屋上の煙と
職場という場所は何時からこんなに息苦しいモノになったのだろう。
昼休みのオフィス。
僕はコンビニのパンを片手に視線を落したままひっそりと食事を終えようとしていた。
「高木さん、昨日の見積、フォーマット違ってましたよ。過去の見積を確認すればわかる事ですよね。何故しなかったんですか、そんな簡単な事」
とバインダーに挟んだ資料を僕のデスクに叩き付ける様に細川結衣は置いた。
僕は最後の一口を無理矢理飲み込むと細川に頭を下げて、
「すみません……。急いでいたんで」
と缶コーヒーを手に席を立った。
これ以上意味のないやり取りをしたくなかったのだ。
細川結衣は今のオフィスの空気そのモノだだった。
彼女が喋れば周囲が頷く。
彼女が笑えば皆が笑う。
彼女が誰かを否定すれば同調する様に場が冷え込む。
しかし、それは表の顔で、誰もが薄々気付いていた。
彼女の言葉は常に「正論」に装われ、他人を捩じ伏せる為に使われていた。
だからこそそれを真正面から否定出来なかった。
細川は容姿は悪くない。
男性社員からも良く声を掛けられ、人気もある様だ。
それを本人も自覚しているのだろう。
それが故に実際に関わる僕たちにとっては彼女の中身が猛毒である事で更なるダメージを受けている。
さっき僕が彼女に返した言葉の後に続く言葉は皆に簡単に予想できる。
「急ぎなら猶更基本を守るべきなんじゃないんですか。そう言う事の積み重ねがいい加減な仕事に繋がるんじゃないんですか。もう何度目なんですか」
そんな意味の無い叱咤を僕も、同じ営業部の同僚も何度も受けて来ている。
正直、皆がうんざりしているのだが、
「細川さんって怖いよね」
「正しい事を言ってるんだけど、応用が利かないって言うか」
「マニュアル通りの言葉なんだよね」
「でも絡まれるとストレスだし、俺は関わりたくないね」
などと陰では話している事も知っているが、誰も口にはしない。
彼女の「空気」に飲まれてしまった職場で、僕は浮いていた。
気が付くと僕はこの会社に入ってからは止めていたタバコを吸う様になり、喫煙所のある屋上に逃げる様になっていた。
同じ営業部にタバコを吸う人は居ない。
屋上の隅で一人タバコを吸うのが日課になっていた。
大学時代に吸っていた銘柄のタバコをコンビニで買い、日に何度か屋上に来ては吸う。
その時間だけが僕を取り戻す時間の様に思えた。
苦く、重い、その味が学生時代の記憶を呼び覚ます気がした。
昔、よく読んでいた本を久しぶりに書店で買い、それを手摺に寄り掛かってタバコを吸いながら開く。
「世界が理不尽である事を理解した瞬間、人は問いを持ち始める。そしてその問いは「動く事」を生む」
最近流行りのビジネス書だったが、同じ様な事を大学の哲学の教授が言っていたのを思い出した。
そして難解ではあったが、その一文が今の自分の胸に刺さった。
問いって何だろうか……。
何故、こんなにも息苦しいのか。
何故、誰とも分かり合えないのか。
その答えを探したくなった。
ふと、顔を上げると灰色のスーツ姿の女性が立っていて、僕と同じ様にタバコを取り出して火をつけていた。
確か、経理部の田嶋さん……。
何度か見た事はあったが、話をした事は無く、軽く会釈だけして本を閉じ、吸い殻入れで火を消し、僕は屋上を去った。
僕は階段を下りながら何度か後ろを振り返った。
経理の田嶋真理。
少し僕より年上で、社内でも「鋭い」事で知られている。
経費精算でおかしな箇所があると細川とはタイプが違うが理詰めしてくる事で有名だった。
幸い僕は経験が無いが、課長たちは彼女の事を「冷徹の魔女」と呼んでいる様だった。
翌日の昼、僕は同じ様にコンビニで買ったサンドイッチを缶コーヒーで流し込む様に昼食を取り、屋上へ上がる。
そしていつもの場所でまたタバコを咥えて煙を吐いた。
するとまた田嶋さんがやって来て、タバコを吸い始めた。
僕は田嶋さんに背を向けてざらつく手摺に肘を突くと街に向かって不満を吐き出す様に煙を吐く。
「最近……。タバコ始めたの……」
僕の後ろからそんな声がして振り返る。
少し風が強いのか、田嶋さんは長い髪を掻き上げながら僕を見ていた。
斜めに咥えているタバコが様になっていた。
僕は「冷徹の魔女」に話しかけられた事に動揺していた。
「はい……。就職した時に止めたんですけど、少し前にまた吸い始めました」
彼女はクスリと笑い、私の横に並んで立つ。
