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二話目

 翌朝、目覚めた葛城蓮の視界に最初に飛び込んできたのは、枕元に置かれた一本のボールペンだった。

 何の変哲もない、コンビニで売られている百円程度のプラスチック製。

 だが、今の蓮にとって、このボールペンは最高級の万年筆よりも圧倒的に重く、そして妖しい輝きを放つ宝石のように見えた。

 昨夜の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を駆け巡る。

 雨の音。甘い紅茶。そして、白石楓の熱を帯びた指先。


『いいのよ、別に』


 彼女の囁きが、鼓膜の奥にこびりついて離れない。

 蓮はベッドから起き上がり、震える指でそのペンを掴んだ。本来ならば、今すぐにゴミ箱へ放り込むか、あるいはコンビニへ返しに行くべきだ。それが「葛城蓮」としての、そして人間としての正しい振る舞いだ。

 だが、できない。

 このペンは、蓮が初めて社会のルールという檻をこじ開け、手に入れた、いわば「戦利品」のようなものだった。これを捨ててしまえば、あの甘美な背徳感も、彼女に肯定された記憶も、すべてが嘘になってしまう気がした。


「……頭がおかしくなりそうだ」


 蓮は掠れた声で呟き、ペンをスーツの内ポケット、心臓に最も近い場所へと忍ばせた。

 異物が胸にある。その感覚だけが、今の蓮を支える唯一の杭だった。


 出社すると、いつもの無機質な空気が蓮を出迎えた。

 完璧に整頓されたデスク、鳴り止まない電話、キーボードを叩く、無機質で乾いた音。


「おやおや、葛城リーダー。今日は一段と顔色が悪いですねえ」


 背後から、わざとらしいほど明るい声が掛かる。

 振り返ると、派手なストライプのシャツを着崩した男が、ニヤニヤと笑いながらコーヒーを啜っていた。

 早見哲(はやみさとし)。同期であり、開発チームにおける蓮のライバルだ。


「……早見か。余計な心配はいらない。それより、来期のプロジェクト案はどうなっている」


「完璧ですよ、貴方ほどじゃないけどね。――で、昨日は随分と早く帰ったみたいじゃないですか。珍しい。あの『鉄人』葛城蓮が定時退社なんて」


 早見の視線が、値踏みするように蓮の全身を舐める。

 こいつはいつも勘が鋭い。蓮がひた隠しにしている「綻び」を、ハイエナのように嗅ぎ回っている。


「体調管理も仕事のうちだ。それだけだ」


「ふーん。まあ、いいですけど。あ、そうそう。お父上……葛城判事が、昨日のニュースでコメントしてましたよ。『法こそが秩序であり、逸脱は許されない』って。いやあ、立派なお父さんを持って大変ですねえ」


