾクゾクするでしょう? 自分が積み上げてきたものを、自分の手で壊す音……聞こえた?」


 ――聞こえた。


 ガラガラと音を立てて崩れ落ちる、信頼と信用の音。

 それは酷く恐ろしく、そして涙が出るほど美しい音だった。


「……ああ。聞こえた」


「いい子」


 楓は蓮の体を反転させ、向き合わせた。

 その瞳は、深淵のように暗く、それでいて星空のように輝いている。

 彼女はカウンターの下から、一つの小瓶を取り出した。

 中には、鮮やかな紫色の液体が入っている。


「今日はね、特別にご褒美をあげる」


 楓はグラスに氷を入れ、その液体を注いだ。

 カラン、と氷が鳴る。


「これ、パルフェ・タムール。『完全なる愛』っていうリキュールよ。……度数は高いけど、甘くて、「毒」みたいに美味しいの」


 彼女はグラスを蓮の唇に押し当てた。

 拒否権などない。

 蓮は流れるように口を開き、紫色の液体を流し込んだ。

 

 ――衝撃。


 花のような芳香。スミレ、バラ、アーモンド。

 強烈な甘みと、喉を焼くアルコールの熱。

 味がする。

 砂ではない。これは、色彩の暴力だ。

 蓮の視界が揺らぐ。世界が紫色の靄に包まれていく。


「……あ、まい……」


「そうよ。甘いの。辛いことなんて全部忘れて、溶けてしまいなさい」


 楓は蓮のネクタイを完全に解き、シャツのボタンを一つ外した。

 その指先が、蓮の鎖骨に触れる。まるで大切なものを扱うように優しく。


「ねえ、蓮さん。もっと壊しましょう? あなたを縛り付けている鎖を、一本ずつ、丁寧に切ってあげる」


 蓮の意識が朦朧とする。

 酔いが回るのが早すぎる。いや、これは酒のせいだけではない。

 目の前の女が発するフェロモンと、彼女の言葉が持つ魔力が、蓮の理性をドロドロに溶かしているのだ。


「明日は、会社に行かなくていいわ」


 楓が囁く。


「……え?」


「だって、こんなに顔色が悪いんだもの。誰だって心配するわ。……ズル休みしちゃいましょう? 私のベッドで、お昼まで寝ていればいい」


 会社を休む。

 無断欠勤? いや、病欠か。

 それは蓮が一度もしたことのない、勤勉さへの裏切り。

 今日、パーティーをすっぽかした上に、明日も会社に行かない。

 それは社会的な自殺行為に等しい。

 だが、楓の言葉は、もはや絶対的な命令であり、同時に甘美な誘惑だった。


「……でも、会議が」


「どうでもいいじゃない、そんなこと。世界が滅びるわけじゃあるまいし」


 楓は蓮の頬を両手で挟み、至近距離で瞳を覗き込んだ。


「あなたがいないと回らない会社なんて、あなたの人生を食い尽くす怪物よ。……今はただ、私のことだけ考えて」


 蓮の抵抗は、虚にそこで終わった。

 思考が停止する。

 明日香の顔も、父の怒鳴り声も、早見の嘲笑も、すべてが遠い彼方へ消え去っていく。

 残ったのは、口の中に広がるスミレの香りと、目の前の聖母の笑顔だけ。


「……分かった。休むよ」


 蓮が答えると、楓は満足げに、そして残酷に微笑んだ。


「ようこそ、蓮さん。……これであなたは、また一つ『人間』を捨てて、私だけのものに近づいたわ」


 ふと、窓に目をやる。雨が降っている。しかし、外の雨音は聞こえない。

 ここにあるのは、底なしの沼のような静寂と、致死量を超えた愛という名の猛毒だけだった。

 蓮はグラスに残った紫色の液体を飲み干し、自らその沼の底へと沈んでいった。

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