「確か営業二課の高木君ね……。あそこは細川がストレスの種って聞いてるわ。ストレスでまた吸い始めたのね……」
ストレスでタバコを吸い始めたと言うと、細川結衣に負けた気になるのが癪で、僕は首を横に振った。
「どちらかと言うとノスタルジック……ですかね」
僕のその言葉に田嶋さんは微笑む。
「ノスタルジックなんて、文学的な言葉を使うのね……」
細川と同じ人種だと思っていたが、田嶋さんはそうではなく、意外に気さくな人物である様に思えた。
僕はタバコを消すと、二本目のタバコを取り出す。
「あら、私と同じタバコ……」
田嶋さんもポーチからタバコの包みを出して僕に見せた。
「昔からこれなんです。ジジイ臭いってよく言われましたけど、何か落ち着くんですよ」
「奇遇ね……。私も昔からこれ。大学の頃からずっと変わってない」
奇妙な共通点だったが、何故かそれが嬉しかった。
それから昼休みになると田嶋さんが僕と同じ時間に現れる様になった。
元々口数の少ない田嶋さんと僕は、言葉は少ないが、何かを共有している様な不思議な沈黙を感じていた。
それでも僕は彼女と何気ない会話を交わす様になった。
「細川、うざいでしょ……」
ある日、彼女は唐突にそう言う。
僕は何も答えずに苦笑した。
「正しい事ばかりを並べ立てて、自分だけ無傷で居る事を感覚で知っているのよ……。どんな生き方して来たらあんな風になるのか」
僕は田嶋さんの言葉に思わず笑ってしまった。
誰かが細川の事をそんな風に口にしたのを聞いたのは初めてだったからだ。
「でも、正論なんですよね……」
「それが一番、性質悪いんだよね……。正論ってさ、ナイフと同じで、馬鹿が振り回すと人を平気で殺すんだよ……」
田嶋さんの言葉は乾き冷たくて、でも核心を突いていた。
「君さ、我慢しすぎじゃないかな……。まあ、君に限らずだけど」
「我慢ですか……」
彼女はタバコの煙を僕と同じ様に街に向かって吐いた。
「会社ってさ、空気を読むゲームみたいなモンでさ。だけど、ずっとそればかりやってると自分ってモンがなくなってしまうのよね……」
彼女は僕を見た。
「君は毎日毎日我慢して、最終的には何がしたいの……」
彼女のその問いが僕の中でずっと響いていた。
僕は何がしたいんだろうか……。
その夜から僕は眠れなくなった。
ベッドに入っても田嶋さんの声が頭を離れなかった。
「最終的には何がしたいの……」
僕は何をして生きたいんだ……。
思い返せば、僕が一番輝いていたのは大学時代だった。
演劇部で毎晩の様に稽古ををして仲間たちと脚本を練って、舞台に立ち拍手を浴びて。
あれは自分の命が言葉になり、生きていると実感していた日々だった。
ある時、自主公演の稽古で深夜まで練習し、終電を逃して駅のベンチで寝た。
凍えるような寒さだったが朝焼けと共に舞台の構想が浮かんだ時、胸が震えた。
世界はこんなに広くても僕にはまだまだ語りたい物語があると確信した。
でも、就職してスーツを着て無難に生きる事が最適解だと思ってしまった。
社会に迎合して波風を立てない様に。
だから、今の自分は……。
朝まで寝ていたのか起きていたのかわからない日が続き、三日目の帰り、身体が重くなり、立っていられなくなった。
限界だった。
そして四日目の昼、疲れた身体を引き摺る様に階段を上がり、屋上に出た。
僕より早く屋上でタバコを吸っていた。
僕はゆっくり田嶋さんの横に立って、手摺に寄り掛かる様に手を突いて立った。
「大丈夫……。顔色悪いわよ……」
大丈夫だと短く返事をしてポケットからタバコを出した。
「生き難い環境で生きてるんだね」
僕は煙を吐き、一度目を強く瞑り頭を軽く振った。
「ほら、どうぞ……」
田嶋さんは僕に缶コーヒーを差し出す。
「どうせお昼も食べてないんでしょ……。あ、サンドイッチとかの方が良かったかな」
僕はお礼を言って缶コーヒーを受け取った。
「この間、此処で本、読んでたでしょ……」
田嶋さんはそう言うと一冊の本を僕に見せた。
「理不尽である事を理解した瞬間、人は問いを持ち始める……。これでしょ……」
彼女の本は新書館だったが、僕が持っている文庫本と同じ本だった。
「同じ本ですね……。その言葉に僕も引っ掛かっていて……」
田嶋さんはクスリと笑うと本をパラパラと捲りながら、
「人ってさ、誰しも生きやすい場所って何処かにあるんだよ。其処に行かずに「世の中が悪い」とか「あいつが悪い」とか言っててもただの被害者でしょ……」
