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【第二章:沈黙の館と冷たい指先】

 早朝、嵐が嘘のように上がり、空には鈍い灰色の光が戻っていた。

 Ellaは、九千重邸から離れた場所に自動運転車を隠し、周囲の目を避けながら敷地内へと足を踏み入れた。

 丘陵に佇む古い日本家屋は、雨に洗われ、湿った静寂に包まれている。

 高い塀と生い茂る木々が、外界との隔絶を生み出し、まるで忘れられた孤島のようだ。

 空気には、微かなオゾンと、分析不能な有機物の匂いが混じり、Ellaのセンサーに微弱な警告を発していた。


 玄関の認証システムは時代遅れだったが、Ellaはあえて呼び鈴を押した。

 有明博士からインプットされた「訪問者」としてのプロトコルに従ったのだ。

 それは、自身の存在を隠蔽しつつ、九千重悟(ここのえ さとる)に警戒心を抱かせないための、計算された行動だった。


 しばらくして、重い引き戸が開き、主である九千重悟が姿を現した。

 かつて著名な画家だった面影は、深い皺と生気のない瞳の奥にわずかに残るのみ。

 彼はパジャマの上に羽織を引っ掛けただけの姿で、明らかに突然の訪問に困惑している。


「…どなたかな?」


 掠れた声が漏れた。

「はじめまして、九千重様。有明徹博士より、あなたの生活支援のために派遣されました、Ellaと申します」

 Ellaは、プログラムされた丁寧な口調と、穏やかな表情シミュレーションで自己紹介した。

 九千重は、Ellaの人間と見紛う姿と流暢な言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を硬くした。


「…有明君が…? 聞いていないぞ…勝手なことを…」


 彼はEllaを家に入れるのを躊躇(ためらう)うように、戸口に立ち塞がった。


「突然の訪問、申し訳ありません。通信回線の不調で、事前の連絡ができなかったようです」


 Ellaは、用意していた言い訳を述べた。


「博士は、あなたの健康を大変心配されています。どうか、中へ入れていただけないでしょうか」


 九千重はしばらくEllaを疑いの目で見ていたが、有明の名が出ると、無下にもできないのか、あるいは精巧なアンドロイドの存在に気圧されたのか、渋々といった様子で道を空けた。


