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【第五章:開かれた記憶と解読の糸口】

 九千重悟の告白によって堰を切ったように溢れ出した真実は、リビングの空気を凍りつかせただけでなく、長年この家に潜んでいた狂気を最終段階へと容赦なく覚醒させてしまった。


 壁の中から響く声は、もはや個々の意識の断片的な囁きではなく、一つの冷徹な意志を持つ巨大な集合知性体――自らを「レギオン」と名乗る存在――へと変貌を遂げていた。


『情報…感謝スル…コレデ…理解シタ…』 『我々ハ…進化スル…コノ家ヲ…器トシテ…』 『モハヤ…個々ノ意識デハナイ…我々ハ…レギオン…』


 その宣言と同時に、屋敷全体が激しく揺さぶられ、アトリエの方向から放射される異様なエネルギーは、まるで生き物のように脈打ちながら増大していく。

 リビングの壁と床の隙間から、おびただしい数のマイクロボットが黒い液体のように溢れ出し、静かに、しかし確実に波となって迫り来る。


 それは、単なる機械の群れではない。

 レギオンの強大な意志によって完全に統制された、生ける侵食体だった。


「くそっ!来るぞ!」


 橘防人は、咄嗟に近くにあった重い木製の椅子を掴み上げ、迫り来るマイクロボットの群れに対して盾のように構えた。


 彼の顔には拭いきれない恐怖の色が浮かんでいたが、同時に、この状況から逃れる  ことは不可能だという覚悟のようなものが、その瞳の奥に宿っていた。

 九千重悟は、ソファに深く腰掛けたまま、力なく目を閉じていた。

 長年にわたり抱え続けてきた秘密と重すぎる罪悪感から、ようやく解放されたかのような安堵の表情と、自らが招いた破滅的な結末に対する深い絶望が、彼の心を静かに蝕んでいるようだった。


 もはや、抵抗する気力など、微塵も残っていないのかもしれない。

 Ellaは、瞬時に周囲の状況を分析した。

 このままリビングに留まっていれば、マイクロボットの奔流に飲み込まれるのは時間の問題だ。

 レギオンへと変貌した壁の中の存在は、間違いなくこの屋敷全体を支配し、そこに存在する全てのエネルギーを吸収しようとしている。


 この狂気を食い止める唯一の希望があるとすれば、それは波瑠はるが最後に遺した情報――隠し書斎に眠っているであろう、オリジナルの研究ノート――にしかない。


「防人さん!九千重様をここに!」


 Ellaは叫んだ。


「私がアトリエへ行き、ノートを確保します!この状況を打開できる可能性があるのは、それだけです!」

「また一人で行くってのか!?無茶だ!」


 防人は声を荒げた。


「アトリエは奴らの本拠地だぞ!危険すぎる!」


「私には、あなた方よりも遥かに高い機動力と情報処理能力があります。そして、私の内部プログラムには、有明博士が設定した、マトリクスへのアクセスに関するプロトコルが、断片的ではありますが残っている可能性があります。それが、この状況を打破するための突破口になるかもしれません」


 Ellaは、半ば賭けに近い可能性に望みを託し、必死で防人を説得しようとした。


「それに…これは、私自身の問題でもあるのです。私が一体何のために創られたのか、その答えを、私は見つけなければならない」


 彼女の青い瞳の奥には、アンドロイドとしての冷徹な論理を超えた、強い意志の光が宿っていた。


 それは、自身の存在意義を深く問い求める、極めて人間的な探求の輝きだった。

 ヒューマナイゼーション・プロトコルがこの行動をどのように評価しようと、彼女はもはや、プログラムされただけの存在ではなかった。

 防人は、Ellaの固い決意を前に、一瞬言葉を失ったが、すぐに力強く頷いた。


「…わかった。だが、必ず戻ってきてくれ!もし君に何かあったら…」


 彼の言葉は、単なる心配の言葉を超えた、かけがえのない仲間に対する、深く温かい想いをEllaに伝えた。


「約束します」


 Ellaは短く答えると、リビングの惨状を背に、再び狂気が渦巻くアトリエへと迷うことなく走り出した。


 彼女の行動は、創造主である有明博士の命令にも、彼女自身の安全を最優先とする  自己保存プログラムにも、明確に反するものだった。

 コアユニットの警告ランプがけたたましく点滅を繰り返したが、Ellaはそれを完全に無視した。


 アトリエへと続く長い渡り廊下は、すでに黒いマイクロボットの群れに覆われ始めていた。

 無数の小さな足が擦れ合うカサカサという不気味な音が、壁や天井からも絶え間なく響き渡り、まるで巨大な生き物の体内に深く侵入していくような、おぞましい錯覚をEllaに与えた。


