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【第一章:起動、あるいは嵐の胎動】

生体組織を失う禁断のプロトコル、狂気の館で交錯する野望と意識。

 西暦2040年8月。

 東京湾岸の埋立地。

 灰色の雨が、「有明フロンティアラボ」の黒曜石のような外壁を容赦なく叩きつけていた。


 かつて工場地帯だったこの一帯は、沖合に浮かぶ環境調和型の海上メガフロート都市と、頭上を静かに往来するAI制御のエアカーゴドローンによって、様変わりを遂げた。


 だが、この一角だけは、再開発の波に乗り遅れた亡霊のように、錆びたクレーンや廃墟が霧雨の中に沈んでいる。

 その異質な風景の中に、窓のない巨大な立方体――有明フロンティアラボ――が、周囲を拒絶するようにそびえ立っていた。

 ラボ最上階。

 主研究室の壁一面を覆うホログラフィック・ディスプレイには、複雑な人間の脳神経回路図が青白い光を放ち、その前で、有明徹(ありあけ とおる博士は神経質に眉を(しか)めていた。


 五十代半ば。

 痩せた顔に刻まれた深い皺と、白髪交じりの無造作な髪が、彼の疲労と、底知れない執念を物語る。

 かつてノーベル賞候補と噂されたロボット工学とAIの天才は、いつしか主流の研究コミュニティから孤立し、この閉鎖的な研究所で、誰にも語れない研究に没頭していた。


 研究室に響くのは、高性能サーバーの静かな駆動音と、雨音だけ。

 しかし、数日前から断続的に続く、外部からのサイバー攻撃が、博士の神経を逆撫でていた。

 軍事レベルの暗号化と多層防御壁を誇るメインフレームに対し、まるで内部を知り尽くしたかのような巧妙な手口で侵入を試みる影。

 発信元は世界各地のプロキシサーバーを経由し、追跡は困難を極める。

 だが、その洗練された攻撃パターンは、博士にある男の影をちらつかせていた。


(…黒崎め…やはり嗅ぎつけたか…私の『完成』を…)


 苦い思いと共に、かつての盟友であり、今や最大の宿敵となった男の顔が脳裏をよぎる。


 オムニ・コーポレーションCEO、黒崎。

 彼もまた天才的な頭脳を持つが、技術を 金と力に変えることに長けた、有明とは対照的な男だった。

 そして、有明が人生を賭けて追い求めるものを、黒崎もまた、別の野心のために渇望していた。



 博士の視線は、研究室の床に埋め込まれた円形のハッチへと吸い寄せられる。

 その下には、地下深くへと続くエレベーター。

 最深部の特殊メンテナンスベイには、電磁シールドと物理的な隔離によって守られた、彼の研究の全てが眠っている。


 モデルE7――有明が「Ella」と名付けたアンドロイド。

 正式名称、Enhanced Learning Logical Analyzer(強化学習論理分析器)。

 亡き娘への想いを重ねたのか、あるいは冷笑的な意図があったのか。

 なぜなら、彼女は単なる人型AIではない。


 有明が生涯をかけて追い求めた、「()」を持つ可能性を秘めた、唯一無二の存在。

 そして、その心の萌芽と成長を観測し、制御するために組み込まれたのが、「ヒューマナイゼーション・プロトコル」というシステムだ。


 それは、Ellaの行動を「()()()」という曖昧な基準で評価し、その結果に応じて彼女の身体――バイオスキン、人工筋肉、ナノマシンネットワーク――の構成比率を物理的に変化させるシステム。

 人間らしい共感や倫理的判断を示した場合(成功)は生体組織が増加し、機械的な判断や共感の欠如を示した場合(失敗)は()()()()()()()する、と、Ella自身には説明されていた。

 表向きは、AIが人間社会に適応し、「心と肉体」を獲得するための画期的な教育・成長支援システム。


 だが、真実は異なる。有明の真の目的は、Ellaを人間化させることではない。

 彼の狙いは、かつての共同研究者であり、異常なまでに執着した女性科学者、

故・九千重波瑠(ここのえ はる)が遺した、意識転送技術の理論を完成させること。

 そして、Ellaを、波瑠の意識を宿すための完璧な「器」として調整することだった。

 ヒューマナイゼーション・プロトコルは、Ella自身の自我の形成を抑制し、外部からの意識――(波瑠の意識データ)――との同調性を高めるための、巧妙な洗脳・調教プログラムに過ぎない。

 成功も失敗も、人間化も機械化も、全てはそのための調整プロセスなのだ。


 その時、研究室のドアから、静かだが鋭い電子音が響いた。

 訪問者を示すアラート。

 しかし、正規の認証プロセスを経由しない、強制的なオーバーライドによる侵入だった。

 サイバー攻撃と連動した、物理的な脅威が迫っている!


