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一話目

お久しぶりです、原蓮翠です。

新しく小説あげていきます。

定期的にあげていくので、見ていってください。

 今日も、口の中で錆びた鉄の味がする。

 

 葛城蓮(かつらぎれん)は、都心の高層ビル、その二十八階にある男子トイレの鏡に向かい、完璧に結び直されたネクタイを確認した。

 鏡に映る男は、誰がどう見ても「成功者」の顔をしている。仕立てのいいダークネイビーのスーツ、知性を演出する銀縁の眼鏡、隙のない整髪。大手商社の最年少チームリーダー。名家「葛城家」の長男。

 完璧だ。どこにも綻びはない。

 けれど、蓮の感覚器官はすでに壊死していた。


 半年ほど前からだろうか。何を食べても砂を噛んでいるような感触しかしない。

 高級フレンチのソースも、コンビニの握り飯も、母が送ってくる手製の惣菜だろうと、すべてが等しく、ざらついた灰色の粘土に変わる。

 味覚障害。

 医師は「ストレス性」と簡単に片付けた。処方された亜鉛や漢方薬をいくら飲んでも、舌にへばりついた「正しさ」という名の苦味は消えない。


「……葛城さん、そろそろ会議の時間です」


 部下が呼びに来た声に、蓮は反射的に口角を上げた。今や、練習など必要ない。三十年近く張り付けてきた仮面だ。筋肉が勝手に「頼れる上司」の形を作る。


「ああ、すぐ行く。資料の最終確認は済んでいるな?」


「はい、完璧です」


「結構」


 完璧。

 その言葉を聞くたびに、蓮の胃の腑でどす黒いマグマが泡立つ。

 完璧であらねばならない。優秀であらねばならない。清廉潔白で、他者の規範となり、葛城の家の名に泥を塗ってはならない。

 幼い頃から父に叩き込まれた戒律かいりつは、いつしか蓮の骨肉となり、今では彼自身を内側から締め上げる鎖となっていた。


 会議はいつも通り順調だった。蓮のプレゼンテーションは論理的で、反論の余地を与えない。上層部は満足げに頷き、部下たちは憧憬の眼差しを向ける。

 賞賛の声。拍手。


(うるさい)


 蓮は心の中で耳を塞ぐ。


(俺を見ろ。このスーツの下で腐りかけている、俺の本当の体を見ろ)


 誰も気づかない。蓮が今にも我を忘れ叫び出し、会議室のテーブルをひっくり返し、自分の指を噛みちぎりたい衝動に駆られていることに。

 彼らが見ているのは「葛城蓮」という精巧なフィギュアであって、中身の人間ではないのだ。


 定時を過ぎ、残業を終えてオフィスを出る頃には、冷たい雨が降り始めていた。

 傘を開き、アスファルトを叩く雨音に身を委ねる。このノイズだけが、耳鳴りを少しかき消してくれる。


 帰宅したくない。

 無機質な高級マンションの一室は、独房のように静かすぎる。

 ふと、ポケットの中でスマートフォンが振動した。画面には「父」の文字。

 蓮の指先が微かに震える。無視をすることは到底許されない。


「……はい、蓮です」


『来月の法事だが、分かっているな? 先方のお嬢さんもいらっしゃる。粗相のないように』


「分かっています。身なりも、振る舞いも、完璧にしておきます」


『当たり前だ。お前は葛城の人間なのだから。期待を裏切るな』


 通話が切れる。ツーツーという無機質な電子音が、蓮の鼓膜を刺す。


 期待。正しさ。規律。

 呼吸が浅くなる。喉の奥に、鉛の塊が詰まっているようだ。

 

 ――誰か、俺を殴ってくれ。

 

 ――お前は最低なクズだと、出来損ないだと罵ってくれ。


 そうすれば、この窒息しそうな「正しさ」の牢獄から解放される気がした。


 あてもなく夜の街を彷徨ううち、蓮は一軒のコンビニエンスストアの前で足を止めた。

 煌々と白く光る店内。深夜のコンビニは、現代の教会のように静謐せいひつで、それでいてひどく暴力的だ。

 ふらりと中に入る。

 店員は奥で作業をしているのか、レジには誰もいない。

 蓮は棚の間を歩く。色とりどりの商品が並ぶ。菓子、文具、化粧品、どれもが蓮にとっては色彩のないガラクタだ。


 文具コーナーの前で、視線が止まった。

 たかが百円程度の、安っぽいボールペン。

 蓮の胸ポケットには、数万円の万年筆が刺さっている。こんなもの、必要ない。

 だが、不意にその安っぽさが、どうしようもなく魅力的に見えた。

 泥のような衝動が、足元から這い上がってくる。


(これを盗めば)