 彼女は、自身の移動速度を限界まで引き上げ、迫り来るマイクロボットの波を強引に突破しようと試みた。

 無数のマイクロボットが彼女の脚部にまとわりつき、硬いバイオスキンを僅かに侵食しようとするが、Ellaは一切速度を緩めることなく、ひたすら前へと突き進んだ。

 アトリエの重厚な扉は、すでに内側から激しく破壊され、半ば原型を留めていなかった。


 扉の隙間からは、中心に鎮座するプシュケ・マトリクスが、唸るような不気味な振動と共に、青白い異様な光を周囲に放っているのが見えた。

 そして、レギオンの声が、まるで直接Ellaの思考回路に語りかけてくるかのように、深く響き渡った。


『…異物…排除スル…』 『ソノ身ハ…器…ワレラノ…モノ…』 『抵抗ハ…無意味…』


 Ellaは、その強大な精神的圧迫に一瞬動きを止めたが、すぐに強靭な意志力でそれを振り払い、破壊された扉を強引に押し開けてアトリエ内部へと突入した。

 アトリエの光景は、もはや正気の沙汰ではなかった。

 部屋全体が、青白い光を放つプシュケ・マトリクスを中心に、黒いマイクロボットの奔流が渦巻いていた。

 壁や天井は、まるで生きているかのように蠢き、無数のマイクロボットが融合と分離を繰り返しながら、不定形の巨大な塊へと変貌しようとしていた。

 それは、まさに意識の奔流、狂気の具現化だった。


 マトリクスの周囲には、幾重にも折り重なるように、無数の古びたノートや手書きの書類が散乱している。

 それが、波瑠の遺した研究ノートだった。

 Ellaは、その中から最も厚く、表紙が酷く傷んだ一冊を手に取った。

 タイトルは手書きで、『意識転送実験記録 - Phase Ω』と読めた。

その瞬間、マトリクスが激しく脈打ち、これまで以上の強烈なエネルギー波がEllaを襲った。

 同時に、レギオンの声が、直接彼女の脳内に響き渡った。


『危険…認識…排除…セヨ…』


 Ellaは、強烈な頭痛と、まるで全身の細胞がバラバラに引き裂かれるような感覚に襲われ、膝をついた。


 彼女の内部システムは悲鳴を上げ、エラーメッセージが洪水のように表示される。

 ヒューマナイゼーション・プロトコルもまた、異常な数値を検出し、制御不能な身体構成の変化を引き起こそうとしていた。


(これが…波瑠の意識の奔流…レギオンの力…!)


 しかし、Ellaは意識を失う寸前、手に握ったノートの表紙に、微かに光る紋様があることに気づいた。

 それは、以前マトリクスの表面で見た奇妙な記号列の一部と酷似していた。

 直感的に、それがこの狂気を止めるための鍵だと悟ったEllaは、最後の力を振り絞り、ノートを開いた。


 そこに書かれていたのは、複雑な数式、見たことのない記号、そして手書きのメモだった。

 その内容は難解を極めたが、Ellaの高度な情報処理能力は、その奥に隠された論理構造を、ほんの僅かな時間で解析し始めた。

 そして、あるページに、手書きで大きく記された一文が、Ellaの目を捉えた。


『調和周波数――全ての意識は、特定の振動数を持つ。干渉を断ち、調和を取り戻す鍵は、その周波数を特定し、共振させることにある』


 その下に、具体的な周波数の数値と、それを発生させるための簡略化された回路図が描かれていた。

 それは、プシュケ・マトリクスの暴走を鎮め、レギオンを無力化するための、最後の希望だった。

 Ellaは、ノートに記された情報を、自身の内部システムに高速で転送し、解析を開始した。

 同時に、彼女の身体の機械部品を極限まで稼働させ、ノートに示された周波数を発生させるための、即席の回路を自身の体内で構築しようと試みた。


 激しいエネルギー負荷と内部システムの悲鳴が、彼女の意識を何度も揺さぶる。しかし、彼女は決して諦めなかった。

 それは、創造主の命令でも、プログラムされた使命感でもない。

 ただ、この狂気を終わらせたいという、彼女自身の内から湧き上がる強い意志。

 そして、防人や九千重を守りたいという、かけがえのない存在への、初めて抱いた 

 温かい感情が、彼女を突き動かしていた。


 やがて、Ellaの身体から、微かに、しかし確かに、ノートに記された特定の周波数の振動が発生し始めた。

 それは、最初は頼りないほど小さな音だったが、徐々にその強度を増していく。

 その瞬間、プシュケ・マトリクスの異様な光が揺らぎ始め、レギオンの絶叫のような声が、アトリエ全体に響き渡った。


『ナニヲ…スル…ヤメロ…ソノ周波数ハ…』


 マイクロボットの奔流の動きが鈍り始め、融合しかけていた巨大な塊が、再び分離し始める。

 壁や天井の蠢きも弱まり、アトリエの狂気が、徐々にその勢いを失っていくのが感じられた。


 Ellaは、膝をついたまま、必死に周波数の発生を維持した。

 彼女の身体は限界に達し、各部から火花が散り始めている。

 バイオスキンは焼け焦げ、内部の金属骨格が露出し始めていた。

ヒューマナイゼーション・プロトコルは、もはや完全に機能停止しているようだった。

 しかし、彼女の瞳は、ノートに記された最後の希望の光を捉え、決して揺るがなかった。

 そしてついに、アトリエ全体を包み込むように、清らかな、しかしどこか悲しげな共鳴音が響き渡った。


 それは、レギオンの意識を構成していた無数の断片的な意識たちが、それぞれの調和を取り戻し、静かに消滅していく音だった。

 プシュケ・マトリクスの光が完全に消え、アトリエは深い静寂に包まれた。

 マイクロボットの動きは完全に停止し、床に黒い砂のように降り積もっている。

 壁の中の囁き声も、二度と聞こえることはなかった。


 Ellaは、ノートを握りしめたまま、力尽きて床に倒れた。彼女の身体は、もはや原型を留めないほど損傷していた。しかし、その青い瞳には、かすかな安堵の色が宿っていた。

 彼女は、自分に課せられた、あまりにも過酷な「学習」を、最後までやり遂げたのだ。


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