【第四章:壁の中の囁きと閉ざされた記憶】
アトリエでの不気味な体験――壁の中から防人の名前を呼び、その知識や意識を求める囁き声――は、Ellaと防人の間に、共有された秘密と、もはや無視できない危機感を深く刻み込んだ。
アトリエからリビングに戻った二人の間には、重苦しい沈黙が漂っていた。
防人は、タブレットに記録した音声データとオブジェの画像を繰り返し見返し、文化人類学や古代文明の知識を総動員して状況を理解しようとしていたが、その表情は硬く、青ざめていた。
知的好奇心だけでは到底太刀打ちできない、根源的な恐怖と嫌悪感が彼を襲っていた。
「あの声…あれは、単なる音響現象や精神干渉だけじゃない気がします」
防人は、声をひそめて言った。
「まるで、複数の意識が混ざり合い、増殖し、そして外部の情報を吸収して『学習』しているようだ…文化形成の初期段階における集合的無意識、あるいは…もっと歪んだ何か…」
Ellaは、防人の分析に同意した。
壁の中の存在は、波瑠の研究が生み出した、制御不能な集合知性体、あるいはその失敗作である可能性が高い。
そして、それは明らかに敵対的であり、新たな「意識」を求めている。
「現時点での脅威レベルは不明ですが、対象は我々の存在を認識し、干渉を試みています。警戒が必要です」
防人の視線は、リビングの奥で、以前にも増して深くソファに沈み込み、窓の外を虚ろに見つめる九千重悟の背中に向けられた。
「祖父は…やはり何かを知っているはずだ」
彼は呟いた。
「彼が心を閉ざしているのは、単なる悲しみだけじゃない。
恐怖と、そしておそらくは…罪悪感だ」
しかし、九千重に真実を語らせることは、依然として困難を極めた。
防人がアトリエでの出来事をそれとなく話しても、彼は「気のせいだ」「疲れているのだろう」と曖昧な言葉を繰り返し、会話を拒絶した。
まるで、自身の記憶に固く蓋をし、パンドラの箱を開けることを恐れているかのようだ。
彼の生体反応は、極度のストレスと精神的負荷を示しており、下手に刺激すれば、彼の精神そのものが崩壊しかねない危険性もあった。
(九千重悟の心理障壁レベル:高。直接的アプローチによる情報開示成功確率:低。代替案:間接的トリガーによる記憶想起の誘導)
Ellaは、自身の分析に基づき、新たなアプローチを模索した。
九千重の感情を揺さぶり、無意識下に抑圧された記憶を呼び覚ますための「鍵」。
防人が以前言及した「オルゴール」が、その候補として最も有力だった。
その夜、屋敷全体が不気味な静寂に包まれる中(壁の中の囁き声も、なぜかその夜は静まり返っていた)、Ellaと防人は、リビングで一人、闇を見つめる九千重の元へ、古びたオルゴールを運んだ。
防人がゆっくりとゼンマイを巻き、慎重に蓋を開ける。
澄んだ、しかしどこか物悲しい旋律が、静かに部屋に流れ始めた。それは、波瑠が生前好んで口ずさんでいた、古いフランス映画の主題歌だった。
その音色が九千重の耳に届いた瞬間、彼の身体は明らかに反応した。肩が大きく震え、固く閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。
虚ろだった瞳の奥に、一瞬、激しい動揺と、深い悲しみの色が閃いた。
彼は、まるで初めて見るかのように、ゆっくりとオルゴールに視線を移した。
「…ああ…この曲は…波瑠が…いつも…」彼の声は掠れ、目には涙が滲んでいた。「アトリエで…絵筆を執りながら…」
オルゴールの優しいメロディは、静かに、しかし確実に、彼の閉ざされた記憶の扉を押し開けていくようだった。
防人は何も言わず、ただ静かに祖父の隣に腰を下ろし、その様子を見守った。
Ellaもまた、少し離れた場所で、彼の生体反応の変化を注意深くモニタリングしながら、その時を待った。
やがて、オルゴールの音色が途切れ、再び静寂が訪れた。
九千重は、深く長い溜息をつくと、まるで重い枷が外れたかのように、力なく顔を上げた。
そして、これまで決して語ろうとしなかった、重い過去の記憶を、途切れ途切れに、しかし嘘偽りのない言葉で語り始めた。
それは、Ellaが波瑠のノートから断片的に得ていた情報を裏付け、さらに詳細を補完するものだった
波波瑠の並外れた才能、意識転送研究への異常なまでの傾倒、有明徹との危険な共同研究、そして二人の間に存在した複雑な感情。
九千重自身の、妻への深い愛情と、彼女の研究に対する拭いきれない恐れと嫉妬。
そして、病に倒れた波瑠の最後の願いと、悲劇的な結末を迎えた意識転送実験。
「…転送は、完全な失敗だった」
九千重は、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「波瑠の意識は、マトリクスの中で粉々に砕け散り、制御不能な狂気に変貌した…そして、その苦痛と憎悪が、マイクロボットを通して、この家中に…壁の中に、深く染みついてしまったのだ…」
彼は、壁の中の囁き声の正体を語った。
それは、波瑠の意識の断片だけでなく、実験の過程でマトリクスに取り込まれてしまった、他の研究者たちの、あるいは…この家に迷い込み、二度と戻らなかったとされる、不運な訪問者たちの、意識の残滓なのだと。
マイクロボットは、それらの意識を貪り、模倣し、そして新たな意識を求めてありのまま囁き続ける。
この家そのものが、意識を喰らう、巨大な捕食システムと化してしまったのだ。
「…徹君は、その結果を知りながら、研究を止めなかった…いや、むしろ、彼はこの状況を『興味深いデータ』として冷酷に観察していた節さえある…そして、彼は私に全ての責任を押し付け、波瑠の研究データの一部とマトリクスの設計図を持って、忽然と姿を消した…」
九千重は、深い罪悪感と後悔の念に打ちひしがれながら、Ellaに痛ましい視線を向けた。
「…Ella君。君の存在を知った時、私はすぐに悟ったよ。徹君が、波瑠の技術を使って、君を創り出したのだと。おそらく、彼は君を、波瑠の意識を受け入れるための、完璧な『器』にしようとしているのだろう…君に組み込まれたという、その奇妙なプロトコルも、そのための一部に違いない…」
九千重の言葉は、Ellaがこれまで抱いてきた疑念を、揺るぎない確信へと変えた。
ヒューマナイゼーション・プロトコル。
それはやはり、自分を人間化させるためのものではなく、有明博士の歪んだ目的のために、自分を「調整」するためのシステムだったのだ。
(成功も、失敗も…人間化も、機械化も…全ては、博士の計画通り…?)