 悪魔の囁きが聞こえた。


(これを盗んで捕まれば、俺のキャリアは終わる。父は激怒し、俺を勘当するだろう。当然、会社もクビになる。世間から痛いほど指弾される)


 それは破滅への道だ。

 けれど、今の蓮にとって、それは「救済」と同義だった。

 社会的に殺されたい。

 「葛城蓮」という偶像を、俺自身の手で粉々に破壊してしまいたい。


 心臓が早鐘を打つ。冷や汗が背中を伝う。

 蓮は周囲を見回した。防犯カメラの死角。店員どころか客の気配すらない。

 震える指を伸ばす。

 ボールペンを一本、掴む。

 そのまま、スラックスのポケットに入れた。


 やった。

 やってしまった。

 感じたことのない強烈な罪悪感と共に、脳髄が痺れるような快感が走る。

 これは反逆だ。父への、社会への、そして自分自身への。

 蓮は平然を装い、何も買わずに自動ドアへ向かう。

 自動ドアのセンサーが反応し、ドアが開く。

 呼び止められるか? ブザーが鳴るか?


 何も起きなかった。

 蓮は店の外に出た。雨はまだ降り続いている。

 成功してしまった。いや、失敗したのか。

 捕まらなかったことに安堵すると同時に、深い絶望が襲ってくる。俺は、犯罪者になっても尚、まだ裁かれないのか。


「……上手じゃなかったわね」


 不意に、鈴の鳴るような声がした。

 心臓が凍りついた。

 蓮は弾かれたように振り返る。


 そこには、一人の女が立っていた。

 透明なビニール傘を差し、濡れたアスファルトに影を落としている。

 年齢は二十代半ばだろうか。色素の薄い茶色の髪、透き通るような白い肌。どこか現実味のない、儚げな美しさを持つ女性だった。

 彼女は、コンビニのガラス越しに、一部始終を見ていたのだ。


 終わった。

 蓮の膝が震える。通報される。警察が来る。会社に連絡が行く。

 頭の中でうるさいほどにサイレンの音が鳴り響く。

 だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、これでようやく終わるのだという安らぎすら覚えてしまっていた。


「……通報するのか」


 蓮の声は掠れていた。


「見たんだろう。俺が、盗むところを」


 女は小首を傾げた。大きな瞳が、蓮をじっと見つめている。そこには軽蔑も、正義感も、恐怖もない。

 ただ、底知れない「慈愛」のようなものだけがたたえられていた。


「どうして通報するの?」


 彼女は不思議そうに言った。


「だって、あなたは今にも泣きそうな顔をしていたから」


 蓮は言葉を失った。

 何を言っている? 俺は犯罪者だ。万引き犯だ。


「辛かったんでしょう? どうしても、そうせずにはいられないくらい、追い詰められていたんでしょう?」


 女が一歩、近づいてくる。

 雨の匂いとは違う、甘く、どこか優しい花の香りがした。


「可哀想に。いいのよ、別に」


「……は?」


「たかが百円のペンじゃない。世界中の誰も傷つかないわ。あなたがそれで、少しでも息ができるようになったのなら」


 彼女は微笑むと、傘を差し出し、蓮をその中へ招き入れた。

 蓮の常識が、倫理が、音を立てて軋む。

 違う。そこは怒るべきところだ。軽蔑すべきところだ。「なんてことをしたんだ」と罵倒すべきところだ。

 なのに、なぜ彼女は笑っている?