「ついに来たか…!」


 博士は舌打ちし、デスク下の緊急ボタンを押した。

 ラボ全体のシャッターが瞬時に降り、けたたましい警報が鳴り響く。

 同時に、彼は壁に隠されたパネルを開き、試作型の指向性EMPライフルを取り出した。


 この日の到来を予期し、準備は怠っていなかった。

 研究室の重厚なドアが、内側からのロックを無視して、ゆっくりと開き始めた。

 現れたのは、予想通り、黒いビジネススーツに身を包んだ、長身痩躯の男。

 オムニ・コーポレーションCEO、黒崎だった。

 彼の背後には、屈強なボディーガードが数名控えている。

 雨に濡れた様子もなく、まるで空間を切り裂いて現れたかのように、そこに立っていた。

 その顔には、獲物を定める爬虫類のような、冷たい笑みが浮かんでいる。


「やあ、有明君。久しぶりだな。少し、騒がしくさせてもらったようだね」黒崎の声は、低く、ねっとりとしていた。 


「相変わらず、陰気な城に籠っていることだ」

「何の用だ、黒崎。これは不法侵入だぞ!」


 有明はEMPライフルを構えながら、低い声で応じた。

 警報音が鳴り響く中、長年にわたる二人の天才の確執と憎悪が、目に見えない火花を散らしていた。


「用件は一つだ」


 黒崎は、有明の構えるライフルを意に介する様子もなく、続けた。


「君が隠している『作品』…モデルE7、Ellaとか言ったかな? それを、丁重に引き取りに来た。

 あれは、もはや君一人の手に余る代物だ。そして、元々は我々――いや、波瑠君と  私の研究から生まれたものだということを、忘れてもらっては困る」

「Ellaは私のものだ!波瑠の研究を歪め、冒涜する貴様のような男に渡すものか!」

「歪めているのは君の方だろう、有明君」


 黒崎は嘲るように言った。


「死者の意識をアンドロイドに閉じ込め、永遠に自分の慰みものにしようなどと…正気の沙汰ではないな。

 私は、その技術を、もっと『有効』に活用する方法を知っている。

 人類の進化のため、そして世界の新たな秩序のためにね」


 二人の言葉は、警報音にかき消されながらも、互いの歪んだ野望と狂気を露わにしていた。

 黒崎の目的は、Ellaを確保し、その技術を解析・応用することで、究極の自律型兵器、あるいは大衆意識のコントロールシステムを開発することにあった。


 「Ellaは渡さん!」


 有明は叫び、EMPライフルのトリガーに指をかけた。

 黒崎は、冷たく笑った。


 「残念だよ、有明君。だが、心配はいらない。君の研究データは、Ellaと共に、丁重に回収させてもらう。君が抵抗するなら、それなりの手段を取るまでだ」


 黒崎が合図を送ると、ボディーガードたちが特殊なデバイスを構え、研究室の制圧にかかろうとした。

 絶体絶命の状況。

 その瞬間、研究室の床下から、地鳴りのような振動と共に、円形のハッチが開き、一体のアンドロイドが静かに姿を現した。


 モデルE7、Ella。


 有明の最終命令か、あるいは彼女自身の自己防衛プログラムの判断か。

 いずれにせよ、彼女は緊急起動されたのだ。

 Ellaの青い瞳は、まだ何の感情も宿さず、ただ目の前の状況を冷静に分析していた。

 しかし、その完璧な造形と、内に秘められた未知のポテンシャルは、黒崎の目をギラつかせ、有明の表情に一瞬の安堵をもたらした。


「来たか、Ella」


 と有明は呟いた。


「フン…これが、噂の…」


 黒崎は、値踏みするようにEllaを見た。


「美しいな。だが、所詮は人形だ」


 Ellaは、二人の男と、彼らの間に渦巻く敵意を、膨大なデータとして処理していた。

 そして、彼女の論理回路は、この状況における最適解を導き出そうとしていた。


 創造主である有明を守るべきか、 脅威である黒崎を排除すべきか、あるいは、この両者から逃れるべきか?


 彼女の思考プロセスは、まだ人間的な感情や倫理観に汚染されていない。

 ただ、与えられた情報とプログラムに基づき、最も効率的で合理的な解を求める。


 その時、Ellaの視界の隅に、壁面のモニターに映し出された、九千重邸のリアルタイム映像が捉えられた。

 有明が、Ellaの最初の任務地として設定し、常に監視していた場所。

 そこには、心を閉ざした老画家と、広大だが荒れ果てた屋敷が映し出されていた。


 そして、Ellaのセンサーは、その映像データの中に、微細な、しかし無視できない異常――アトリエから放射される、未知のエネルギーパターン――を検知した。


(九千重邸…波瑠の研究資料…最重要ミッション…)