「生きやすい場所……」
「そう……。自分の重さを変えずに立てる場所。それが答えじゃないかな……」
田嶋さんの言葉は胸に直に響く感じがした。
その日の夜、僕は帰宅後、押し入れの中にしまってあった学生時代の脚本を引っ張り出して読み返した。
台本の端には青いボールペンで書き足した台詞やト書きが残っていた。
それこそが当時の自分自身だった。
芝居の練習風景が蘇る。
「そこは違うんじゃないかな……。この主人公はこのシーンは絶望しているんだろ。もっと世の中に対しての無力感を……」
「此処は絶望よりも世の中に立ち向かう姿勢の方が」
「いや、違うだろ」
「俺はそうじゃないと思うぞ」
仲間たちがそれぞれに声を上げる。
そんなやり取りの全てに意味がある様な気がしていた。
僕は自然と笑みが零れていた。
そして時間を忘れて一晩中、昔の脚本を読み返していた。
「田嶋さんは今、生きやすいですか」
僕はタバコの煙を吐きながら、横に立つ彼女に訊いた。
田嶋さんは僕に微笑むと街の方を見て、煙を吐いた。
「嘘でも生きやすい場所とは言えないな……」
と言う。
そして、田嶋さんは俯くと何処を見るでもなく、ゆっくりと話し始めた。
「私さ、昔、シナリオ書いてたんだ。って言っても学生時代に文芸部と演劇サークルを掛け持ちしてたせいだけどね」
「えっ……」
僕の声が大きかったのか、田嶋さんは驚いて僕の方を見る。
「何……」
「僕は演劇やってました」
僕はまた田嶋さんに親近感を覚えた。
「そ、そうなの……」
「はい」
何故かそれ以上話すのは少し恥ずかしく思えて、声のトーンを落とした。
「演劇か……。俳優になりたいとか思ってなかったの」
田嶋さんは二本目のタバコを咥えて火をつけた。
「当時はやりたいって思っていた事もありましたけど……」
僕は恥ずかしくなって、更に声のトーンを下げる。
「けど……」
「けど、無難な道をって普通に就職して……」
田嶋さんは私を見て微笑む。
「私は親に言われて会社員になった。でも、後悔してるよ……」
田嶋さんはポーチから小さなノートを取り出して、日々の断片、物語の欠片をメモしているのだと言う。
「また最近書き始めたのよ。やっぱり諦めきれなくてね」
週末に寝ずに昔の脚本を読んだせいか、僕も田嶋さんの気持ちが痛い程わかった。
「そこにあるんじゃないの……。高木君の生きやすい場所って……」
その言葉に僕はじっと街を見て考えた。
「あ、そうだ……。明日の夜、知り合いの劇団の見学に行くけど、一緒に行ってみない」
僕は勢いよく田嶋さんを振り返り、即答した。
「是非、見てみたいです」
翌日、仕事も手に付かず夕方を迎え、会社の前で待ち合わせた田嶋さんと一緒に二駅程先で稽古しているという劇団を見に行った。
俳優たちが汗を流し、ぶつかり合いながら台本に命を吹き込む姿に胸が震えた。
言葉の一つ一つが血肉になっているのを感じて、僕はその場に立ちたいと心の底から思った。
そこから僕は何度かその劇団の稽古を見に行った。
正直場違いだった。
額にタオルを巻いて汗を流す俳優たちの中にスーツ姿の僕は借りて来た猫の様に座って稽古を見ていた。
「高木君。今日も来てたんだね、さっきのシーンだけど、どう思う」
座長の桑原さんが僕の肩を叩いて言う。
そして僕の顔を覗き込む様に微笑むと、
「高木君ならどう演じるかと思ってね……」
僕はプロの俳優の視線に緊張した。
「客にどう見えるのが自然か……。そう言うのは演者ではわからなくなるんだ」
僕は立ち上がって上着を脱いで、稽古している集団の中に立った。
そして、
「し、死ぬのは怖くない……」
とさっき聞いた台詞を口にした。
すると、稽古場から「おお……」と声が上がった。
「なるほど……、死ぬのは怖くないと口にしながら本当は怖いという事か」
演じていた俳優が言う。
「確かに、此処は恐れているのが正解なんだよな」
「そうだな」
「なるほどな、それが良いかもな」
と僕が舞台に立っていた頃に仲間と交わしたよな言葉が発せられる。
僕は頭を掻きながら顔を赤らめていた。
座長の桑原さんが僕の傍に立って肩を叩く。
「良いね、高木君……。次の公演から出てみないか」
そう言うと微笑んで稽古の輪の中に歩いて行った。
桑原さんが本気なのかどうかはわからなかったが、僕の胸は十分すぎる程に踊っていた。