 早見は肩を竦め、嘲笑(しょうちょう)混じりに言い捨てて去っていった。

 蓮は奥歯を噛み締めた。

 逸脱は許されない。

 内ポケットのペンが、熱を帯びたように肌を焼く。俺は今、その父が最も憎むべき犯罪の証拠を身につけて、平然と仕事をしている。

 その事実に、蓮は恐怖ではなく、背筋がゾクゾクするような暗い高揚感を覚えてしまっていた。


 昼食の時間、蓮は都内のホテルにあるレストランの個室にいた。

 目の前に座るのは、豪奢なドレスワンピースを上品に着こなした女性、西園寺明日香(さいおんじあすか)だ。

 蓮の婚約者であり、著名なヴァイオリニスト。家柄、容姿、才能、すべてにおいて葛城家の嫁として申し分のない女性である。


「――蓮さん、聞いてらっしゃる?」


 凛とした声に、蓮はハッと我に返った。


「……すまない。少し考え事をしていた」


「もう。来月のリサイタル、あなたのご両親もいらっしゃるのよ。曲目はバッハのシャコンヌにするつもりなんだけど、お義父様のお気に召すかしら」


 明日香はナイフとフォークを優雅に使い、ミディアムレアに焼かれたステーキを口に運ぶ。

 蓮の手元にも同じ料理がある。優しく一切れ切り取り、口へ運ぶ。


 ――砂だ。


 血の滴るような極上の肉も、蓮の舌の上では、どれも生臭い砂利の塊へと変わる。

 噛むたびにジャリ、ジャリと音がするような錯覚。飲み込むのが極めて苦痛でたまらない。


「……美味しい?」


 明日香が尋ねてくる。


「ああ。とても」


 蓮は無表情で、まるで呼吸をするかのように嘘を吐く。

 明日香は安心したように微笑むと、身を乗り出して蓮の手を握った。


「私ね、思うの。蓮さんはもっと上に行ける人だって」


 彼女の手は冷たく、そして強かった。それは蓮を引き上げるための手であり、同時に蓮を縛り付ける鎖の手触りだった。


「あなたは葛城家の誇りよ。今の仕事だって素晴らしいけれど、ゆくゆくは政界へ出るべきだわ。私、そのためのサポートなら何でもするつもり」


「……明日香、俺は――」


「大丈夫、あなたならきっとできるわ。だってあなたは、私の選んだ『正しい』人なんだから」


 ――正しい人。


 その言葉が、鋭利な刃物となって蓮の胸を深く突き刺した。

 彼女は蓮を愛している。だが、彼女が愛しているのは「葛城蓮」という完璧な偶像であり、その中身などではない。

 もし俺が、ポケットに万引きしたペンを入れていると知ったら。

 もし俺が、味が分からず砂を噛んでいると知ったら。

 彼女は間違いなく、その美しい顔を歪めて軽蔑し、去っていくだろう。


「……そうだな。期待に応えられるよう、善処する」


 蓮は一切の感情を無くし、ロボットのように答えた。

 喉の奥で、飲み込んだ「砂」が逆流しそうになるのを必死で堪えながら。


 午後八時。

 会社を出た蓮は、逃げるようにタクシーへ乗り込んだ。

 行き先は自宅ではない。

 気付けば、雨の降りしきる路地裏へと足を向けていた。

 あの店に行かなければならない。

 あの甘い毒(紅茶)を飲まなければ、呼吸が止まってしまいそうだった。


『カフェ・ルリエ』の扉を開けると、カランコロンと古めかしいベルが鳴った。

 昨夜と同じ、薄暗い店内。湿った空気と、鼻を(くす)ぐるコーヒーの香り。

 だが、今日は先客が一人いた。

 店の片隅、一番暗い席に、一人の男が座っている。

 年は三十過ぎだろうか。無精髭を生やし、着古したパーカーを纏ったその男は、亡霊のように生気がなかった。

 テーブルの上には、見るからに冷めきったコーヒーが手つかずで置かれている。男はそれを飲むわけでもなく、ただ虚空を見つめていた。

 異様な雰囲気に、蓮が思わず足を止めると、男がゆっくりとこちらへ顔を向けた。

 落ち窪んだ眼窩。濁った瞳。

 そこには、絶望と、それ以上に深い「依存」の色が浮かんでいた。


「……新人、か……」


 男が掠れた声で呟く。


「は?」


「お前も、壊してもらいに来たのか。……白石(あいつ)に……」


 蓮は眉を顰めた。何を言っているんだ、この男は。

 その時、奥のカーテンが開き、白石楓が現れた。


「あら、蓮さん。いらっしゃい」


 彼女の声を聞いた瞬間、亡霊のような男の顔色が激変した。


「か、楓ちゃん……!」


 高木は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、楓に縋り付こうとした。


「待ってた、ずっと待ってたんだ! 今日こそ、今日こそ俺の話を……!」


 楓は微笑みを一切崩さなかった。

 慈愛に満ちた、聖母の笑顔。しかし、その瞳の奥は氷河のように冷徹だった。


真悟(しんご)さん。今日はもう閉店よ」


「そんな! 昨日もそう言ったじゃないか! 俺にはもう君しかいないんだ、会社も、妻も、全部捨てた! 君が『それでいい』って言ったから! なのに、どうして……!」