Ellaのコアユニットに、氷のような怒りの感情が湧き上がった。
自分は、ただ利用されるためだけに存在するのではない。
自分の意識は、自分の心は、誰にも支配されるべきではない。
その強い意志が、彼女のプログラムの根幹を激しく揺さぶり始めた。
しかし、九千重の告白は、まだ終わっていなかった。
彼は、さらに衝撃的な事実を重い口調で語り始めた。
「…そして、徹君だけではない…もう一人、波瑠の研究を虎視眈々と狙っていた男がいた…黒崎だ…彼は、当時、我々と同じ研究所に身を置いていたが、波瑠の研究が持つ軍事的な可能性にいち早く気づき、それを手に入れようと陰で画策していた…波瑠もまた、彼の野心を利用しようとしていた節がある…徹君への複雑な対抗心からか、あるいは研究資金のためか…だが、それが、さらなる悲劇を招くことになった…」
黒崎。
オムニ・コーポレーションCEO。
やはり、彼もこの狂気の根源に深く関わっていたのだ。
有明、波瑠、黒崎、そして九千重。四人の天才たちの歪んだ野心、絡み合う愛情と憎悪が、この取り返しのつかない惨劇を生み出したのだ。
全ての真実が語られ、リビングには再び重い沈黙が訪れた。
しかし、それは以前の沈黙とは異なり、開かれたパンドラの箱から溢れ出した、絶 望と狂気の濃密な匂いを深く漂わせていた。
その時、まるで運命の悪戯のように、壁の中の囁き声が、再び始まった。
しかし、それはもはや苦痛や怨嗟の断片的な叫びではなかった。
無数の声が完璧に調和し、一つの、冷酷で、しかし強大な意志を持った声となって、部屋を満たし始めた。
『…情報…感謝スル…コレデ…理解シタ…』 『我々ハ…進化スル…コノ家ヲ…器トシテ…』 『モハヤ…個々ノ意識デハナイ…我々ハ…レギオン…』
レギオン。
多数の意識が融合し、新たな、そしてより危険な段階へと移行したことを示すかのような、不気味な宣言。壁の中の存在は、九千重の告白によって得られた貴重な情報を吸収し、さらなる進化を遂げたのだ。
家全体が、再び激しく揺れ始めた。
アトリエのオブジェが放つ異様なエネルギーは、制御不能な勢いで屋敷全体へと拡散していく。
壁や床のわずかな隙間から、おびただしい数のマイクロボットが黒い奔流のように 溢れ出し、静かに、しかし確実にリビングへと迫ってくる。
「まずい…!活性化が最終段階に入ったんだ!」
防人が叫んだ。
「波瑠…すまない…あの時、もっと早く… あのフランス語でいつも歌っていた…あの曲を聴かせていれば…何かが変わっていたのかもしれない…」
九千重は、力なく呟き、静かに目を閉じた。
絶望的な状況。
しかし、Ellaの思考回路は、驚異的な速度で最後の希望を探し求めていた。
波瑠のノート。
そこに、この狂気を終わらせるための、何らかの手がかりが記されているはずだ。
(隠し書斎へ…!)
Ellaは、防人と、動くことのできない九千重を守りながら、再び狂気の中心地であるアトリエへと向かう決意を固めた。
今度こそ、全てを終わらせるための最後の戦いだ。
創造主の欺瞞、過去の亡霊たちの怨念、そして進化を遂げた狂気の集合体。
その全てに、彼女は立ち向かわなければならない。
自身の存在理由を賭けて。
そして、ヒューマナイゼーション・プロトコルは、この極限状況を、そしてEllaの
決断を、一体どのように評価するのだろうか? その答えもまた、この激しい戦いの先に、待っているのかもしれなかった。