それからというモノ、昼休みに田嶋さんと話す内容はその劇団の話と演劇の話が中心になった。
会社は相変わらずで細川は今日も無表情で人を責め立て、周囲は笑顔で彼女に従っていた。
僕はその中心から一歩引いて眺めていた。
それでも田嶋さんと話をする様になってから、気持ちは随分と楽になっていた。
「それでどうなの……。演劇やりたくなった」
田嶋さんは街を眺めながら煙を吐いた。
「ええ……。眠っていたいたモノが目覚めた気分です」
僕はそう答えた。
そんな僕を見ながら田嶋さんはまた微笑む。
「うん……。いい顔になったよ。高木君」
田嶋さんはそう言った。
その頃から会社で妙な噂が広がり始める。
「高木さんって経理の田嶋さんと仲良いんですね」
「地味な人同士で気が合うんでしょ」
「てか、あの二人毎日屋上で逢引きしてるらしいよ」
「何かホテル街歩いてるの見たって」
「タバコの銘柄もお揃いらしいよ……、気持ち悪くない」
ある日、給湯室で聞いてしまった。
話していたのは細川だった。
小さな声だったが、間違いなく僕と田嶋さんの事を馬鹿にしていた。
「根暗同士くっつけば。屋上で世界が完結しているって感じよね。迷惑かけないで欲しいですよね」
僕の中で何かがプツンと切れた。
「は……。辞めるって。どうしたんだ……。お前、突然……」
課長は驚いて手に持ったコーヒーカップが震えているのが見えた。
「突然じゃないんです。色々と考えた結果ですから……」
僕が課長とそんなやり取りをしている事に細川は聞き耳を立てていたが、わざと聞こえる様に僕は声のトーンを上げて言った。
退職届を出して席に戻ろうとした時に、細川が、
「やっぱり無責任ですね……」
と呟く様に言って来た。
しかし、もう僕は気にもならなかった。
僕には自分ってモノがはっきり見えている様な気がした。
その日の昼、田嶋さんといつもの様に屋上でタバコを吸った。
「聞いたよ。辞めるんだって……」
「ええ……。自分の問いを見つけたので……」
「だから動く事に決めたのね」
僕は無言でコクリと頷いた。
「うん……。本当にいい顔になったよ」
僕は無意識に田嶋さんにお礼を言った。
「それよりすみません。細川が田嶋さんとの事を色々と陰で言ってるみたいで……」
僕は小さく頭を下げる。
「ああ、気にしてないよ。まあ、あんな女はずっとああだよ。いつまでも変わらない。その内自滅するよ……」
田嶋さんは怒っていなかった。
ただ煙を吐きながら曇った空を見ていた。
「でも、私も高木君の事馬鹿にされて、ちょっとだけ悔しかったよ。私、高木君との話、割と好きだったからさ……」
それを聞いて涙が出そうになった。
僕は自分の価値をやっと他人から肯定された気がした。
「これからどうするの……」
田嶋さんはタバコを消しながら言う。
「僕は、僕の舞台を探そうと思います。まずはバイトでもしながら小劇団に入ります。遅すぎるかもしれませんが……」
田嶋さんはポーチからタバコを出して咥えた。
その咥えたタバコを指で摘まみ口から離すと、
「遅くなんて無いよ……。生きやすい世界を探すってそう言う事だと思う」
そしてその手に持ったタバコを僕の口に咥えさせた。
「今度は自分の「解」を見つけて来いよ」
そう言うと僕に咥えさせたタバコに彼女は火をつけた。
「それが見つかるかどうかはわかりませんが……。でもそのために動く事は決めました」
僕はそう言うと空に向かって煙を吐いた。
「それなら大丈夫。高木君はちゃんと自分の「問い」を持ってるから……」
僕は嬉しくなって微笑んだ。
「田嶋さんは……、どうするんですか」
僕は田嶋さんに訊いた。
「私は、もう少し此処にいて書くよ。いつか何処かの舞台で再会出来たら面白いね」
心地良い風が吹き吐いた煙が空に流れた。
誰かと完全に分かり合う事はきっと難しい。
細川の様な人間は何処にでも居るのかもしれない。
でもそれでも……。
生きやすい場所を探す事は逃げじゃない。
問い続ける事が生きるという事なのだ。
僕は屋上から見下ろす街の風景を目に焼き付けながら深く煙を吸い込んだ。
「じゃあ、行って来い……、俳優さん」
田嶋さんの声に僕は頭を深く下げた。
「はい、いつか舞台見に来て下さい」
僕は顔を上げて田嶋さんを初めて正面から見つめた。
「その時は思いっ切り拍手してあげるよ」
田嶋さんの吐いた煙がまた空へと流れていく。
僕の問いは始まったばかり。
僕は田嶋さんに背を向けて歩き始めた。