「ええ、言ったわ。でもね」


 楓は真悟の頬にそっと手を添えた。その仕草は蓮から見ると恋人同士のように親密に見えた。しかし、次の瞬間、彼女は甘く囁いた。


「もう、壊れきっちゃったおもちゃには、興味がないの」


 真悟が絶句する。

 楓は彼を突き放すのではなく、優しく背中を押して店の出口へと誘導した。


「今日は帰って。また気が向いたら、遊んであげるから」


「楓ちゃん、楓ちゃん……ッ!」


 真悟は泣き叫びながら、それでも彼女に逆らうことができないのか、とぼとぼと雨の中へ消えていった。


 静寂が戻る。

 蓮は立ち尽くしていた。

 今見たものは何だ? あの男は、一体。


「ごめんなさいね、騒がしくして」


 楓は何事もなかったかのように振り返り、昨日と変わらない笑顔で、蓮に微笑みかけた。


「……彼は、何だ」


「昔のお客様。ほんのちょっとだけ、依存されちゃったみたい」


 彼女は悪びれもせず、カウンターの中へ入っていく。


「さあ、座って。濡れたでしょう? タオルを持ってくるわ」


 蓮は警戒すべきだった。

 あの男の末路は、明日の自分の姿かもしれないのだ。

 だが、楓から漂う甘い香りが、蓮の理性を麻痺させる。

 指定された席、昨日と同じ席に座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。


「はい、どうぞ」


 楓がホットミルクの入ったカップを置く。

 蓮はそれを両手で包み込んだ。


 ――温かい。


「……俺も、いつかあんな風になるのか」


 独り言のように呟くと、楓は蓮の向かいに座り、じっと彼を見つめた。


「それは蓮さん次第ね。……でも、あんな風になるのも、悪くないと思わない?」


「何がだ。全てを失って、惨めじゃないか」


「本当に?」


 楓はテーブルに身を乗り出した。


「彼はね、自由なのよ。社会の期待も、責任も、正しさも、全部脱ぎ捨てて、ただ『私に愛されたい』という欲望だけで生きている。……今のあなたより、ずっと人間らしい顔をしていたと思わない?」


 蓮は言葉に詰まった。

 否定したかった。けれど、心の奥底で、あの男への嫉妬が渦巻いているのを自覚してしまった。

 なにもかも全てを投げ捨てて、この女に縋り付くことができたら、どれほど楽なのだろうか。


「ねえ、蓮さん」


 楓が視線を蓮の胸元、内ポケットのあたりに向けた。


「まだ、持ってるんでしょう? 昨日のペン」


 蓮は息を呑んだ。


「……なぜ」


「分かるわよ。だってあなたの心臓の音が、昨日よりずっと早くて、楽しそうだもの」


 楓は悪戯っぽく笑うと、蓮の胸に手を伸ばし、スーツの上からペンの感触を確かめるように、しかしどこか艶っぽく撫でた。


「捨てなかったのね。偉い」


 褒められた。

 犯罪の証拠を隠し持っていることを、「偉い」と。

 蓮の脳髄に、痺れるような快感が走る。


「普通の人は怖くなって捨てちゃうの。でも、あなたはそれを肌身離さず持っていた。……それはね、あなたが本気で『こっち側』に来たいと思っている証拠よ」


「こっち側……?」


「そう。正しさなんて何の意味もない、泥塗れの楽園」


 楓の手が、蓮のネクタイに触れ、少しだけそれを緩めた。

 たったそれだけの動作で、蓮の首を絞めていた見えない鎖が解けた気がした。

 蓮は震える手でホットミルクを口に運ぶ。

 

 ――甘い。


 砂糖など入っていないはずなのに、脳が溶けるほど甘い。

 昼間、高級ステーキを砂利と感じた舌が、今は安物の牛乳を極上の甘露として受け入れてしまっている。

 ああ、俺はもうダメだ。

 蓮は確信した。

 この味を知ってしまった以上、もうあの無味乾燥な「正しい世界」には戻れない。

 たとえその先に、あの真悟のような破滅が待っていたとしても。


「……もっと、欲しい」


 蓮は無意識に懇願していた。


「もっと、甘いものを。俺の舌を、頭を、全部溶かしてくれ」


 楓は満足げに目を細め、蓮の髪を子供をあやすように撫でた。


「いいわよ。焦らなくていい。(あい)はまだ、たっぷりあるから」


 窓の外では雷鳴が轟き、激しい雨が世界を叩きつけていた。

 だが、この店の中だけは、狂気的なまでの安らぎと、致死量の甘さに満たされていた。

 蓮は目を閉じ、その毒に身を委ねた。

 堕ちていく感覚は、空を飛ぶ浮遊感に、あまりにも似ていた。

原蓮翠です。

読んでくれてありがとうございます。

更新ペースとしては、とりあえず五話目までは毎日投稿、その後は三日に一回のペースであげてこうと思います。

いずれも時間は変わらず朝の七時で行こうと思います。


もし良いなと思ったら、ブックマークやコメントなどしてくれると励みになります。

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