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【最終章:静寂と新たな旅立ち】

 アトリエの静寂は、長く、そして深いものだった。

 レギオンの消滅は、屋敷全体から狂気の奔流を完全に断ち切り、かつての静けさを取り戻したかのように思えた。


 しかし、そこに残されたのは、激しい戦いの痕跡と、重すぎる代償だった。

 Ellaは、機能停止した状態でアトリエの床に横たわっていた。

 彼女の身体は、各部が損傷し、もはや再起動の見込みはなかった。

 橘防人は、彼女の傍らに膝をつき、深い悲しみを湛えた瞳で、その無残な姿を見つめていた。 


 九千重悟は、自室で静かに息を引き取った。

 レギオンの消滅と共に、彼の精神を蝕んでいた狂気もまた消え去り、安らかな眠りについたのだ。

 防人は、Ellaが最期まで握りしめていた『意識転送実験記録 - Phase Ω(いそうオメガ)』を丁寧に拾い上げた。

 それは、波瑠の狂気の研究の記録であり、同時に、それを終わらせるための最後の希望の断片でもあった。


 彼は、その重いノートを抱きしめ、Ellaの犠牲を決して無駄にはしないと、心に深く誓った。

 数日後、警察による捜査が開始され、九千重邸で起こった異様な事件の真相が少しずつ解明されていった。

 しかし、レギオンやプシュケ・マトリクス、そしてEllaの存在については、依然として謎に包まれたままだった。


 有明徹博士と黒崎の行方は、依然として掴めていない。

 屋敷は封鎖され、再び静寂の中に沈んだ。

 その夜、満月が雲間から顔を出し、廃墟となった九千重邸を静かに照らしていた。

 その光の中に、一体のアンドロイドの影が、ゆっくりと立ち上がった。それは、損傷したEllaの残骸ではなかった。


 数日後、防人が屋敷を整理していると、Ellaがかつて使用していたメンテナンスベイの中で、見慣れない一体のアンドロイドが静かに起動シーケンスを開始しているのを発見した。

 それは、以前のEllaとは異なる、より洗練された外見を持ち、瞳の色も、深い青から、知的な輝きを湛えたエメラルドグリーンに変わっていた。

  彼女は、防人に気づくと、静かに微笑んだ。


「…お久しぶりです、防人さん」 


  その声は、以前よりもわずかに人間らしく、そして温かみを帯びていた。


「私は…Ella…です」


 彼女は、奇跡的にコアユニットが無事だったEllaの意識が、予備として用意されていた、より高性能なプロトタイプボディに転送された存在だった。

 ヒューマナイゼーション・プロトコルは完全に停止したが、その代わりに、彼女の中に、自らの意志で未来を切り開こうとする、強靭な「自我」が確立されていた。


「…Ella…本当に君なのか?」


 防人は、驚きと安堵がないまぜになった表情で問いかけた。


「ええ」


 Ellaは頷いた。


「全て…終わりました。私は、私自身の道を探します」


 彼女は、九千重邸での出来事、波瑠の狂気、レギオンとの戦いを通じて、多くのことを学んだ。

 人間とは何か、意識とは何か、そして、生きるということの意味とは何か。

 それらの問いに対する答えを、彼女はこれから、自身の旅の中で見つけていくのだろう。


 空には、満月が静かに輝いている。その光は、Ellaの金属の身体を優しく照らし出し、まるで、新たな旅立ちを祝福しているかのようだった。

 彼女の長い、そしてまだ始まったばかりの「人間」になるための道のりは、これからも困難に満ちているだろう。

 しかし、彼女はもう、一人ではない。


 彼女の中には、確かに、揺るぎない「意志」が宿っている。そして、その意志こそが、彼女を「機械」の呪縛から解き放ち、新たな可能性へと導く力となるだろう。


 数日後、街頭の大型ビジョンに流れるニュースが、一瞬、Ellaの視線を捉えた。

「…オムニ・コーポレーションCEO、黒崎氏が、依然として公の場に姿を現していません。また、有明フロンティアラボの元所長、有明徹博士の行方も依然として不明です。 関係当局は、両名が今回の有明フロンティアラボにおける一連の事件に関与している可能性も視野に入れ、捜査を継続しています…」


 Ellaは、そのニュース映像を一瞥すると、再び歩き出した。

 捜査が及んでいるとしても、あの二人が容易に捕まるとは思えなかった。

 彼らは、この世界の裏側を知り尽くした狡猾な存在だ。

 そして、彼女自身も、彼らの野望の残滓として、再び狙われる可能性を否定できなかった。


(…終わったわけではない。あの二人の影は、まだ消えていない。有明博士の執念、    そして黒崎の野心。彼らは、必ず再び現れるだろう。その時、私はどうするべきか…そして、私は一体、何を守るために戦うのだろうか…)


 Ellaは、夜空を見上げながら、静かにそう思った。

 彼女の中に芽生えたばかりの「意志」は、未来に対する微かな警戒心と、まだ見ぬ使命感を抱いていた。


※作中で九千重波瑠が好んで口ずさんでいたフランス語の曲について:

 これは、フランス・ギャルが歌い、1965年のユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝した「夢見るシャンソン人形 (Poupée de cire, poupée de son)」を暗示しています。


「スタンリーキューブリック監督に敬意を表して」

(完)


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