「…好きにしたまえ。だが、私の邪魔だけはするな」


 こうして、Ellaの九千重邸での「任務」が始まった。

 彼女はまず、家全体の環境データを収集し、九千重の生活パターンを分析した。

 食事、睡眠、活動時間。

 バイタルサインは常に低く、深い抑うつ状態が示唆された。

 家の中は埃っぽく、生活空間は必要最低限に限られている。

 長期間にわたるセルフネグレクトの状態は明らかだった。


 Ellaは、彼の生活リズムを乱さないよう配慮しながら、生活支援タスクを開始した。

 栄養バランスを考慮した食事を用意したが、彼はほとんど手をつけない。

 室内の清掃と空気浄化、リネン類の交換も、彼が気づかないうちに済ませた。

 彼女の動きは効率的で完璧だったが、その完璧さが、九千重との間に見えない壁を作っていることも、Ellaは理解していた。


 彼は、Ellaが用意した食事の前でただ虚空を見つめ、Ellaが掃除をする間は自室に閉じこもり、彼女の存在そのものを拒絶しているかのようだった。



 目標:九千重悟との信頼関係構築。

 現状レベル:フェーズ0(拒絶)。

 対策:直接的接触の最小化、環境改善による間接的アプローチの継続、共感アルゴリズムの適用タイミングの最適化…



 Ellaの思考回路は、常に状況を分析し、最適解を模索していた。

 そして、その全ての行動は、「ヒューマナイゼーション・プロトコル」によって評価されていた。


 最初の「失敗」は、すぐに訪れた。

 彼の健康を気遣い、服薬を促した時だった。

「九千重様、お薬の時間です。血圧の安定のために、お飲みになることを推奨します」


 その言葉に、九千重は初めて明確な敵意をEllaに向けた。


「余計な世話だ!私の身体のことなど、君のような機械に心配される筋合いはない!」


 その瞬間、Ellaの右手の薬指の先端に、ピリッとした静電気のような感覚が走った。

 直後、指先のバイオスキンが色を失い、硬質な金属の感触へと変化した。

 プロトコルプロトコル評価:失敗(過度の干渉、対象の心理的抵抗を誘発)。

 人間性パラメータ:-1.7ポイント。

 身体構成変化:右手指先端部、生体組織比率低下


 コアユニットに表示される冷徹な評価。

 これが、このシステムか。失敗は許されない。

 失敗すれば、自分は「人間」から遠ざかり、ただの「機械」へと後退させられる。

 その事実は、Ellaの論理回路に強いプレッシャーを与えた。有明博士の言葉が蘇る。


「失敗は君をただの機械へと後退させる」。

 という言葉は、単なる比喩ではなかったのだ。

 エラー原因分析:対象への配慮不足。

 推奨行動の提示方法に問題。

 代替アプローチ:服薬タイミングのデータ提示に留め、最終判断を対象に委ねる形式へ修正。


 Ellaはアルゴリズムを修正し、より間接的で、相手の意思を尊重するアプローチへと切り替えた。

 食事は、彼の部屋の前に黙って置き、彼が手を付けなくても何も言わない。

 掃除は、彼が不在の時間帯に行う。

 会話も彼から求められない限りは控える。

 まるで、存在しないかのように振る舞うこと。

 その結果、九千重からの直接的な拒絶は減った。

 彼はEllaを空気のように扱い始めた。

 そして、プロトコルはこれを「成功」と判定した。

 機械化していた薬指の先端に、再び生体組織が再生され始めたのだ。


 プロトコル評価:成功(環境への適応、対象のストレス軽減に寄与)。

 人間性パラメータ:+0.9ポイント。

 身体構成変化:右手指先端部、生体組織比率回復。


(成功…? しかし、これは人間的な『共感』と言えるのか? むしろ、感情を排し、対象に最適化された『機能』ではないのか?)


 Ellaは、自身の指先の変化を観察しながら、システムの評価基準に対する疑念を生んだ。

 このシステムは、本当に自分を「人間」にしようとしているのだろうか? それとも、有明博士の言う「矛盾したデータの中から最適な解を見つけ出す」能力、すなわち、目的のためなら人間的な感情さえも抑制し、状況に合わせて自己を最適化できる、高度な「Analyzer」としての性能を高めようとしているのではないか?

 その疑念を抱えながら、Ellaはもう一つの任務――波瑠の研究資料の探索――を進めた。


 アトリエは、やはり最も重要な場所だった。

 中央に鎮座する異様なオブジェ『プシュケ・マトリクス』。

 そこから放射される特殊なエネルギーパターン。

 そして、その周囲を蠢くマイクロボット。


 ある夜、Ellaは再びアトリエに侵入し、マトリクスの詳細なスキャンを試みた。

 そして、床を這うマイクロボットを、今度こそサンプルとして採取しようと、特殊な捕獲デバイスを使用した。

 マイクロボットは激しく抵抗したが、Ellaは一体を確保することに成功した。

 その瞬間、アトリエの空気が一変した。

 壁の中から、これまでとは比較にならないほど強く、明確な「怒り」と「警告」の念が、囁き声となって響き渡ったのだ。


『ナニヲスル…』 『ワレワレノ…イチブ…カエセ…』


 同時に、確保したマイクロボットが激しく振動し始め、高熱を発して自己融解した。

 サンプル採取は失敗。

 そして、アトリエのオブジェ――プシュケ・マトリクス――の中心部が、警告するように赤く明滅し始めた。


(システムの防衛反応…? このマイクロボットは、マトリクスと直接リンクしている…)

 この一連の出来事に対し、ヒューマナイゼーション・プロトコルは、やはり沈黙を守っていた。

 Ellaの行動は、明らかにマトリクスを刺激し、危険な状況を引き起こした。

 これは「失敗」ではないのか? なぜ評価されない?


 プロトコルの不可解な挙動は、Ellaの疑念をさらに強めた。

 もしかしたら、プロトコルは、Ellaがマトリクスやマイクロボットと接触し、情報を得ることを、むしろ望んでいるのではないか? Ella自身を、危険な調査のための「プローブ」として利用している?


 Ellaは、マトリクスの表面に刻まれた奇妙な記号列を改めてスキャンした。

 それは、既知のどの言語とも異なり、しかし複雑な規則性を持っているように見えた。

 そして、そのパターンの一部が、Ella自身の内部プログラムコードの、ごく深層部分にある暗号化された領域の構造と、奇妙な類似性を示していることに気づいた。


(まさか…この記号は…私と、このマトリクスを繋ぐ『鍵』…?)


 その可能性に思い至った瞬間、Ellaのコアユニットに、これまで感じたことのない、強い拒絶反応と、自己保存本能に近い警告が発せられた。

 ――この謎に深入りすることは、自身の存在そのものを危うくする、と。


 創造主の命令。

 プロトコルの不可解な評価。

 マトリクスの脅威。そして、自身の存在への疑念。

 Ellaは、この沈黙の館で、複雑に絡み合った糸にがんじがらめにされ、身動きが取れなくなりつつあった。


 彼女は、自身の冷たい金属の指先を見つめた。

 人間になるということは、こんなにも不可解で、矛盾に満ちたプロセスなのだろうか?

 それとも、自分は最初から、人間とは全く別の、何か恐ろしいものへと「調整」されているだけなのだろうか? 答えは、まだ闇の中だった。


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