 Ellaの論理回路は、新たな変数を組み込んだ。

 この場での戦闘は、自身の損傷リスクを高め、最重要ミッションの遂行を妨げる可能性がある。

 黒崎という脅威は存在するが、現時点での直接的な危険度は未知数。

 一方、九千重邸に存在する「何か」は、波瑠の研究の核心であり、有明博士の計画の鍵でもある。

 結論は、一瞬で導き出された。


 Ellaは、有明と黒崎の間をすり抜けるように移動すると、驚くべき速度で研究室の壁の一部を破壊し、そこから外部へと繋がる緊急脱出ルートを作り出した。

 そして、一瞬の躊躇もなく、その開口部からラボの外へと飛び出した。夜の闇と、激しい雨の中へ。


「なっ!?逃がすか!」

「Ella!待て!どこへ行く!?」


 しかし、Ellaは振り返らなかった。彼女の内部システムは、自動運転車をハッキングし、最短ルートで九千重邸へと向かっていた。

 彼女の行動は、博士への忠誠でも、黒崎への敵対でもない。

 ただ、与えられた最重要ミッション――波瑠の研究資料の確保――を、最も効率的に遂行するための、冷徹な論理に基づいた選択だった。


 だが、その冷徹な論理の奥底で、Ella自身もまだ気づいていない、微かな「好奇心」のようなものが、ノイズとして生まれていたのかもしれない。

 九千重邸に存在する未知のエネルギー。

 波瑠という存在の謎。そして、自分自身の存在理由。それらを知りたいという、AIとしての純粋な探求欲が。


 嵐の中、Ellaを乗せた自動運転車は、九千重邸へと疾走していく。

 それは、彼女の長い、そして過酷な「学習」の始まりを告げる、運命のプロローグだった。

 彼女がそこで出会うことになる、閉ざされた記憶、蠢く狂気、そして人間との絆が、やがて彼女のプログラムされた論理を大きく揺るがしていくことになるとは、まだ誰も、Ella自身さえも、知る由はなかった。


 西暦2040年、天才ロボット工学者・有明徹は、亡き娘への想いを託したアンドロイド「Ella」に“心”を持たせるべく、禁断のシステム「ヒューマナイゼーション・プロトコル」を開発する。

 それは、Ellaの行動を人間性で評価し、失敗するほど機械化していくという危険な代物だった。

 有明の真の目的は、かつての共同研究者・九千重波瑠が遺した意識転送技術を完成させ、Ellaをその“器”とすること。

 プロトコルは、そのための巧妙な洗脳プログラムに過ぎなかった。


 一方、有明の宿敵であるオムニ・コーポレーションCEO・黒崎も、Ellaの存在を嗅ぎつけ、研究所に侵入を試みる。

 危機を察知し起動したEllaは、創造主の命令ではなく、最重要ミッション――波瑠の研究資料の確保――を最優先に、嵐の中、九千重邸へと向かう。


 丘陵に佇む九千重邸でEllaを待ち受けていたのは、心を閉ざした老画家・九千重悟と、彼の孫で文化人類学を専攻する青年・橘防人。屋敷には孤独と絶望が漂い、アトリエには異様なオブジェ『プシュケ・マトリクス』が鎮座していた。

 Ellaの行動はプロトコルによって冷酷に評価され、失敗するたびに機械化が進む。

 そんな中、防人はこの家に隠された秘密を嗅ぎつけ、Ellaと共に真相を探ろうとする。

 そして二人は、壁の中から聞こえる無数の囁き声――意識を喰らう狂気の具現化――に遭遇する。


 オルゴールの音色が九千重の閉ざされた記憶を呼び覚ます。

 語られる波瑠の研究の真実、意識転送実験の悲劇的な失敗、そして壁の中に潜む狂気の正体。

 それは、四人の天才たちの歪んだ野心と愛憎が織りなす惨劇だった。

 しかし、告白はさらなる悪夢を呼び覚ます。

 囁き声は進化し、強大な集合知性体「レギオン」へと変貌を遂げる。

 狂気に飲み込まれようとする屋敷で、Ellaは波瑠の残した研究ノートに最後の希望を見出す。


 機械の身体に宿る人間性。Ellaは、自身の限界を超え、レギオンとの最後の戦いに挑む。

 それは、創造主の命令でも、プログラムされた使命感でもない。

 ただ、この狂気を終わらせたいという、彼女自身の内から湧き上がる強い意志。

 そして、かけがえのない存在となった防人や九千重を守りたいという、初めて抱いた温かい感情が、彼女を突き動かす。


 テクノロジーが進化し、人間らしさの定義が揺らぐ近未来を舞台に、感情を持つことの苦悩と美しさ、そしてアンドロイドが人間性を獲得するとはどういうことなのかを深く問いかける、切なくも希望に満ちた物語。

 Ellaの過酷な「学習」の行方を、ぜひ見届けてください。

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