 聖母のように。あるいは、悪魔のように。


「濡れちゃうわ。……少し、雨宿りしていかない? 私の店、すぐそこなの」


 拒絶すべきだった。

 だが、蓮の足は意思に反して動いた。

 彼女の纏う空気が、あまりにも心地よかったからだ。

 それは、生まれて初めて触れる、温度のあるぬるま湯だった。


 連れて行かれたのは、路地裏にある小さな喫茶店だった。『カフェ・ルリエ』という看板が控えめに下がっている。

 店内は薄暗く、アンティーク調の家具が並んでいた。すでに閉店時間を過ぎているようだが、彼女は慣れた手つきで奥の席へ蓮を促した。


「適当に座っていて。今、温かいものを淹れるから」


 彼女は白石楓(しらいしかえで)と名乗った。

 蓮はソファーに深く沈み込み、呆然としていた。ポケットの中のボールペンが、異物として太ももに触れている。

 俺は何をしているんだ。見ず知らずの女に現場を見られ、通報もされず、こうして茶をご馳走になろうとしている。

 異常だ。

 帰ろう。今すぐ帰って、このペンを処分しなければ。


「お待たせしました」


 コトリ、と目の前にティーカップが置かれた。

 琥珀色の液体から、湯気が立ち上っている。


「特製のハーブティー。落ち着くわよ」


 楓が向かいの席に座り、頬杖をついて蓮を見つめる。

 蓮はカップを手に取った。どうせ味などしない。砂利を溶かしたお湯を飲むようなものだ。

 義理で一口だけ飲んで、すぐに立ち去ろう。

 そう思って、口に含んだ瞬間だった。


 ――甘い。


 蓮は目を見開いた。

 衝撃が脳を貫いた。

 味がする。

 芳醇な果実のような香り、蜂蜜のような甘み、そして微かな酸味。

 半年間、灰色の砂漠だった蓮の舌に、鮮烈な色彩が蘇った。


「……え?」


 蓮は震える手で、もう一口啜った。

 間違いない。美味しい。涙が出るほど、美味しい。


「……味が、する……」


 思わず漏れた言葉に、楓が嬉しそうに目を細める。


「良かった。あなた、ずっと何も美味しくなかったんでしょう?」


 なぜ、分かる?

 蓮は彼女を見た。楓の瞳は、蓮の心の奥底にある澱みまで見透かしているようだった。


「分かるわよ。あなたの顔に書いてあるもの。『僕はこんなに頑張っているのに、誰も褒めてくれない。世界は灰色だ』って」


 楓はテーブル越しに手を伸ばし、蓮の手の甲にそっと触れた。

 冷たい蓮の手とは対照的に、彼女の手は火傷しそうなほど熱かった。


「頑張らなくていいのよ」


 その言葉は、蓮が最も欲しくて、しかし最も恐れていた言葉だった。


「正しくなくていい。立派じゃなくていい。時には悪いことをしたって、誰かを傷つけたっていいの」


「……そんなわけ、ないだろう。それは、人として」


「人として?」


 楓はくすりと笑った。


「あなた自身が苦しんで死にそうなのに、守らなきゃいけない『人としての正しさ』なんて、何の意味があるの?」


 彼女の指が、蓮の手の甲を優しく撫でる。

 それは、理性を溶かすほど甘く、それでいて危険を孕んでしまいそうな撫で方だった。

 

「あのね、私は見たの。あなたがポケットにペンを入れた瞬間。あの時のあなた、すごく綺麗な顔をしてた」


 楓はうっとりとした表情で、恐ろしいことを言った。


「まるで、世界への復讐を果たした子供みたいに。……私、そんなあなたが愛おしいと思ったわ」


 肯定。

 無条件の、絶対的な肯定。

 万引きという犯罪行為すら、「綺麗だ」「愛おしい」と変換してしまう狂った価値観。

 だが、その狂気が、今の蓮には福音だった。

 叱責されること、否定されることで保っていた蓮の自制心が、音を立てて崩れ始める。


 ダメだ、この女は危険だ。

 本能が警鐘を鳴らす。これに身を委ねてはいけない。これは優しさではない。人間をダメにする麻薬のようなものだ。

 しかし、蓮はカップを置くことができなかった。

 この紅茶があまりにも美味しく、彼女の体温があまりにも心地よかったから。


「……名前、教えてくれる?」


 楓が囁く。


「葛城……蓮」


「蓮さん。素敵な名前」


 楓は蓮の手を両手で包み込み、祈るように言った。


「もう我慢しないで。ここに来れば、あなたはあなたのままでいい。どんな罪を犯しても、どんなに醜くても、私が全部『よし』としてあげる」


 その笑顔を見た瞬間、蓮の中で何かが切れた。

 張り詰めていた糸が切れ、重たい鎧が剥がれ落ちていく感覚。

 それは転落の始まりだったが、今の蓮には「解放」としか思えなかった。


「……また、来てもいいだろうか」


 掠れた声で問うと、楓は花が咲くように微笑んだ。


「もちろん。待っているわ、私の可哀想な蓮さん」


 蓮は残りの紅茶を飲み干した。

 甘い。あまりにも甘い。

 それは、致死量へと至る最初の(あい)の一滴だった。

 窓の外では、雨が激しさを増し、世界を洗い流そうとするかのように降り続いていた。だが、この閉じた空間だけは、腐り落ちそうなほどの甘い香りで満たされていた。

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